うたふるよる 第三夜笛地静恵さん
スペースのための打ち合わせメモ
常盤みどりが選んだ笛地静恵さんの短歌
前提として「月刊ムー」の掲載内容に関して特別に良い/悪いイメージを私は持ってはいません。(脱線しますが『地球の歩き方「ムー」』はなかなかのインパクトですし貴重な資料だと思います。)ですが、情景としてはなかなか恐ろしいものがあるのではないかなと感じました。初めて彼女の家に遊びに行った作中主体、否応なく視界に入る様々な家具、鼻腔を通して感じる他人の家の香り、そのシーンはどこを切っても緊張が混じるはずです。そこで目にする彼女の父の本棚、そこに整列する『月刊ムー』。お付き合いをしているから「彼女」なわけですから、当然作中主体はこの女性に魅力を感じているはずです。月刊ムー「のみ」並んだ親父さんの本棚を見てしまった後、作中主体は「彼女」とお付き合いを続けられるのか、そして親父さんはこの後現れるのか。ひょっとすると初めての顔合わせで挨拶をしている親父さんの後ろにある本棚に整列したムーが・・・・・・!!コミカルだけれどちょっと恐ろしい一首だなと感じました。
家族の・仲間の歌だと感じました。もう今は居ない誰か、祖父/祖母・父/母・きょうだい・ペット・上司・部下・同僚、大切な誰かが居てくれる、話を聞いてくれる、笑ってくれる、叱ってくれる、一緒に泣いてくれるだけで人は癒されるのではないかと考えました。その癒された人がまた別の誰かを癒す、過去脈々と続いてきたそんな人の繋がりが今も続いていて、これからも繋がっていく。入り組んだ縄のような。
ハッシュタグを頼りにさらに読むと河合隼雄先生の名前があって。「心の処方箋」の著者であることは存じ上げていたのですが(今年の新潮文庫夏の100冊に選ばれています、ぜひどうぞ。)日本の臨床心理学の父のような方なのですね。ほころんだ笑顔の素敵な方だと感じました。「そのひと」はもしかすると河合先生なのでしょうか。
日本の臨床心理学が今も続くのは河合先生あってのこと、という意味としても考えられるのかもしれません。
自分で答えを見つけられた人達が次の誰かを・学問を救っていると考えても素敵な一首だと感じます。
月刊ムーの一首とは違うタイプの怖さを感じる一首だと感じました。(怖いけれど好きなので紹介をするのですが。)ブナ科樹木萎凋(ぶなかじゅもくいちょう)病、通称ナラ枯れはキクイムシを媒介にした菌の感染によって樹木が枯れてしまう病気だそうです。結句から木の病気で人間を表現しているのだろうかと感じました。自分だけが正しい、自分以外が間違っていると感じている時、大抵の場合「自分」が間違っているのが世の常です。周りの人々が日常を営む姿を見て病気にかかってしまった人間は自分が病んでいることに気付かない、自分が話をしている内容は妄言・虚構・空想であることに気付かない、気付かないままに枯れ果ててしまう。そう考えるとゾっとします。ちなみに心理学の療法(でいいのかな)にナラティブセラピー、ナラティブ心理学というものがあるそうです。「対象が語る物語を聞いて問題解決をはかる行為」だそうで、うん、怖いですねやはり。頭の中で物語が溢れてきます、好きです。
「主体が精魂尽き果てた末路上に倒れた様子をカラスが眺めている、主体はカラスに詫びるように目を閉じる」と最初は暗く拝読したのですが、よくよく考えてみると惨めさを動物に詫びられる人ってなんだか強くないですか?私みたいに内省ばかり続けているよりも潔いというか、たくましいというか。そう考え読み直してみると植木等さんをなぜか思い浮かべていました。「こうやってしか生きられなかったれどごめんねー!」と。でも話をする相手が路上のカラスしかいない、と考えるとやはり悲しい。うーん。ゆうさんはどう感じるか尋ねてみたい一首でした。
「その他大勢」でいることの悲しさを読んだ一首なのではないかなと感じました。ショッカーと言っても末端のショッカー戦闘員「イー!」という人たちのことだろうと。「その他大勢」軍団の中でも首領でもなければ幹部でもない、ある日急に居なくなったとしても自分の代わりなんてたくさんいる主体が「唯一無二」に憧れている情景であると仮定すると「なりたかったさ」に哀愁を感じます。ビジネスパーソンの短歌だなぁと。共感を覚えます。
