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坂本九渡米に三千人?シティポップ、アバと上を向いて歩こうPart5、リアル70年代〜洋楽女子話61
母の私の音楽好きが災いしたのか、子供2人がポップスの作曲家と、クラッシック演奏家を目指すようになったのか?…とちょっと後悔?もなくはく無いけど。
70年代半ばから、音楽が生きることを助けてくれたけど、黒歴史(?)もある…笑
曲はアメリカでヒットした年、63年リリース。
梓みちよの『こんにちは赤ちゃん』
先週もこの記事のシリーズで、特に好き❤️をいただいたようで、ありがとうございます🙏
毎回、読んでいただいている、皆さまのおかげです。
まさか、続けて頂けるとは?で。
本当に感謝しています。
赤ちゃんは存在だけで、幸せをくれるから、この曲で癒しを届けられたら…って。
が、この曲も今回の記事の一端で。笑
何と、海外で発売された曲。
やっと『SUKIYAKI』がアメリカ上陸する話。本音は、早く終わりたい。笑
こんにちは赤ちゃんも海外に
この曲は、アメリカで『SUKIYAKI』がヒットした、同じ63年リリースで。
同じ作家の作品だから、『上を向いて歩こう』のヒットを受けて、何故かイギリスのデッカから、日本語のこのままで、リリースされたって。
ビックリだったわ〜、笑
イギリスでヒットの記載は無いけど。
そして、この年のレコード大賞曲。
六八コンビは、2度目の受賞。
元は、中村八大に子供が産まれたから、永六輔がプレゼントした詩。だから主人公は、男性でパパの内容だったらしく。
女性が歌うなら、ママにしないと…で歌詞が変更に。
八大作品もそうだけど、当時の曲は基本ワンコーラスがかなり短い。その代わりにか、3番まであったり。
結果として、印象的なフレーズが繰り返されるから、ハマりやすいか?はあるかもなぁ…。笑
『SUKIYAKI』じゃないタイトル
イギリスのインスト版のタイトルは、
前回の記事に書いた『SUKIYKI』に。
が、フランスでは原曲のタイトル内容に近い、フランス語に。
アメリカもこの『SUKIYAKI』、ベルギーやオランダでは、『忘れ得ぬ芸者ガール』とか言う、タイトルでリリースされたらしい。
スキヤキもスキヤキだけど、男女の恋愛の曲でもないのに、芸者ガールとか言うネーミングは、やっぱり昔の日本と言えば、芸者、フジヤマの感じが、まだイメージとして、強かったんだなぁ…を思わせる感じで。笑
アメリカでは、坂本九の日本語盤を、ワシントンのKORDラジオのDJリッチ・オズボーンがラジオで流した。
彼の番組の、高校生リスナーが日本の文通相手から、貰ったレコードから始まる。
坂本九の日本語版のレコードを入手して、ラジオ番組で「SUKIYAKI」として紹介すると、局にリクエストが殺到した。
アメリカ人が感じたこと
当時のアメリカの人には、メロディも今までの曲調とは違い、ボーカルもジャズやロックのようなテイストがあると言う、意見や感じ方だったようで。
感想の記載が少ないので、具体的にはわからないけど。
ポイントの、一つはメロディーの曲調が、違うって感じ方。
それは、このシリーズのPart 1でやった、世界の音階に関係するのかと。
この曲は日本の民謡とかに多い、ヨナ抜きの音階の曲。
