うたふるよる 第六夜 水沢穂波さん
我々の都合で申し訳ありません。
今回から当面の間、録音を前後編に分けてお送りいたします。
前編
後編
打ち合わせメモを公開します。
万が一不適切な表現や箇所がありましたらいつでもご連絡ください。
常盤みどりが選んだ水沢穂波さんの短歌
善い(真っ白)/悪い(真っ黒)人間って世の中には滅多に存在しないと思ってます。見る人や状況によって「その人」の白黒は変わるだろうし。『置かれた場所で咲きなさい』ではありませんがオセロ盤の緑色のように何処に自分を据えるかを熟考したほうが良いと教えてくれるような、人間の二面性に気をつけなさいというメッセージのようにも感じられ、いや・・・・・・これはもしかしてシェイクスピアの『オセロ』でしょうか。嫉妬が大事・・・・・・考え過ぎでしょうか。
よく自分も人間の二面性を短歌にしたいと思うのですが上手く作れた試しがありません。水沢さんのこの一首はとても例えが上手で他者の正義/悪は別の人の悪/正義であり容易にひっくり返る様が表れている。なおかつの白でもあり黒でもある部分を見られることが大切だと仰っている気がします。
何か言い訳めいた主張を聞く作中主体を想像しました。この一首の「透明」は透き通って美しいというよりも「そうよね、あなたの中ではそうなのでしょうね」のと言っているような無味乾燥、空虚、呆れに近い感情なのではないかと拝察します。「さうぢやない」の連続にコミカルさを感じながら透明→一字空け→さうね、貴方が云ふならと結句に向かう際のテンポが好きです。鈴木雅之さんの『違う、そうじゃない』を思い出しながら拝読しました。あの歌の歌詞ってなんというか男性の勝手というか、チャラいというか。主体のように言ってやりたくなる感じがします。
今回紹介をする作品の中で真っ先に選んだ一首です。初読の際は言葉にならない感情が湧き上がりました。稚拙すぎて文字に残すのも声に出すのも恥ずかしいのですが宇宙からみた地球を想像しました、理由はわかりません。
うぇあーうぇあー(どこ、どこ)にここよ(hereひあー)ここよ(hereひあー)が呼応しているように感じます。産声に切なさを感じることがはたしてあるのかと思われる方がいるかもしれない、でも私は実際に感じたことがあります。この手を離してはどこかに行ってしまうような恐ろしさを感じたこともある(もちろん愛おしさはあるけれど)そして結句の家庭を築く。初読時から今に至るまでうまく言葉にできている自信は全くありませんがとても好きです。
これすっごく分かるんです、親だからと言って距離感が同じではないんです。素敵だと褒めて肯定をする体で高級なカップの裏によくある刻印を作中主体の目の前で確認している。自分の物ではないから刻印があるかは分からないのでしょう、となると作中主体とお母様は別の場所で暮らしているまたは公の場での風景であると拝察できます。母自身のカップではない、そういった「人のもの」を公然と値踏みする行為。
おそらく人間に対しても作中主体に対してもこれに近い行為を繰り返してきたのではないかとさえ感じます。主体はお母様のことを好きでは無いのだろうと拝察します。母、そんな母だった の部分がとてもそれを強く表現している(気がしています)
私と母は表面上はそれなりに上手くやれているのですが、お互いに価値観が違うことを理解しているタイプの母子です。なので偏った考えからそう感じるのかもしれません。かといってこの一首を肯定的に読める方がいると私にはなかなか思えない。強い拒絶を感じる、けれどその対象を忘れることができないそんな心情を感じました。強烈なインパクトを感じつつ共感しました。
ァ〜お幸せにー!!!!が最初の感想。2人が初めて椅子に座って待ち、2人で初めて窓口に越しに「僕ら入籍します」なんてまぁ!初々しさ・愛情の塊のような一首、私のような人間が感想を述べるのも野暮かもしれないのですが。(体言止めはになるのかいまいち自信はありませんが)体言止めは1つでいいなんて技法を気にせず初々しく突っ走る2人がもうァ〜お幸せにー!!!!
⋆┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈⋆
みさきゆうが選んだ水沢穂波さんの短歌
とても好きです。想像してみてください。「コロポックルがいる」んですよ?かわいい。もしかしたらもう亡くなってる?と思う方もいるかもしれませんが、私は復活すると思いました。
数日前にある映画(私の小さなお葬式)を観たんです。大きな鯉を冷凍して、解凍して食べようとシンクの中に放っておいたら夜中にバタバタ暴れてる音がしてね。元気に復活してくれてペットにするんです。
それが鯉じゃなくてまだ若いコロポックルだったら?と考えるとワクワクします。『凍』というお題からこのお歌を想像されるのがとても素敵です。声に出した時のリズムも好きです。
機械式時計。大事に使い続ければ長い時間人生を共に歩んでいけるものですよね。一歩一歩ちくたくちくたくと。ぜんまいを巻くのを忘れると止まってしまうので(自動巻きもありますが)、その分意識して触れて愛着も増すでしょうし、メンテナンスしながら丁寧に使ってきたお父さんの様子も浮かびます。まるで分身にも思えるものかもしれません。オーバーホールには代金が普段使いのクオーツ時計を買えるくらいかかります。時間もかかります。そうして返ってきた時計は主体にとってももう既に愛着が湧いているのではないでしょうか。「父の時間のつづきを生きる」とても素敵な表現です。主体は父を自分の中に感じながら一歩ずつ人生を歩んで行くのでしょう。
「夏の夜夜夜」こんなに水羊羹を素敵に表現できるなんて。まさにそう!まさに夜夜夜!!と興奮してしまいました。小豆とか栗とか…角度によって光も入りまるで星空ですよね。
下の句の発想も好きです。カットされた水羊羹からは時間の経過を感じますし、一つ一つの「既に美しい思い出」としてすっと立ち上がってくる感じがします。
こちらのお歌、大好きです。
そう、言われてみれば「where?where?」に聴こえます。新生児のまだか弱い声。不安げにも聞こえて、「切なくて」愛おしくて、胸がきゅっとなります。「ここよ、ここよ」ここにいるよと全身で伝えたい。体温も声も、力も。安心して欲しいと思います。where?ここよ(here)なんですよね。すごいなぁ。結句に抱きしめる様子などではなく「家庭を築く」と詠まれていて、家族として、これから家庭を築いていく未来へ向かう感じがします。みどりさんの仰るように私も、最初に宇宙を感じました。みどりさんはどうして感じたのでしょうか。私はなんだろう、通信・交流みたいな感覚や、生命の始まりだったり、2001年宇宙の旅の赤ちゃんの映像とか、そんなイメージからかもしれません。そこから「家庭」という現実感のある言葉に繋がるのもとてもいいなぁと思いました。
「無意識の波打ち際」まず呼吸を感じました。波のうねりのように胸や肩が上下してるようす。寝返りもそうかもしれません。あと、お布団の端っこも浮かびました。
お隣で眠っている伴侶の少しずれたお布団をそっと肩まで上げながらぽんぽんと、そしてそのまま腕に力を入れて抱き寄せる。
十九年目ともなると、穏やかな愛情なのかなと思います。残りの人生を少し意識し始める頃かもしれない。この人とずっと過ごしたい気持ちと、いつかを想像して切なくなるような感じもあって、改めて大切にしようと思う夜もあるかもしれませんね。微睡みながら抱き寄せるご夫婦の深い愛情を感じる素敵なお歌だと思いました。