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父 会わない「機能不全」家族


はじめに

機能不全家族(きのうふぜんかぞく、英: Dysfunctional family)は、家庭内に対立や不法行為、身体的虐待、性的虐待、心理的虐待、ネグレクト等が恒常的に存在する家族を指す。機能不全家庭(きのうふぜんかてい)とも称され、その状態は家庭崩壊(かていほうかい)、もしくは家族崩壊(かぞくほうかい)といわれている。

Wikipediaより

「機能不全家族」という言葉はまだまだ一般的
ではない。

僕もうつ病になり、noteに投稿するにあたり
勉強している過程で初めて知った言葉である。

家族の中で、この機能不全家族に当たる割合は
8割とも言われる。
子としての我が家を振り返ってみると
機能不全家族であったと言える。

そして、そんな機能不全家族から育った子どもは
精神疾患にかかりやすい傾向にあると言われる。

そんな機能不全家族で育った僕が、僕からみた
苦悩ややるせなさを綴ってみたい。

(追記)
母に焦点を当てたエッセイはこちら。


第1章 誕生


北の大地のとある商店街。

その商店街で父となる人は洋服店に
母となる人は靴店に勤めていた。
商店街の会頭による引き合わせが
馴れ初めらしい。

結婚から2年後、第1子として僕が生まれた。

 名前は父から1字もらっている。

 母は別の字をあてようとしたらしいが、
 その字が常用漢字に入ったのは翌年で
 名前に使えなかったと聞いている。

 父の字は「しかたなく」ということか。

 この頃から子どもに関して父の意思を
 感じたエピソードを聞いたことがない。

年子で妹、さらに3年後にもうひとりの
妹が生まれた。3兄妹である。

 僕が中学生の頃、不意に女子に家族構成を
 聞かれて答えたら「親、頑張ったねー♪」。
 何のこっちゃと思っていたが、今思うと
 この年頃は女子の方がマセていたということか。

僕が1歳の頃、母方の祖父「じいちゃん」が
家を建てた。
今の実家である。

父は6人兄妹の末っ子、母は4人姉妹の長女。
引っ越しと同時に我が家も同居することになった。

父は「マスオさん」ポジションとなった。

 当時どういう話し合いがなされたか
 生まれたばかりの僕が知る由もないが
 母のお腹に妹がいたことを考えると
 その時の事情もあったのかなと思う。

うちは、いわゆる「機能不全家族」だった。

父は望んだか望まないかはわからなかったが
仕事人間であった。

休みは月いち。
夜遅く帰り、朝遅く起きて出社する生活。
起きている時間に父と子は会うことがない。

僕ら子どもにとっては父という存在が
いる「らしい」としか言えなかった。

 むしろ、週いちで顔を出すおじさんの方に
 よほど懐いていたと思う。

わずかに残る記憶は
家族で行った水族館と祖父の還暦祝い旅行、
月いち休みの夕飯がファミレスだったくらい。

旅行も2日目は仕事でそのまま出社という
忙しさだった。

そして1度だけ、夜中に夫婦喧嘩を
しているのをこっそり目撃した。

あれは、何を揉めていたのだろうか?

第2章 転職

そんな父にほとんどお目にかかれない生活が
小学校高学年まで続いた。
それが日常であった。

そんなある日、何故か父が昼に帰ってきた。
今までなかったことだ。

突然、会社を辞めたのだ。

 ある朝、急に鼻血が出たという。
 過労だったのだろう。
 しかし、辞めるにあたっては母にも相談が
 なかったようだ。

 この「単独」行動は
 ゆくゆく明らかになっていく、父の本性が
 見えるきっかけだったのかもしれない。

父が、無職になった。
小学生ながら、何を意味するのかはわかっていた。
但し、失業保険の存在は知らなかったが。

 これから生活はどうなるのだろう?
 友達に聞かれたら、何て言えばいいんだろう?

