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仏教と深く関わる稲盛経営哲学の「利他の心」は、「両利きの経営」によるイノベーションに通じるかもしれない

「ベンチャーキャピタルをやめてお寺に入りました」
このように自己紹介すると、「えげつない金儲けを反省して出家したんですか?」などとからかわれる。

えげつないかどうかは置くとして、資本主義の最先端を走るベンチャーキャピタルと、古くから私利私欲を戒めてきた仏教寺院は全く違う世界だ。だから、「ベンチャーキャピタルをやめてお寺に入りました」と言えば、「どうしてですか?」とびっくりされる。そして、「実家の寺に入ったんです」と事情を話すと、「なーんだ」と納得してもらえる。

自分の経歴を話すと、稲盛和夫氏に言及する人も多い。自ら創業した京セラやKDDIを日本を代表する革新的企業に育て上げ、さらにはJAL再生にその手腕を振るった大経営者が仏門に入ったことはよく知られている。稲盛氏の経営哲学は、仏教と深く関わっている。

中島隆博編『人の資本主義』という稲盛経営哲学研究センターの成果をまとめた素晴らしい本

その稲盛氏の経営哲学を研究する組織が立命館大学にある。稲盛経営哲学研究センターだ。

稲盛経営哲学研究センターは、稲盛和夫氏の「利他の心」をベースとした経営哲学の普遍化を目指すという。仏教と深く関わる稲盛氏の利他が革新的なビジネスとどのように関わるのか。とても興味深い研究だ。その成果をまとめた書籍、中島隆博編『人の資本主義』(東京大学出版会)が出版されたので、さっそく読んだ。

本書の編者は、「稲盛経営哲学研究センター」副研究センター長の中島隆博氏だ。東京大学東洋文化研究所教授であり、東洋哲学の大家としてよく知られた方だ。西洋の哲学にも通暁していて、マルクス・ガブリエル氏と『全体主義の克服』という本も出している。もの凄い学者さんなのだが、経済・経営についてもこのような素晴らしいお仕事をされているとは・・・。すご過ぎる。

稲盛経営哲学の「利他の心」は自由をもたらす

『人の資本主義』には、10人を超える気鋭の執筆者が参加されていて、大変魅力的な議論が展開されているのだが、それらを貫く考え方が中島隆博氏による「あとがき」に示されている。

最後に、新型コロナウィルスという疫病は、おそらくわたしたちの社会と社会的想像力を根底から変えるものだと思います。わたしたちは岐路に立たされているのではないでしょうか。それは、人の生をますます制御し支配する方向に向かうのか、それとも人の生をより豊かに自由にしていく方向に向かうのか、です。危機を利用する言説は、しばしば全体主義的な監視に人々を誘導します。それがどのような結末を迎えたのかは、20世紀を振り返れば容易にわかるはずです。もし「利他の心」を生きるのであれば、それとは異なる方向に向かうべきだと思います。「人の資本主義」が開こうとするのは、人がともに人間的になる未来であり、それを支える社会・経済システムです。
(『人の資本主義』 pp.363-364)

ここで強調されているのは、自由だと思う。「人の資本主義」の「利他の心」は、自由と深く関わっている。コロナ禍において、自由が不当に制限されていると感じている人、そこに戦時中の全体主義的なものを見て取る人もいる。このような状況下で、我々は、いかにして人間らしい自由を守り、豊かな生き方をできるのか。その重要な手がかりを、稲盛経営哲学の「利他の心」は示してくれる。

「道徳的な利他」は共同体で共存していくために必要なもの

利他と聞くと、「困っている人を助けましょう」といった学校の道徳の時間に習った善行を思い出す。このような利他を、「道徳的な利他」と呼ぶことにする。「道徳的な利他」は、我々が一緒に生きていくために必要なものであり、必要なゆえに「○○したほうがよい」と推奨される(強制されることもある)。道徳の時間に「お年寄りに席を譲りましょう」と習うのは、「お年寄りには席を譲ったほうがよい(推奨)」、あるいは「譲りなさい(強制)」という意味であって、「席を譲るかどうかは、自らの意志で自由に決めてよい」ということではない。「道徳的な利他」は推奨(ときには強制)されるものであり、そこに自由を見て取る余地は小さい。