曲は『上を向いて歩こう」の翌、62年に六八コンビの、永六輔が関わった、旅番組のテーマ曲。『遠くへ行きたい』。
歌は、ジェリー藤尾。
この曲は子供のころは、暗くて怖い曲だった。どこかへ行って、そのまま売り飛ばされそうな感じがして。笑
日本のヨナ抜き音階
日本の西洋音楽界、特にクラッシックやJAZZ系では、このヨナ抜き音階を使った曲は、西洋からは外れていて、わりと遅れてる、ダサい、古い日本の感じ?な風潮も、この頃にはあったか?で。
最近でもそんな傾向は、クラッシック界にはあるようだし。
20年くらい前には子供に、作曲をやってみよう!って時には、「日本風にしたいなら、この音を使わないでやってみて」とか。
夏休みに沖縄へ行った思い出を、曲にした子には、「この音抜いて、こんな音階で作ると、より沖縄風になる」とか、小学生に基礎を教える時に、実際にそんな話をしてたなぁだけど。笑
Part 1で説明した、ヨナ抜き音階と、琉球音階。作曲が専門じゃない、ピアノが専門の先生だけど。
先に出たトランペットのJAZZバージョンも原曲ままの、ヨナ抜き音階だけど、フレージングが、多少坂本九とは違う。
トランペットは、母を亡くした悲しみを込めて演奏をしたって、話してるように、この曲には明るさの中に、そこはかとない悲しみや、寂しさを感じさせる雰囲気がある。
アクシデントの部分が採用
坂本九は、リサイタルの本番2時間前に楽譜を渡されて、急遽歌ったせいで、色々と本来の楽譜とは、違う歌唱になったのも、Part4で紹介した通りで。
ピートも4拍子を8ピートでカウント。
邦楽に親しんでいた坂本九は、曲の頭の1拍目から入らすに、裏の拍から入って歌い、途中短調=マイナーな音にしてしまったのも、レコードではそのまま、採用。
採中村八大は、そのほうが良いと判断したようで。
ある意味、中村八大と坂本九の、合作の部分もある曲になった感じ。
レコードで途中、間奏などに入る口笛も坂本九が吹いてたらしく。
コレを入れるアイデアは、誰が発案したかはわからないけど、あの部分もアクセントになってて、好きな部分。
全体的に、トランペットの演奏より、ヨナ抜き音階の特徴が感じやすい歌い方。
何せご本人は、子供時代に日本の邦楽を、三味線片手に歌ってたから。笑
おそらく自然に、ヨナ抜き音階の肝の感じを、よく表現出来て、かつ西洋のロックやJAZZのノリで歌える、日本でも限られた歌手だった、可能性が高いかも?で。
民謡とかのヨナ抜き曲を、ロックやJAZZのテイストで、歌えると言う意味では、最適な組み合わせだったのか?
JAZZやクラッシックでは、王道を外れた音階扱いだったのは、作曲の中村八大も知ってはいたハズ。
が、彼は自然だったのが、意図したのかはわからないけど、曲はヨナ抜きだけど、民謡に多い短調ではなく、明るい長調のヨナ抜き音階にした。
元々は、この曲は歌詞がないインストで、リサイタルで演奏する曲として、ピアノか、オーケストラの楽器が、メロディーを弾く前提で作られた。
だから、歌詞に引きづられてでは無く、自分が良いと思う曲を、自分の好きなように作った可能性が高い。
中村八大の音楽
中村八大の音楽歴をまとめると
⚫︎幼少期から西洋音楽に馴染んでいた
(西洋音楽をクラッシックから、JAZZやいわゆるポップスも耳にした?)