混乱して、涙が出た。

落ち着いたところで、父から声をかけられた。

「キャッチボールするか?」

生まれて初めて、父とキャッチボールをした。
嬉しさと不安とが複雑に入り混じっていた。

程なくして、父は服問屋に転職した。
土日休みになったものの、給料は下がったようだ。

当時、公務員と再雇用を引退したばかりの祖父や
祖母にだいぶ生活を助けてもらっていたらしい。

その年の瀬。
当時おせち料理は家庭で作るものだった。
台所が慌ただしい。

床では餅つき機が餅をついていた。

雑煮や焼き餅用の白い餅やよもぎ餅が
できて外に置かれる。
外は氷点下。冷凍保存である。

餅が余り、あんころ餅を作ることになった。

あんころ餅が楽しみで調子に乗った僕は
あんころ餅に下品な例え方をした。

母は、それを許さなかった。

パン!と尻を叩かれ、「そんなことを言うなら
もうやめろ」と台所から追い出された。

 僕は拗ねた。
 楽しみにしてたのに。
 ちょっとの冗談じゃないか。

2階の寝室へ行き、ふて寝した。

 母には、この手の叱責をよくされた。
 「お兄ちゃんなんだから」
 「しっかりしないとダメでしょ」

 叱責からの逃げ場はなかった。

 「お兄ちゃんなんだから」には、少々理不尽な
 叱責もあったように感じている。

しばらくすると、やってきたのは父だった。
特に怒ることもなく、少し諭された程度で
納得してふたりで1階に戻った。

 信じられないかもしれないが、父に
 怒られた(諭された)唯一の経験である。

第3章 不穏

転職後の父は、平日午後7時には帰宅し
夕飯とともに焼酎を麦茶やお湯で割りながら
毎日、瓶1本弱空けていた。

酔っているのか
仕事がうまくいかないのか
テレビニュースによく文句を言いながら
観ていたのを覚えている。

そして翌朝、新聞を読みながらコーヒー1杯
だけ飲んで出ていく。そんな平日の繰り返し。

休日は買い出しやキャッチボール、釣りに
連れて行ってもらったことを覚えているが、
ひとりで外出することも多かった。

 パチンコである。

当時結果はわからないし、興味もなかったが
後々これが大問題に発展していく。

そんな中、
僕の進路を相談する相手は母だけだった。
父は聞いてもこない。

とは言っても、母も金銭条件をつけるだけだった。どちらも高卒でイメージできないこともあったかもしれない。

「私立の高校、大学はお金がないから無理だよ」
「下宿も仕送りはできない」

当時、モノづくり関係の仕事を志していた
僕にとって、選択肢はこれしかない。

北の大地
公立高校、しかも進学校(つまりは東西南北)
 からのうちから通える 
国公立大学工学部って…あそこしかないべや!

 ええ、1年浪人しましたが全部叶えました。

 希望の学科にも配属されました。

 奨学金も借りました。

 ついでに大学院も行かせてもらいました。
 (ガチ学力入試+もちろん奨学金借りて)

我ながらよくやったな。常にギリギリだったけど。
奨学金も返済完了したし。

父には全部事後報告。
それでも、大学合格は喜んでくれた。

少し話は戻る。

そんな、いっぱいいっぱい高校生だったある日
某ショッピングセンターにF1マシンが
展示されると聞き、父に頼んで連れて行って
もらった。

型落ちか、とがっかりしながらも
初めて見るF1マシンは美しかった。

クレジットカードのスポンサーイベントで
入会するとグッズがもらえるキャンペーンが
実施されていた。
父が入会手続きをして帽子をもらい、
満足して帰った。

 後に、クレジットカードの審査が
 通らなかったことを母から聞いた。
 一体どういうこと?