「情けは人のためならず」という諺があるのは、利他をすれば、それが巡り巡って自分を含む共同体を維持するのに役立つからだ。利他をした相手だけでなく、自分のためにもみんなのためにもなる。人間は古くから経験的にそのことを知っている。だから、共同体で共存していくために「道徳的な利他」の実践が求められる。我々は、共に生きていくために「道徳的な利他」をしたほうがよいのだ。推奨あるいは強制される「道徳的な利他」に対して、「人の資本主義」の利他は自由に関わるから、少し違うものだと思う。

「道徳的な利他」と全体性が結びつくと全体主義化する

利他と自由の関係を考えるにあたり、中島隆博氏の別の論考を手がかりにしたい。末木文美士編『死者と霊性:近代を問い直す』(岩波新書)という本に収められた「地上的普遍性ーー鈴木大拙、近角常観、宮沢賢治」である。

これによれば、仏教学者の鈴木大拙は、全体主義に対抗するために『日本的霊性』という本を書いた。

鈴木大拙が『日本的霊性』を書いたのは一九四四年である。そこで大拙は霊性すなわち宗教性の次元を発見しようとした。それは、当時政治的に理解されてしまっていた日本精神や、制度化された宗教とは異なるものであった。では、精神や宗教から霊性を区別することによって、大拙は何をしようとしたのか。わたしの理解では、全体主義に対抗するために、「地上的普遍性」を構想し、大地に根ざしながらも普遍性に開かれた社会を実現しようとしたのである。
(『死者と霊性』 p.223)

『死者と霊性』という本は、仏教が、一歩間違えると全体主義に加担するリスクを孕んでいることを指摘している。お寺で「個々の生命としての我々は、仏という大きな生命という全体を共有している」といった法話を聞くことがある。そこには、共同体がバラバラになってしまったことを嘆き、人々の繋がりを再生させたいという思いが託されている。仏という大きな生命、あるいは全体的なものを共有していることを確認することで、人々の紐帯を回復しようというわけだ。こういう話がされるのはお寺に限ったことではない。ビジネスの世界でも全体性という言葉が使われることがある。例えば、10万部以上売れている『ティール組織』という本も全体性を重視している。

言うまでもなく、人と人との繋がりはとても重要だ。しかし、バラバラになってしまった個を繋げるために全体性を重視するという議論には危うさが伴う。個の自由と全体の調和を対立的に捉えたうえで、全体の調和の方をより重視すれば、個々の自由を蔑ろにする全体主義に陥ってしまう。

利他を、共同体の維持や全体の調和のためのものと位置付けて「道徳的な利他」を説くとどうなるか。「共同体のために、みんなのために利他をしよう!」となる。利他をすることによって共存共栄を図ろうというわけだ。それを受けて、真面目な人ほど懸命に利他を行なう。さらに進むと、利他をしない者に利他を推奨するだけではなく、強制するようになる。あるいは、利他をキチンと行なっているかどうかを厳しく監視する。そうなったら全体主義の国みたいだ。コロナ禍においても、似たような場面を見聞きした人はいるのではないか。

鈴木大拙『日本的霊性』は、全体主義に対抗できる仏教の姿を示す

中島隆博氏は、全体主義への対抗を意図した鈴木大拙『日本的霊性』のうちに、全体主義化しやすい仏教解釈とは違う仏教の姿を見ている。

「最も平常なところに、最も「妙」なるものがあるではないか」と述べるように、大拙が考える「妙」は、日常に徹した中でいわば微分的に見出される神秘である。眼前の事物がそれ自身においてあることが、その背後に創造の神秘を有しているという、二重性において掴まえられている。
(『死者と霊性』 p.223)