ですがですが、笛地さんに「いじりたおして良い」とお伝え頂いたのでこの感想には続きがあります。反感も感じるんですよね、この一首。「自分(ショッカー戦闘員)の強さを知らないんじゃないか」「本当に仮面ライダーになりたいか?」と。(間違っていたらごめんなさい、諸説あったと記憶していますが)ショッカー戦闘員は常人の3倍くらいのタフネスがあります。仮面ライダーのマスクにある涙の跡(目の下の黒いフチのようなデザイン)は孤独を隠して戦う者の印です。主体は自分の本来の力を過小評価しているんじゃないかとも感じます。そして自分自身を肯定できない人間が孤独に耐えられるはずもない。頑張れ戦闘員、主体、実はあなたは「イー!」の言葉以外も話せるぞ!!!と反感を覚えつつ気づいたら応援してしまうような、その応援は主体に対してではなく自分に対してなのではないかと錯覚するような。
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みさきゆうが選んだ笛地静恵さんの短歌
もう少しで空が白み始める時間帯を想像しました。ゴミ箱の周りにもゴミが散乱しているような路地裏にくたびれた男が独り、カラスに話しかけている。詫びている。
酔っ払いがカラスを誰かに見立てている様子だとしたら物悲しい人間くさい面白さですね。
でも、シラフだとして、もう行くあてもなく、連絡して助けを求める相手もいない…のだとしたら辛い…と思ったのです。が、「詫びている」ではなくて「おわびしている」なんですよね。「惨めさ」ではなくて「みじめさ」。ここがやっぱりちょっと酔っ払いの風味なのかなと考えると、やはりちょっと寂しく笑えます。背中をぽんぽんっとして、お水渡して、早く帰るように促したいです。
「雪霏霏と」が好きです。一気に引き込まれます。雪が絶え間なく降り、視界全部、大気全てが雪で真っ白(真っ暗)に。先は全く掴めない、周りの人影も見えなくなり、雪の音と匂いのみ。声を出して助けを求めてもどこにも届かない。ホワイトアウト。怖いですよね。
それでも時間は進んでる。「見知らぬ明日」を運んでくる。そんな状況だと早く朝が来ること明るくなることは少しは安心に繋がりそうなのに「見知らぬ」には希望をあまり感じません。
何も見えない中では迫りくるもの全てを恐ろしく感じる、それがリアルなのか…と思いました。
心の様を詠んだ歌だとしたら、もう諦めてしまいたくなるかもしれない。
追加です。
お家の中にいるのなら?と考えました。
何日も閉じ込められて窮屈で不安な状況。朝になれば降り止むのかも分からない。直接の恐怖はないけれど、立ち往生していた人々の影、動きさえ絶えてしまうのは、やはり息苦しくなります。
「おい、未来の道具なんて出すなよ。俺には、延命処置はいらねえからな。お前がいてくれて、楽しかったぜ、ありがとうな。それじゃ、俺も行くぜ。また、あっちで、みんなで遊ぼうぜ。」という言葉と共にツイートされていました。ツイートを含むといくつかのキーワードからドラえもんが浮かびます。最後の「ひとり」はのび太くんと想像しますが、ツイートの一人称は「俺」なんですよね。大人になったのび太くん?それともジャイアンでしょうか。
「さようならドラえもん」は幻の最終回とも言われていますが、こちらのお歌ももう一つの最終回になりえると思いました。
ドラえもんから離れて、短歌だけを読み直します。
短歌の主体は語り部、いわゆる神視点と思いました。
「最後のひとり」をどう捉えるか。何らかのコミュニティ仲間のひとりなのか、人類のひとりなのかで意味が変わってきます。人類のひとりなら、帰る未来はもうロボットしかいない世界なんですよね。看取った時点には他にもロボットはいたのでしょうか。それともまだ今のAIより少し進んだ程度?人類がいなくなったあと自ら進化を始めロボットたちを作り始めたのか。「最後のひとり」は研究者なのか。彼を助けるために未来から来ていたのか。「ただ一人」帰るロボットには人間に近い心があるように感じます。「一人」と「ひとり」、平仮名に開いてるのは力の抜けた状態や軽さを感じます。想像が止まりません。