⚫︎ピアノの演奏レベルは高く、クラッシックの作曲の基本は理解。
⚫︎戦後が14歳。進駐軍向けの放送などで、アメリカのJAZZやポップスを聴き。
⚫︎JAZZの演奏活動は、高校時代から
⚫︎クラッシックとJAZZが融合する音楽を試みたが失敗。
⚫︎巡業や観てきた舞台で教えられた、「音楽は観客と遊離するべきものではない」を自分で忘れていたことに気づいた。
ヨナ抜きで短調だと暗すぎる。JAZZをやってたから、ブルースのペンタトニックスケールも知ってただろうし。
そんな洋風の5音階とは、ちょっと違う自分らしい音階を選んだら、ヨナ抜きになった可能性もある。
大陸生まれで、あまり日本の音楽や民謡には触れずに育った彼にも、やっぱりヨナ抜きは、郷愁を感じる音階だったのかも知れない。
あくまで全部、私ごときの、勝手な推測だけど。笑
『上を向いて歩こう』が、発売年の61年のレコード大賞曲、『君恋し』歌手は、フランク永井。
が、これは26年の曲で、既にカバーが沢山あり、フランクのはリバイバル。
作詞:時雨音羽、作曲:佐々紅華。
何故新しい音楽のための賞だったのに、選ばれるのか、よくわからないけど。笑
日本では不評だった歌い方
レコードは凄く売れたけど、歌謡曲界隈では、曲は不評だったらしく。
主な理由は、彼のロックンロールな歌い方が独特過ぎる、個性的を通り越して、保守的な人には不評で。
評価が低く、レコード大賞も取れず。
新しい音楽を作るのが、目的だったレコード大賞なのに…。笑
この年の大賞は、フランク永井。私は子供の頃は、退屈な感じで苦手だったし、まあ、王道の歌い方な感じの人。良い声だけと、暗い感じが漂う声。
坂本九は、あの笑顔もあるけど、声が明るい。かなり高めだけど何を歌っても、何故かわりと明るく聴こえる。
明るい声の歌手は、実は少なめな気がする。特に男性で、日本の歌謡曲関係とか、ポップス全般的に。他は細川たかしぐらいか?な感じ。笑
若い時代の北島三郎は、少し明るめ?ぐらいで、他はなかなかいない。女性はまあまあいるけど。
世界でもスティービー・ワンダーぐらいか?なほど、男性で明るく感じる声は少なめで。優しいジェームス・テイラーも、明るいまでいかないし。
明るい声だから、その後も明るめの曲が、採用される率は高くて。『幸せなら手をたたこう』とか。
小学校の運動会前には、フォークダンスの練習で、学校の校庭で鳴り響いてた、『レッツキッス』(原題ジェンガ)。
フォークダンスにしては、暗めの曲だけど、坂本九なら小学生も踊ってしまう。笑
明るい声プラス、やっぱりリズムの感じられる歌い方だった人かなぁ…で。
もしかして、暗いあの『ドナドナ』を歌っても、坂本九ならそれ程、悲しく聴こえないのかも?笑
この曲は、イントロは短いけど、ここも良き。笑
坂本九のこの曲の歌い方について、
日本語版のWikiによると
「「邦楽のう〜えをむ〜いて」を「ウフエヘヲホムフイテ」というように言葉の裏の音「ウフ」「エヘ」「オホ」と、邦楽の素養も、洋楽の要素も持ちながら表現した独特の歌い方は、だれもやっていない当時最も斬新な歌い方であったと九重佑三子がのちに回想している。 また、斬新で新しい歌唱法と同時に、当時はまだまだロックン・ロール(ロカビリー)は音楽的な市民権を得てなかったこともあり、坂本の歌はとても個性的で注目されたが、保守的な大人からはそれほど評価は高くなかった。 デビュー当時は、本人も大好きなアメリカンポップス、ロックをカバーして歌っていたこともあり、カバー歌手はほかにもいたが、体の芯から理解して日本語を英語のようなグルーヴで歌うのも初めての歌手だった。 また、キーが高めで軽いハスキーな声質も個性的であった。」
って書いてある。
九重佑三子は、私たちの世代だと、コメットさん!だし、歌も歌ってたし、同じ歌手仲間からの証言として、興味深いなぁ…で。
永六輔も、レコーディングの際立ち会っていて、上の記載のような部分、日本語として正しく聴こえない歌い方が、気に入らず、「そんな歌い方じゃ、売れない!」って、怒ったらしく。笑
後に、坂本九が母と一緒に、小唄を歌っていた話とかを聞いて、「邦楽からのあの歌い方だったんなら、理解出来る」的な話をしていたらしい。
が、今の時代で聴いたら、邦楽の歌い方だの、浪曲の影響で1拍遅れて入ったとか言う話は、私にはちょっと違うかなぁって感じるけど。また、私ごときがだけど。笑
あの歌い方は、多分にやっぱりロックンロールや、JAZZなどの影響を感じて。
前の記事で紹介したように、ナット・キング・コールを歌う小学生だったんだし。笑
イントロ部分をノリながら、聴いて自然に裏拍になったから、1拍遅れたのでは?を感じるし。
リハーサルもなかったようだから、音楽にノッてたら、身体のリズムそう反応した結果な感じはする。あくまでも推論だけど。笑
浪曲も関係してたかも?