「妙」とは、浄土教の篤信者である妙好人の妙である。大拙は、日常の背後に創造の神秘を見た。我々の日常は、当たり前に存在していて、これからも当然に続いていくように思われる。でも、本当にそうだろうか。一緒に過ごしている家族や友人たちが突然いなくなってしまう可能性はないか。我々は、それを自然災害や事故などで経験する。そのとき、それぞれの人が、かけがえのない存在だと気づく。突然いなくなってしまったその人は、二度と帰らない唯一の存在だったのだ。我々という存在は、決して盤石な土台の上に成り立っているわけではない。我々が存在していることは、奇跡なのである。大拙の創造の神秘とは、そういうことを言っているのではないか。存在が奇跡的とは、ひょっとしたら存在しなかったかもしれないということ、つまり、存在することが偶然的だという意味である。我々が存在しているのは、決して必然ではない。偶然なのだ。

自然災害や事故で突然に親しい人を失うという例から、それぞれの存在の神秘性、唯一性、偶然性を見た。さらに言うと、実は、自然災害などで突然に存在が失われる可能性があるから、我々の存在が神秘だというだけではない。災害があろうとなかろうと、我々が存在することは神秘である。

我々が生きているこの世界、あるいは宇宙全体が存在している根拠は果たして明確だろうか。宇宙は、ビッグバンで始まったと言われる。しかし、それをもたらしたエネルギーが存在している理由を答えられる人はいない。そのエネルギーの存在根拠は分からないのだ。これは、神秘である。我々がなぜ存在しているかを突き詰めて考えると、存在根拠が全然分からないことに気づく。大拙が言う創造の神秘とはそういうことだろう。なお、宗教や哲学の中には、自分が全宇宙の顕現であると説くものがある。そこでは、自分が存在することの神秘と宇宙が存在することの神秘は全く同じ意味となる。

我々は、日常の背後に創造の神秘を見ることで、すなわち世界が存在することの分からなさに直面することで、自分たちの存在の神秘性、唯一性、偶然性を知る。このとき、全体ばかりを重視して個々の唯一性を軽んじる全体主義に対抗できるようになる。

存在根拠が分からないから自由

我々は、存在の神秘性や偶然性に気づくとき、つまり存在根拠の分からなさに触れるとき、自分たちが唯一の存在であることを知る。そのとき、我々は自由である。何にも縛られることがない。

逆に、自分の存在根拠を語れるときは不自由である。例えば、仏教寺院(会社でも政治家でもよい)の後継者になるべくして生まれたならば、つまり寺を継ぐことが存在根拠ならば、その者は完全に自由な職業選択ができるわけではない。多少なりとも仏教寺院に縛られて生きていくことになる。

より根本的には、親の精子と卵子の結合によって生まれることが自由を拘束する。子は、親から遺伝的にさまざまなものを継承する。我々の外見や能力は、親の外見や能力に縛られる。両親から引き継いだ身体能力に縛られるから、日本人がアメリカでプロバスケットボール選手になるのはとても難しい。

大拙が言う創造の神秘に触れるのは、存在根拠が分からない次元である。自分がなぜ存在しているのか、なぜ生をうけたのかを問われたら、親の精子と卵子の結合に根拠を求めるのが普通だろう。それは、存在根拠が分かる次元である。そこでは、我々は、親から引き継ぐ遺伝子に拘束されている。一方、創造の神秘の次元、存在根拠が分からない次元では、何にも拘束されないから自由である。

日常の次元と創造神秘の次元の二重性

我々は、存在根拠が分かる次元と存在根拠が分からない次元を二重に生きている。中島隆博氏が次のように書いていたのを思い出そう。

大拙が考える「妙」は、日常に徹した中でいわば微分的に見出される神秘である。眼前の事物がそれ自身においてあることが、その背後に創造の神秘を有しているという、二重性において掴まえられている。
(『死者と霊性』 p.223)