瑞々しく咲いた青紫の紫陽花に、たまゆら風となり触れてみたいという気持ち。とても美しい歌です、好きです。愛おしく思うものには、匂いを嗅いだり唇で触れてみたくなります。あじさいは基本的にほとんど香りがありません。だからこそ触れたい。
自分側が唇ではなく「口紅」と「風」として…なのが素敵です。まるで紫陽花が待っているような、誘っているような。そんな人を想う歌かもしれません。
もう一つ。
紫陽花の青紫色の口紅、言葉としては美しいのですが、実際にはあまり見かけない色味です。比喩とすれば、恋人の女性が亡くなる時の唇がまるで彼女が大好きな「紫陽花の青紫」だった。もしくは亡くなったのが紫陽花の咲く季節だったのか。その印象が強く残った主体は、紫陽花を見かけると思い出してしまい、その度に風となり触れたくなるというイメージが浮かびました。
「なりたや」で深い思いが伝わってきます。もう何年もそう思いながら生きてきたのではないでしょうか。
月刊ムーは手にしたことはありません。ある漫画の小道具として出てきたのと、何となく耳にしたことがある程度なのですが。いろいろな不思議をオカルト的に展開していくようなイメージです。調べようかとも思ったのですが、主体も世間一般のイメージ程度にしか知らなさそうと思ったので、調べずに感想を言います。詳しく知らないことへの怖さってあると思うんです。長く続いている雑誌なので、いろいろな不思議を科学的に証明できないものを題材にしている、それ自体を楽しまれている方も多いとは思うのですが、知らない人から見るともしかしたら本気でオカルトの世界を信じてるのか…?などと思ってしまうこともあると思うんです。そんな本が、恐らく初めての親への紹介、顔合わせの時に「びっちりと」「ムーのみ」並んでる。ざっくばらんに聞けない関係の彼女の父の本棚に。彼女も読んでたりする?と知らない一面を想像したりして。今後の展開を知りたいです。
叔父が仕事柄もあり、それはそれはたくさんの本を保有しています。小さい頃からその書斎に行くのが大好きなんです。古い漫画も絵本もあるので楽しくて。子供がいない叔父は、冗談としてもしいつか自分が亡くなったら私に全部あげるねなんて言ったことがありました。いつかその日が来てしまったら、いろいろな所に寄贈や寄付をするのかもしれませんが、それでも残った本たちはこんなふうに持っていくのかもしれません。短歌を読まれる方々には読書家の方も多いと思います。「ああ読書家が亡くなったのだ」が好きです。ああそうか、読書仲間のひとりが亡くなったのか、顔も知れないどこの誰かもわからないけれど、ああ悲しいものだ…の「ああ」。
ブックオフに並ぶ日焼けした類書、私たちなら歌集などを見つけるとこの歌のような気持ちになるだろうと共感しました。
自分語りばかりですみません。さらに考えて思い出したことがあるので付け足します。
私はある古書店で祖母と母の間くらいの年代の方が読んでいたのかなぁと想像出来る婦人雑誌が10冊ほど並んでいるのを見つけたことがあります。まさにこの主体と同じような状況です。「日焼けした」婦人雑誌でした。何年も保管していたものでしょう。年老いて終の住処を小さくしようと断捨離したのか亡くなられたのか、ご本人やご家族が処分されたのだと想いを馳せながら、三冊だけ購入しました。
主体との違いは古書店と「ブックオフ」です。雑誌の元のお値段より安くありませんでした。古過ぎて「ブックオフ」なら引き取ってもらえなかったかもしれません。
「ブックオフ」にも古めの雑誌が置かれているのかどうかわからないのですが、短歌として詠むのに「古書店」「古本屋」ではなく「ブックオフ」を使っています。明るい店内にゲーム本漫画なども並んでいて、商品の回転も早く、売る人も買う人も気軽に売買できる雰囲気を表しているのでは?と思い直しました。
売られる書籍への想いが少し軽い気がしたんです。主体と「類書」の出会いや感情は最初の読みとそこまで変わらないのですが、想いを馳せる時間も違ってくると思います。もう少し軽やかにほんの数十秒、長くても数分かな。