緊張したり、ボーっとして、1拍入り損ねた可能性も無くは無い。笑
が、多分そこら辺が理由なら、レコーディングの時に、中村八大から直されただろうし。
あの曲が、あの感じになって、ロックやJAZZの本場のアメリカ人に、そんな感じのノリを感じさせたのは、ピートの取り方や、彼の拍感も大きかったかなぁ…な気はしたり。
歌い方が、他の日本人と比べると、かなりリズミカルだし。
日本語とアメリカでの発売
リクエストが殺到した話から、当時、東芝とレコードと提携していた、アメリカのキャピトルから、リリースが決まる。
最初キャピタルは、アメリカでは英語以外の歌が、ほぼヒットしていないので、英語で歌わせようと考えたらしい。
が、日本語のレコードをかけてた、ワシントンのDJのオズボーンは、日本語のまま発売するべきだと言ったらしく。
彼は朝鮮戦争の時期、米軍にいて日本にいたことがあった。だから、高校生の持ち込んだ、日本語のレコードも聴いてくれたのかも?で。
考えてみたら朝鮮戦争どころが、占領軍、GHQとして多くのアメリカの軍人が、日本にたくさんいた時代で。
占領終了が52年だから、約10年前。
正確な数はわからないけど、記録では
45年の終戦直後には、実戦部隊が約440万人、翌年にはには約220万人。次第に減って、3年後には年10、2万人になった。
が、冷戦などで、49年には2万人ほど増えて、50年には朝鮮戦争が始まり、日本から派兵されたり。
最終的に講和条約発効した時期の、52年にも、まだ26万人のアメリカ軍人がいた。
他に英連邦軍として、イギリス、インド、ニュージーランド、オーストラリア軍の混成部隊が、だいたい平均約3万人ほど駐留。
朝鮮戦争で戦ったアメリカ軍兵士の数は、ハッキリしない。
国連軍と言う形で、53年の休戦時で、アメリカ軍人は約30万人。
後方司令部は、東京などにあったり、部隊の入れ替わりがあるので、占領時期と朝鮮戦争を合わせると、日本語に触れた人の数は、かなり多かったと推測出来るかと。
ちなみに45年の大戦終了時期の、アメリカ軍の総数は、800万人。
そんな背景もあり、DJは日本語に馴染みのあるアメリカ人も多く、日本語で売り出した方が受けがいいと主張、日本語のオリジナルバージョンが、そのままでリリースされることに。
アメリカでのB面の曲が、何だったのか、判明。日本語版B面と同じ曲と、アメリカのカバー曲『ステキなタイミング』だったよう。
カバー曲がR&Bの人の曲だから、R&Bチャートに入ったのかも?
カバー曲は、R&Bのジェイムズ・ジョーンズの曲。『Good Timin' 』。この人の作った、『Handy Man』は、実は大好き
私が知ったのは、全然違うバージョンのジェームス・テイラーのだけど。笑
両方とも、全米2位、3位な曲。
『あの娘の名前はなんてんかな』も、六ハコンビに、坂本九歌唱の、六八九トリオの曲。
ほぼちゃんと聴いてなかった曲かも?