誰かと向き合っているとき、我々はその人の二つの次元を重ね合わせて見ている。日常の次元と創造の神秘に触れる次元(これを創造神秘の次元と呼ぶことにする)である。日常の次元は存在根拠が分かる次元、創造神秘の次元は存在根拠が分からない次元である。

創造神秘の次元において、我々は、その存在が唯一であり偶然であることを知る。そこでは、何にも縛られないから自由である。これに対して日常の次元は、自分の存在根拠に拘束されるという意味で不自由である。日常の次元では、自分の存在根拠を親の精子と卵子の結合に求めることができる。存在根拠を精子と卵子の結合という論理で示すことができるから、日常の次元では我々の存在は必然である。日常の次元では、自分がなぜだか分からないけれども偶然に存在しているわけではない。そして、自分の存在根拠を論理的に説明できるとき、論理というものが全ての者を等質に扱うことで成立していることに注意が必要だ。私の存在根拠もあなたの存在根拠も、精子と卵子の結合という全く同じ論理で説明できるのは、私とあなたを等質なものとして扱っているからだ。創造神秘の次元では、私もあなたも唯一無二の存在だから、全く違う両者に共通する法則を見出すことはできない。そんなことを言っていたら、論理的思考に基づく科学は成立しない。科学は全てを等質に扱う日常の次元においてのみ成り立つ。以上をまとめると次のようになる。

〈日常の次元(存在根拠が分かる次元)〉
・全ての人は親の精子と卵子の結合を根拠に生まれた(存在する)。
・存在根拠を万人に通じる論理によって説明できる。
 そのとき、全ての存在は等質に扱われている。
 存在根拠を論理によって説明できるから、その存在は必然である。
・存在根拠に拘束されるという意味で不自由。
 (親の遺伝子などに拘束される)

〈創造神秘の次元(存在根拠が分からない次元)〉
・世界が存在するのは神秘だから、この人が存在するのは神秘である
・この人の存在は唯一であり、この人が存在するのは偶然である。
・存在根拠に拘束されていないという意味で自由。

我々は、日常の次元と創造神秘の次元の二重性を生きている。それは、日常の次元の背後に、創造神秘の次元を垣間見るということである。

談志の非常識(業)と「自由な利他」

人間は、生きるために共同体を作るという生存戦略を採用した。「道徳的な利他」は、その共同体を維持するため、我々が共に生きていくために作られる。それは、我々が共に生きていくことを、当然の前提にしている。「道徳的な利他」を実践するときに、なぜ我々が共に生きているのかは問われない。つまり、「道徳的な利他」を実践するときには、共に生きていくことに縛られている。その意味で、そこでの我々は不自由だ。こうしてみると、「道徳的な利他」が日常の次元にあることがよく分かる。

日常の次元に位置する「道徳的な利他」では、存在の神秘性や唯一性は全く問題にならない。唯一のお年寄りだから席を譲るのではなく、どのお年寄りにも席を譲るのが「道徳的な利他」である。全てのお年寄りは等質に扱われる。

自由は、創造神秘の次元にある。その次元での利他を「自由な利他」と呼ぶことにする。「道徳的な利他」では、我々がなぜ生きているのか、なぜ存在するのかは全く問題にならなかった。一方、「自由な利他」は我々の存在根拠に疑義が付される次元にある。

「自由な利他」については、『死者と霊性』の共著者である中島岳志氏の『思いがけず利他』が極めて重要な手がかりを与えてくれるので、それを参考にしたい。

本書では、立川談志による「文七元結」という落語が詳細に検討される。博打にはまって貧困生活にあえぐ長兵衛という男が、五十両という大金を見ず知らずの文七にあげてしまうという噺だ。文七が店の金を失くした責任を取って自殺しようとしていたとはいえ、その五十両は長兵衛の娘が吉原に身売りをして作ったものである(吉原の女将は娘を店に出すことを猶予してくれてはいるのだが)。この長兵衛の利他について、談志は次のように言う。