そして、大学院生のとき我が家を揺るがす
事件が起きた。

第4章 失踪

父が帰ってこない。
翌朝も出社していない。
電話も繋がらない。

一体どうなっているんだ?
事情を知らない僕らは混乱した。

数日経ったある日の夜、妹をバイト先に
車で迎えに行く途中、歩いている影が見えた。

父だった。

「何してんだよ、帰ろう!」
「大丈夫だから」
「大丈夫ってなんだよ、乗ってよ!」
「大丈夫だから」

父は車で追えないところに行ってしまった。

父が、逃げていった。
猛烈なショックを何とか抑えつつ、妹を迎えに行き
再度周囲を探したが見つからなかった。

なぜ?どうして?何が大丈夫なんだよ。

 後から考えると、車を降りてでも追いかければ
 よかったのだが、いかんせん混乱していた。

数日後、父が帰ってきた。
パチンコで作った借金を返せなくなったが為の
失踪だった。

どこが「大丈夫」なんだ。

生命保険解約などで何とか工面し
借金返済したらしい。
仕事にも復帰させてもらえた。

帰ってきた日の夕飯。
「まぁ、飲めよ」と父にビールを勧める
じいちゃん。
それを見たとき、じいちゃんの器の大きさと
父の情けなさで複雑な気持ちになった。

 僕がサラリーマンになって、パチンコが
 仕事で結果の出ない焦りやストレスの
 はけ口になっていたのだろう、と
 想像することはできるようになった。

 それを、じいちゃんは理解していたのかも
 しれないな。

でもこの出来事を境に、もう、こころから
父を信用できなくなっていた。

第5章 離婚

大学院を修了し、就職の為実家を離れる
ことになった。

実家を出るとき「頑張れよ」と父が声を
かけてきて、握手をした。
これが最後の握手になった。

寮に入り、入社研修を終えようかという
初夏のある日。
母から電話があった。

「父と離婚した」

驚きはなかったが、落胆した。

 2度目の失踪をしたらしい。
 そして自ら命を絶とうとし、未遂に終わったと。
 原因はやはり借金。まだ残っていたらしい。

 ショックだったのは、父の義母である祖母
 「ばあちゃん」にお金を無心していたこと。
 ばあちゃんにまでそんなことを。

 これは今でも理解できない。

伯父さんとふたりで実家に現れ、伯父さんが
土下座して借金を返したとのことだった。

伯父さんも寝耳に水だっただろう。

それでも父からの謝罪はなかったそうだ。

これが決め手となり、離婚をすることに
したと告げられた。

同時に、僕を父の戸籍から抜く「分籍」と
いう手続きを進めるという話もされ、
同意した。
涙声になりながら。

 この話には少し続きがある。

 2回目の無断欠勤ということで
 父は会社をクビになった。
 致し方ないことだろう。

 しかし、妹1だけは考えが違った。

 会社に出向き、頭を下げ解雇の取り消しを
 申し入れたらしい。

 もちろん叶わず、父は父の実家に戻った。

 そんな発想は僕にはなかった。
 妹1の勇猛果敢さ、優しさを初めて知った。

 それを父はどう思ったのだろうか。

第6章 存在否定

両親が離婚してからしばらく経って帰省した。

一度父と会っておこうと思い、父の実家に
電話した。
実家に行こうと思っていたが、父が拒否。
駅の喫茶店で話をした。

もう、問い詰めることもなかった。
実家には居たくない様子だったが
こればかりは自業自得だろう。

他愛のない話を30分ほどして、別れた。

それからしばらくしたある日。
父から電話がかかってきた。

金の無心だった。
働き口がなく、実家にお金を入れられないと。
「貸してくれ」と。

伯父さんや伯母さんに迷惑がかかるのは
見過ごせない。
「1回限り」と念を押し、お金を振り込んだ。
もちろん返ってくることは期待しなかったし
実際返ってこなかった。

 しかし、無心の相手は僕だけではなかった。
 妹1にも同じことをしていたのである。

 あの会社への申し入れの恩を仇で返したのか。

 さらに衝撃の事実を、父の葬儀で伯父さんと
 話をしたときに知ることになる。

次に会ったのはじいちゃんの葬儀だった。

新聞のお悔やみ欄で知ったのだろうか。
伯父さん、伯母さんと一緒に来ていた。

 どの面下げて来たのだろう?