内容がコミックソング的だから、笑
手当たり次第に呼んでも、私の名前は当たりそうには無いけど。笑
R&B分類の曲の売れ行き
が、これまたキャピタルの人の案で、
名前の『SAKA』と韻を踏むように、タイトルを『SUKIYAKA』で発売することが決まったけど、もはや『スキヤカ』だと日本語でさえないから、東芝の側が反対し、結局『SUKIYAKI』に。
まあ、もう意味のない言葉だから、どっちでも良かったのでは?ってなるレベルの話で。笑
既にリスナーはいるし、インスト版もイギリスでは売れてたから、知られてる
『スキヤキ』にしたんだろうと。
アメリカでの、発売は5月3日。
で、ひと月後の、ビルボードのチャートで1位に。6月15日付けから、連続3週。キャッシュボックスや、レコード・ワールドでも、ほぼ同じ時期に4週1位とかだから、アメリカでヒットは間違いないし、発売してすぐに売れた。
6月8日には、ビルボードのR&Bチャートで、最高18位。
坂本九が、R&Bチャート?だけど、この曲はアメリカの人の認識でも、R&Bだったのか?有色人種括りでR&Bになったのか?はわからないけど、ともかくR&Bに分類されてた。笑
後には、ブラック系の人もカバーする。当時のR&Bチャートは、基本的にブラックな人向けだから、やはり支持はあったかと。
が、コレだけ人気になっても、日本でも、アメリカでも一般新聞では、全く話題にならず。一部のアメリカで発行されてる、日系人向け新聞が、唯一取り上げただけ。
黒柳徹子も、日本ではチャートもなく、ビルボードのチャートで1位の意味が、当時はよくわかってなかったから、「良かったね」ぐらいしか言わずにいた、とか話していて。
坂本九の渡米に三千人?
発売と渡米は、63年。発売の3か月後に、キャピタル側が招いた。
実はビートルズが、アメリカに初めて行ったのが、翌64年。
坂本九のほうが、早くアメリカに渡っていて、この年の8月。坂本九もまだ21歳。
空港には、3000人?10000人?
どっちの記載もあるけど、とにかく大勢の人が、押し寄せた。
たかが戦争に負けた、まだイエローモンキー扱い?をされてた日本人に、多くの人が集まったのは、ビックリで。笑
ちなみに、ビートルズを出迎えたファンも3000人?5000人だったようだから、同じレベルのファンが集まった感じか?
坂本九は1曲だけだし。ビートルズは渡米した時期には、イギリスでは1位も取ってたし、アメリカでも1位曲含めてシングルヒット5曲を発売し、アルバムもリリースした後の渡米。
ビートルズも当初は、イギリスのEMIの提携先は、坂本九と同じキャピタルだったけど、キャピタルは、ビートルズのレコードの発売を拒否。後には販売するけど。笑
坂本九をリリースして、ビートルズを断るとか、笑い話みたいだけど、時期的ににも、ほぼ同じぐらいの時期で。
一部には、坂本九のプロモーションには、ビートルズより宣伝費をかけて、力を入れたって話もあるから、坂本九で手いっぱいで、ビートルズを後回しにしたのか?笑
売れそうな感じがしたら、いくら何でも発売ぐらいはするハズだけど。
アメリカのキャピタルレコードも、今一つ戦略的な、アーティストを見る目が無い会社だったのかも?笑
アメリカで売り出す戦略
後からなら、何とでも言えるけど、やっぱり坂本九のプロモーションが、成功していたら…。
日本語の日本人アーティストの曲も、最近のシティポップブームまで、約50年も空白の期間はなく、シャンソンみたいに、一つのジャンルとして聴かれてた可能性を考えると、色々と残念で。
ビルボードの1位にも、東芝の人も「遠すぎるから、実感はなかった」なんてコメントを読むと、確かにまさかの出来ごとだったんだろうけど、かなり残念。
レーベルの担当が、こんな感じだったら、なかなか戦略的には考えられてなかったんだろうと。
渡米もキャピタル主導。キャピタルは変なタイトルも考えるけど、ヤル気はまあまあ感じられる。笑
渡米時期や、誰と会うかとかのアレンジは、おそらくキャピタルにお任せだったにせよ。