世の中、これを美談と称し、長兵衛さんの如く生きなければならない・・・・などと喋る手合いがゴロゴロしてケツカル。大きなお世話である。
(『思いがけず利他』 p.21、1992年の高座より)

談志は、長兵衛の利他が、他人に推奨(あるいは強制)すべきものではないと言う。すなわち、これは我々が共に生きていくための「道徳的な利他」ではない。

このことは、談志が言う常識と非常識という議論を検討するとはっきりする。談志によれば、常識とは人間が共に生きられるように作られたものである。だから、共に生きるための「道徳的な利他」が、談志の常識に属するのは明らかだ。

世の常識という、人間が共に生きられるように、また、住み良くなる為の方法を、落語家は、”無理しているのだ”と分かっていた。
 で、常識の為の学習を取っ払って、今日まで生きて来たのだ。
 労働を否定し、生産に参加せず、正義を迷惑がり、親切をお節介と皮肉ってきたのである。
(『思いがけず利他』 p.45、『立川談志独り会 第二巻』より)

談志は、常識の外部、すなわち非常識(業)を肯定し、守ろうとした。

呼吸とか、鼓動とか、眠くなれば眠るとか、腹が減ったら食うとか、それら以外のものは、教育で是正していく。なぜそんなことをするのかといえば、他と共存するためだ。
 で、他と共存するために「常識」を作ったが、その常識というものは、大変に狭いものであって、それらのなかで暮らそうとすると、不快な部分が出てくる。(中略)
 で、落語の根底にあるのが、常識に対する非常識で、それを「業の肯定」という言い方をしたのが、若き頃の談志であった。
(『談志最後の落語論』 ちくま文庫  pp.20-21)

他人に推奨するようなものではない長兵衛の利他は、非常識な(業としての)利他である。『思いがけず利他』の第一章には、「業の力ーーIt's automatic」という題が付けられている。業とは、談志の非常識のことだ。「It's automatic」は、宇多田ヒカルさんの大ヒット曲「Automatic」から取られている。

非常識な(業としての)利他は、共に生きるための利他ではない。共に生きるためというのは、自分も含めたみんなのためという意味だ。非常識な(業としての)利他には、自分のためとか我々のためという動機がない。それを行なうとき、自分や我々のことは考えていない。仏教で言えば、無我である。だから、その利他は、我々の力が全く及ばないところで行なわれる。中島岳志氏は、そこに親鸞の他力を見る。我々の力が全く及ばない阿弥陀仏の他力によって、非常識な(業としての)利他はなされる。自分の意思が全く及ばない他力によって行なわれることを、『思いがけず利他』は、宇多田ヒカルさんの曲になぞらえてautomaticに利他が到来すると言った。宇多田さんもまた、創造神秘の次元、存在の神秘性や唯一性を歌うアーティストだと思う。宇多田さんが歌う唯一性については、以下に書いたので、そちらをご参照いただけると嬉しいです。

非常識な(業としての)利他は、automaticに突然到来するから自分には全くコントロールできない。その意味で、これは偶然の利他である。非常識な(業としての)利他の偶然性は、存在の偶然性に根ざしている。我々の存在が偶然ならば、我々の行為にもその偶然性が影を落とす。中島岳志氏は、存在の偶然性について九鬼周造を参照して次のように書いている。

九鬼は、このような根本的な偶然性のことを「原始偶然」と言いました。この「原始偶然」は、無限遡及の果てにあるものです。起源への問いは、どうしてもこの「原始偶然」に出会わざるを得ません。あらゆる存在の根拠は、究極の底が抜けているのです。
 「原始偶然」は、すべての存在の否定性を内包する恐ろしい存在です。しかし、一方で、これは世界のすべての可能性を含み込むものでもあります。
(『思いがけず利他』 p.148-149)