久々に会った父は情けなかった。
ボサボサの頭。
ファスナーの壊れた礼服。
たどたどしい言葉。たどたどしい…?

 どうやら、スーパーの冷凍品コーナーの
 仕出しの仕事で軽い脳梗塞を起こした
 らしい。
 働く意思はあったみたいだ。

ほとんど話はしなかった。
する気にもならなかった。
ただただ、イライラした。

ただ、別れ際に一度会いに行くと言ってしまう。
なぜだろうか。今でもわからない。

実際、翌年父の実家に顔を出した。
その時の父の第一声で来たことを後悔した。

 「俺は、もうこんなところにいたくないんだ」

何言ってるの?
逆に感謝するところじゃないの?

僕の中で父という存在を否定した瞬間だった。
もう、これが生前最後の対面になってもいい。
本気でそう思った。

第7章 虫の知らせ

以降はその通り、結婚の連絡も娘の誕生も
はがきを送りつけるだけ。

何故か連絡していない伯父さん伯母さんから
お祝いをいただき、慌ててお返しを準備する
ほどだった。
一方で父からは何もなし。

 このお祝い返しが、運命の分かれ道になるとは。

何の連絡もないまま、10年が過ぎようとした
冬の日曜日。
片頭痛を抱えて苦しんでいた真っ最中だった。

知らない番号から着信があった。

普段なら間違いなく出ない。
一度切って、迷惑電話か調べるのが
いつものパターンである。

なのに、出てみたくなった。
虫の知らせというやつが働いた。

出たところ、伯父さんだった。
父の危篤の知らせだった。

 母方の実家にかけたが出なかったと。
 最近、詐欺電話防止に契約を切ったところ。

 そこで伯父さんが思い出したのが、結婚
 祝いのお返しで伝票に書いた僕の携帯番号
 だったとのこと。

 何たる偶然だろう。
 何かあったらと電話番号を記録して
 くれていた伯父さんがさすがだったのか。

病院の主治医に電話してほしいとのことだった。
それだけ状況が切迫しているということだろう。

主治医に電話したところ、状況は以下だった。
・赤血球、白血球、血小板の値全てが
 正常値の1/10以下で検査さえできない
・感染症を起こし、高熱を出している
・命が危ないので輸血をする
・コロナ禍ではあるが、特別に面会を許可する