ちなみに、滞在中には、キャピトル社長一家をはじめとして、ニューヨーク市長、クインシー・ジョーンズ、ディズニーランド副社長や、多くのアーティストや著名人と対面しており、キャピタルのバックアップは、かなり力を入れた感じで。
曲はこの時期の曲だし、今も流れてるオシャレな曲。『Soul Bosa nova』
さすが、クインシーな感じで、コレが50年以上前の曲とは、思えない。笑
クインシー・ジョーンズも、当時はビッグバンドJAZZの編曲したり、ヨーロッパの数々のビッグバンドや、自身のバンドでも成功し、アーティストのプロデュースを始めた時期。
62年に代表曲にもなる『ソウル・ボサ・ノヴァ』を。渡米時期の63年には、ビルボード1位曲をプロデュースし、その後は、マイルス・デイヴィス、フランク・シナトラらもプロデュース。
もし、クインシーが、坂本九をプロデュースしたら、どんな曲がどんな風に出来たのか、中村八大も加わったら、どうなってたか?は、興味ある感じで。
テレビ出演の選択
当時有名人がゲストで歌うなら、やっぱり「エド・サリバンショー」が第一候補。ステイタスも視聴率も高かったし。
が、日本の映画撮影のスケジュールを優先して、オファーがあったのに、エド・サリバンを断っていて。
コレが第一の残念ポイント。
出演したのは、もう一つのほうの「スティーブ・アレンショー」。
番組では、最初にこの曲を歌って、通訳が2人付いてのトーク。日本語ジョークを披露させられても、あの明るい話し方のせいか、何だかウケてて。笑
最後にミュージカルの「マイフェアレディ」の曲、『踊り明かそう』を、日本語の中に、部分だけ英語の入った歌詞で歌ってるけど、やっぱり上手いなぁはあって。コレが20歳そこそこ?な感じがするから、キャピタルが本気になるのもわかる感じ。英語が入るとよりリズム感あるし。
テレビのこの2つの番組は、日曜日夜のゴールデンタイムの、8時からの同じ放送時間。
最初はエドのほうがこの時間で、後に深夜枠だったスティーブショーを、局が同じ時間帯に移動させて、この時期には真っ向勝負をしていて。
が、視聴率はエドのほうが高かったから、注目率は高い。アメリカ人なら、知っていたハズ。
翌年は、ビートルズもエドに出てたし、モータウンのブラックガールズグループなんかも、映像でたくさん出演してたのが、よくわかる。
が、この渡米とテレビの効果か、さらにアメリカ国内でレコードが売れて、100万枚を突破。
外国人初の、全米のゴールドディスクを受賞し、後の88年にはアメリカのテレビ、ラジオのオンエア回数が、100万回以上のBMIの「ミリオン・エアー」を受賞。
この曲は結果的には、世界の70ヵ国で発売された。
アルゼンチンでは、スペイン語にした、タンゴ編曲版も出来て、日本人タンゴ歌手が歌うタンゴバージョンも出来て、コレも大ヒットしたらしい。
日本の坂本九映画?
契約はあっただろうし、目先のお金にはなっただろうけど、世界を考えてたなら、映画のスケジュールを何とかして、エド・サリバンと、スティーブ・アレンの両方に出るのが正解だと、普通に考えればそうなる。
この後には、坂本九を移住させて、アメリカで本格的に、売り出す計画もあったとか。
アメリカ側のレコード会社と、日本のレコード会社やマネジメント側の温度差は、かなりあったか?で。
アメリカのキャピタルは、かなり本気で坂本九を評価してた様子が伺えるし、中村八大の曲も、もっと世界で聴かれたかも?だし。
日本のポップス界では、大きな出来事。
国内ではタレントとして、商品として坂本九のキャラクターが、認知されて人気でも、アメリカでは曲が、歌が人気。
ならばヒットした次に、その後にどんな曲を出すのかが、より重要。
なのに、世界やアメリカを考えたとは、あまり思えないような曲のリリースが続き、結果アメリカでは、一発屋のような形に。本当に残念な感じで。
辛いことがあると、私は勝手に脳内再生される、この曲。
「幸せは空の上に」って部分を聴くと、ちょっと泣きそうになる。理由は改めて。笑
その後の活動や、曲については次回。