「原始偶然」において、我々は存在根拠の分からなさに直面する。その次元では、世界の底が抜けてしまっているような恐ろしさを感じる。自分の存在基盤がグラグラしているからだ。しかし、これは我々があらゆる可能性に開かれていること、拘束するものが何もないこと、すなわち自由であることを意味する。中島岳志氏もまた、存在根拠が分からない次元に自由を見ている。他力によって偶然に到来する非常識な(業としての)利他は、存在根拠が分からない自由な次元に位置するのだ。これが、「自由な利他」である。

我々の現実では、日常の次元と創造神秘の次元が二重になっている。だから、存在根が分かる次元の「道徳的な利他」と存在根拠が分からない次元の「自由な利他」もまた重なり合っている。

川喜田二郎の創造性

中島岳志氏の『思いがけず利他』は、ラマヌジャンの数学や柳宗悦らによる民藝を例にして、創造的表現が、談志の非常識な(業としての)利他、すなわち「自由な利他」と同じ構造を持つことを明らかにしている。数式や芸術もまた、創造神秘の次元でautomaticに到来する。創造が自由と深く関わっているというのは、考えてみれば当然だ。

ただ、人間の創造的活動は、自由が位置する創造神秘の次元だけに関わっているわけではないと思う。我々は、創造神秘の次元と日常の次元の両方を重ね合わせるようにして生きている。だから、人間の創造性は両次元に関わるのではないか。

KJ法で知られる川喜田二郎は、日常の次元と創造神秘の次元の両面から、偉大な創造について考えたのだと思う。彼は、日常の次元を保守性、創造神秘の次元を創造性と名付けた。

保守性とは何かというと、現状を維持したいということで、その最も代表的な例は、人間は誰だって”死にたくない、生き永らえたい”と考えることである。それほど露骨ではなくても、誰でも給料は今までどおり維持したいと思うのが、それである。

では、創造性とは何かというと、現状を打破し、つねに新しい状態に変えていくことで、その最も代表的な例は新陳代謝であろう。外からつねに新しいものを取り込んで同化し体を作り変えていかないと、体の保守すらできないというのが、それである。

 このように、保守性と創造性は、人間が生きているということに、必然的に随伴する根本的な原理と言ってよいものである。
(『創造性とは何か』 p.75)

川喜田によれば、人間は、保守性と創造性という分かち難い両面を生きている。保守性は生き永らえることを目指す次元だから、共に生きるための「道徳的な利他」が属する日常の次元に対応する。創造性は、そこには収まらない「自由な利他」が住処とする創造神秘の次元である。「道徳的な利他」は生きるために推奨(あるいは強制)される。一方の「自由な利他」には、推奨も強制もない。だから、両者は正反対に思える。

ところが、川喜田は、偉大な創造にあっては保守と創造が循環関係になると言い、そこに西田幾多郎の「絶対矛盾的自己同一」を見る。

西田哲学流にいうと、これが「絶対矛盾的自己同一」である。本来、保守と創造は「絶対矛盾的」であるが、同時に偉大な創造にあっても大きな循環で「自己同一」を果たすのである。
(『創造性とは何か』 p.79)

「道徳的な利他」と「自由な利他」の二重性は、鈴木大拙から着想したものだった。よく知られるように、西田幾多郎と鈴木大拙は盟友である。この二人は、日常の次元と創造神秘の次元が分かち難く結ばれた関係にあることを共有していたのではないか。

「両利きの経営」によるイノベーション

スタンフォード大学のオライリー教授とハーバード大学のタッシュマン教授によれば、「両利きの経営」がイノベーションを創出する。この「両利きの経営」は、日常の次元と創造神秘の次元を二重に生きることと基本的な構造を共有している。

本書のカバーには、次のようにコンパクトな要約が記されている。

「両利きの経営」とは?