危篤であると知ってしまった以上、
会いに行かないわけにはいかない。

会いに行こう。

妹達に会う意思を確認し、飛行機と宿、
レンタカーを確保した。
病院に連絡し、無理矢理面会の場を設定して
もらった。

有休をとって家族3人で北の大地へ。
さらに妹と合流して病院へ向かった。

ここで計算外が発生した。

面会は2人までで、ワクチン接種3回まで
接種した人に限られ、あとはテレビ電話対応
となったのだ。

まだ5類となる前のコロナ禍。
仕方ない。
実際に会うのは僕だけとし、あとは別室へ。

実に10年ぶりの再会。
思ったほど老けていない。
ただ、高熱で顔が真っ赤。
父はひたすら呟くだけだった。

「水… 水…」

意識は朦朧としているものの
辛うじて目線が動く。
意思疎通が取れる状態だった。

「〇〇だよ、来たよ!妹ふたりも
 奥さんと孫も来ているよ!」

父はタブレットを見て、わずかに頷いている
ように見えた。

話せる最後のチャンス。
伝えたい思いを端的に伝えた。

「何だかんだあったけど、生み育ててもらって
感謝しているよ、ありがとう」
「また来るから、少しずつでいいから
元気になるんだよ」

それだけ言い残し、看護師さんに水をお願いして
病室を離れた。それが最後の別れになった。

主治医は院長先生だった。
状況は電話で聞いた通り。
1ヶ月も経たず、急激に病気が進行したようだ。

そして、重い質問が投げかけられた。

「延命措置はどうしますか?」

生まれて初めて、人の命の選択を迫られた。
でも、ここはこころが決まっていた。

「助かる見込みのない措置は不要です」

数字で現実を見せられた以上、助かる見込みが
あるとはとても思えない。
さらに、原因も病名すらもわからない。

とにかく輸血は継続すること、いよいよと
いうときは伯父さんに連絡してもらうことを
確認し、病院を後にした。

その5日後、父は息を引き取った。

第8章 対面

そこから怒涛の1週間を過ごした。
上司に訃報を連絡。
妹に葬儀会社の手配をお願いしつつ、こちらの
移動手段を確保し、荷造りした。

夜中に電話で大まかな葬儀の流れを確認し
ほとんど寝られないままひとりで北の大地へ。

その足でお寺さんを手配して
初めて母に報告した。

「落ち着いて聞いてよ。お父さんが亡くなった」
「え、義実家の!?」
「違う違う、うちの(?)お父さん」
「ああ、〇〇さん(父の名前)か」

何か薄情なリアクションだな。

とはいえ混乱していたらしく、「母方親族に
黙ってな」と母が自分で言いつつ、
拡散するという謎行動をかまされていた。

気を遣わせない配慮だったんじゃないんかい!

まず実家に行き、近くの伯父さん1の家へ。

お墓のこと、葬儀のこと、近況を話して
通夜前の顔合わせと葬儀に出てもらえることに。
80過ぎの高齢をおして。

頭を下げて家を後にした。

母の車を借りて1時間で父実家へ。
ここから母の車大活躍だった。

父の実家に寄り、伯父さん2、伯母さん1に挨拶。
連絡をくれた伯父さん。
感謝しかない。
頭を下げた。

ここで衝撃の事実。
父は実家に一銭も入れていなかった。

 マジかよ。
 それで居たくないとか
 子どもにお金無心してたわけ?

 さらに家事もやらず、ただ自分用の日本酒を
 買って夕飯時に飲むだけ。

 どれだけ自堕落な生活してたんだ?

死人に口なしとは言うけど、言語道断だろう?

遺品一式を受け取り、葬儀会館へ。
今回は父の実家のすぐそばでお願いした。

初めて亡骸となった「父」と対面した。

亡くなった人からは、ただ寝ているだけではない
独特の存在感を感じる。
両家の祖父のときも、父方の祖母のときも
そうだった。

ひとだった人が、ものに変わる感覚。

ただひとつ違ったのは、涙が出なかったこと。
これは初めてだった。

もう、不安障害とか片頭痛とか言ってられない。
アドレナリンの出ている状態であれこれ
決めていく。
これだけ仕事できればなぁと内心思いながら。

翌日通夜、翌々日の葬儀火葬が決まった。

ここで一旦母実家へ帰宅。
冬道運転は慣れているが、この年は道路の
陥没が多く気が抜けなかった。

翌日、うちの妻子を空港まで妹1夫婦に
迎えをお願いし、妹2と葬儀会館へ。

ここからは正直喪主としての努めで
頭いっぱいで、詳細を覚えていない。

娘はあの長時間をよく耐えた。
本当は遊び回りたいだろうに、声も出さず
おとなしく座っていた。

さすが、やるときはやる子。
七五三の「祝詞中おむつモリモリ事件」から
成長したなぁ。

火葬、繰り上げ法要まで終わり
遺骨は春の納骨まで父の実家で預かって
もらうことに。
ここでもまた頭を下げた。下げっぱなしだ。

そして、子どもから今までのお礼として予備で
用意していたお金を渡した。
それなりのまとまった額。

それでも足りないくらい迷惑はかけただろう。

喪主の仕事はまだ終わらない。

怒涛の手続きラッシュ。
ちょっとずつイレギュラーがあり
通常の手続きで済まない。

 手続きAは〇〇区
 手続きBは△△区
 手続きCは□□区
 手続きDは◇◇区

ネットでやらせてくれ!
(父がマイナカード作ってなかったけど)

※ちなみにある手続きで戸籍履歴が市区町村を
 またいだら、対象の市区町村全てから書類を
 取り寄せないといけないとか、どういう
 罰ゲーム?

宗派による遺骨の扱いをどうするかも
悩んだ。
ただ、うちは檀家じゃない。
いろいろな人の話を聞き、こだわらないことに
した。

うちは浄土真宗大谷派だったが、分骨して
京都の本山に納めるのが本来らしく、
手続きもかなり負担だった。

無信仰のやる所業じゃないな。

ここで大半の手続きを終えた僕が
北の大地から帰宅した。
また片頭痛が戻った。

妹2人に墓地の検討をお願いして
父方祖父母と同じ霊園の合同墓を確保
してもらった。

仲のいい兄妹で本当によかった。
遺産がなぜかそれなりにあり
そこも等分ですんなり話がついた。

そして2ヶ月後。
この年4度目の帰省をし、納骨が完了した。

終わった。

その夜、久々に晩酌した。
これが今のところ、自分の人生最後の飲酒だ。

眠りにつくとき、一筋の涙がこぼれた。
父が亡くなって初めての、そして唯一の涙だった。

第9章 解放

ひとつ、気になっていたことがあった。

父が母方の祖母に無心したお金は返されて
いるのか?
卒寿のばあちゃんに直接聞いてみた。

 あの、伯父さんの土下座のタイミングで
 全額返ってきたそうだ。
 母も知らない事実だった。

それを聞いて安心した。
さすがの父もそこまで不義理はしなかったか。

これで残された子どもの役割を一応は果たせた。

小さい仏壇を我が家に用意し、遺影と
電子ろうそく、線香を買い揃え
酒と菓子を供えてたまに拝んでいる。

今頃祖父母や、後に亡くなった伯母さんふたりに
怒られているんだろうな。

やっと、やっと父の存在を否定する呪縛から
解放された。
そんな気がした。

終章 「機能不全」家族

話は、父だけに留まらない。
母にも昨秋、病が発覚した。

何の因果か、またも血液の病気。
名前は長すぎて覚えていない。

父ほど急性ではないようだが、
一応の余命宣告を受け、抗がん剤を
使用した治療を受けている。

今のところ、経過は問題なさそうだ。

幸い、母と3兄妹は良好な関係にある。
しかし、それぞれが何かを抱えている。

機能不全家族だった我が家が
せめて完全に終わるときまで
助け合いながら笑顔で生きていきたい。

そのとき、初めて「機能不全」の文字が
取れるのだろう。

(了)

おわりに

この話に脚色はない。

そんな中ひとつ、書くかどうか迷ったことがある。

もう父と会わないと決めた本当の理由だ。

本当は、怖かった。
電話すら取りたくなかった。

父という存在を勝手に否定したところで
血縁者であることは変わりない。

 もし、実家で父がひとり生き残ったら?
 もし、父が実家を追い出されたら?
 もし、父が自分の意思で家出したら?

おそらく僕を頼るだろう。

そして、僕は嫌でも血縁を理由に
受け入れざるをえなくなる。

そのとき、僕はどうなるだろうか。

いつか、壊れるだろう。
ただこころが壊れるだけなら、まだいい。
もっと恐れたことがあった。

父を、手に掛けるのではないか。

妻子を殺人犯の家族にしてしまうのではないか。

そんなことはしたくない。
会わなくていい。
会わなくて…いい。

会わなかった10年間、時折頭によぎり
その度に恐怖を覚えていた。

その、恐怖という呪縛からも解放された。

もう悩まなくていいんだ。
恐れなくていいんだ。

だからこそ、最後に「ありがとう」と
素直に言えたのだ。

仏壇に向かって手を合わせる。
僕らを、孫を見守ってくれよ。
そんなことを念じながら。

このエッセイを読んで、ひとりでも多くの方が
自分ごととして捉えていただき、機能不全家族に
陥ることのないように願い、ここに記す。

とことこてー

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