・知の探索
自身・自社の既存の認知の範囲を超えて、
遠くに認知を広げていこうとする行為
   +
・知の深化
自身・自社の持つ一特定分野の知を継続して深堀りし、
磨き込んでいく行為

両利きの経営が行えている企業ほど、イノベーションが起き、パフォーマンスが高くなる傾向は、多くの経営学の実証研究で示されている。

「知の探索」と「知の深化」の両方を併せ持つことで、企業はイノベーティブになる。「知の探索」は、創造神秘の次元、川喜田の創造性、「自由な利他」に対応すると思われる。一方の「知の深化」は、日常の次元、川喜田の保守性、「道徳的な利他」と同じ次元にあるのではないか。「両利きの経営」によるイノベーションは、日常の次元と創造神秘の次元の二重性を生きることにとても似ている。

「道徳的な利他」と「自由な利他」の二重性を生きる

稲盛経営哲学の「利他の心」は、日本を代表する革新的企業を生み出した。さらに、多くのイノベーティブな起業家たちがその薫陶を受けている。この稲盛氏の「利他の心」を持つこととは、「道徳的利他」と「自由な利他」を重ね合わせて生きることではないか。

「道徳的な利他」、つまり川喜田の保守性や「両利きの経営」の「知の深化」だけに取り組んでいたら、会社は息苦しくなってしまう。企業という共同体を存続させるための常識ばかりが、推奨され強制されるからだ。それが高じると、常識としての「道徳的な利他」をキチンと実践しているかが常時監視される全体主義になりかねない。談志が常識は不快だと言ったのはそういうことではないか。
 会社のパーパスが議論されることが多い。しかし、パーパスを企業共同体維持のために掲げ、その枠内で「道徳的利他」を推奨したり強制すれば、かえって全体主義化を助長してしまう。
 「道徳的な利他」が悪いというのではない。共同体を維持するのに、「道徳的な利他」は極めて重要である。大事なのは「道徳的な利他」だけでなく、「道徳的な利他」と「自由な利他」の二重性を生きるということだ。

大拙は、当たり前の日常の背後に創造の神秘を見て取った。企業に限らず、我々の社会・経済システムは、人間を等質な歯車のように扱うことで、その維持存続を可能にしている。だが、その等質的に扱われている人々の背後に、存在の神秘性、唯一性、偶然性を見ることがあるのではないか。

会社では、合理的思考のもと、全ての顧客を等質的に扱うことが多いと思う。しかし、医療のようなビジネスでは、かけがえのない唯一の生命にふれることがある。金融ビジネスでも、コンサルティング的業務では、その顧客のためだけに唯一のサービスを提供することがある。そのようなときには、「道徳的な利他」と「自由な利他」が重なり合うことがあるのではないか。

中島岳志氏によれば、芸術作品の創造は「自由な利他」と同様の構造のもとにある。芸術作品は、「自由な利他」のようにAutomaticに突然到来する。だから、我々は、芸術作品に創造神秘の次元を垣間見る。その創造神秘の次元を宿した芸術作品は、ビジネスとして我々に提供される。コンサートや展覧会のチケットを販売するとき、企業が万人に提供する丁寧なサービスは「道徳的な利他」である。そう考えると、芸術ビジネスでは、「道徳的な利他」と「自由な利他」が二重になっている。芸術産業に限らず、芸術性を持つデザインを提供する企業もまた、同様に「道徳的な利他」と「自由な利他」の二重性を生きていることがあると思う。

とはいえ、日本のビジネスでは、「自由な利他」が注目されることはまだまだ少ない。それは、効率性に重点を置いた経営がなされてきたからだろう。効率性を向上させるためには、全てを等質に扱う日常の次元の論理的思考が重要な役割を果たす。しかし、日本企業が創造的なイノベーションを起こしていくには、「道徳的な利他」だけではなく、「道徳的な利他」と「自由な利他」の二重性を生きることが肝要だ。さらには、それを可能にする社会・経済システムを作っていくことが、我々の生を豊かにしていくのではないだろうか。

最後に、念のため書き添えるが、私は、イノベーションを起こすために「道徳的な利他」と「自由な利他」の二重性を生きることを推奨しているのではない。推奨したら、日常の次元の話になってしまう。そうではなく、談志が非常識(業)を肯定したように、「自由な利他」を肯定し、守りたいのである。




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