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金閣寺
初版発行: 1956年10月30日
著者: 三島由紀夫
読書期間:2024年11月12日~2024年12月19日
一九五〇年七月二日、「国宝·金閣寺焼失。放火犯人は寺の青年僧」という衝撃のニュースが世人の耳目を驚かせた。この事件の陰に潜められた若い学僧の悩み――ハンディを背負った宿命の子の、生への消しがたい呪いと、それゆえに金閣の美の魔力に魂を奪われ、ついには幻想と心中するにいたった悲劇⋯⋯。31歳の鬼才三島が全青春の決算として告白体の名文に綴った不朽の金字塔。
読むに至ったきっかけ
以前から私には炎に圧倒されたいという思いがあり、そのことを母に話したところ、金閣寺を勧められたから。
それ以外にも、名作を読みたいというマイブームがあったのと、家にあり手が届きやすかったというのも理由の一つだ。
あとは、時間のある今のうちに自己啓発本でも大衆文学でもなく純文学を読みたかったから。
感想
お手本のような純文学。作品内で「美」についての描写が多いが、なにより三島由紀夫の文章がいちばんうつくしかった。
コンプレックス
「人間最後のコンプレックスの解放が必ず犯罪に終るという悲劇」
金閣寺は主題を美とするならばコンプレックスは副題のようなものである。
主人公の吃音、柏木の内反足、コンプレックスにとらわれた人間は思想が強い気がする。そして私はそんな人が好きだ。
今この文章を読むあなたには強烈なコンプレックスがあるだろうか?なるべく後天的なものではなく、生まれながらに、物心ついたころからのもので。
私にも中学生を卒業するまでコンプレックスがあった。それは左腕にあったので日常の動きは左腕を見えなくするように左右非対称になった。
同級生の「なにそれ」という言葉を何回聞いただろうか。
最終的にはそれを剃刀で自傷?してしまい、それがきっかけで膿んでしまったので病院で切除することになったのだ。
今思えば、コンプレックスがあったあの頃の私の熱量が羨ましい。
なんというか、コンプレックスが無くなってから世界が自分中心で回らなくなった。
時期が時期なので思春期特有の思想と混同してしまっているかもしれないが、金閣寺のコンプレックスについてのストーリーは忘れかけていた小中学生の頃の心理状態を思い出させ、懐かしい気持ちにしてくれた。
美とは何か
「美への嫉妬/絶対的なものへの嫉妬」
これは三島由紀夫のノートにメモされていたものであるが、モデルとなった事件で犯人が語った言葉でもある。
美とは何か。本作を読みながらこれを考えざるを得なかった。
美学の単位を取ったはずなんだけど、ニーチェとかカントとかシラーとか西洋的思想すぎて東洋人の私には理論しか理解できず…
私にとって美とは、余白に生まれるものだと思う。人はついつい、いっぱいあるもの、集合しているもの、つまりは余白が少ないものを美しいと思いがちではないだろうか?そのような感性を否定しているわけではない。しかし私の心が動かされるのはいつだって余白とか間なのだ。そういったものは掴むことができなくて、言語化したり表現したりすることも難しくて、儚い。でも私はその一瞬に永遠を見出している。
文章構成
これは「告白体」で書かれているらしい。私は文学専攻ではないので詳しいところはわからないが、太宰治の人間失格もそうみたいだ。自分の過去を振り返って告白する構成は当時は珍しかったようだが、現代ではあふれかえっている。
告白体の作品の中でも金閣寺は得に、実際の事件をもとに書かれているため最終的な結論は知った上で読み進めていくことになる。この前提条件が金閣寺を唯一無二のものにしている一部分だと思った。
最後の方ではいまかいまかと炎を待ってしまった。(苦笑)
この感性は正しいのだろうか。。。
印象に残った部分
19頁
私は今まで、あれほど拒否にあふれた顔を見たことがない。私は自分の顔を、世界 から拒まれた顔だと思っている。しかるに有為子の顔は世界を拒んでいた。月の光りはその額や目や鼻筋や頬の上を容赦なく流れていたが、不動の顔はただその光りに洗 われていた。一寸目を動かし、一寸口を動かせば、彼女が拒もうとしている世界は、 それを合図に、そこから雪崩れ込んで来るだろう。
たしかこの部分をきっかけに三島由紀夫の癖?のようなものを感じ取った。人物の描写が繊細ですごい。
62頁
私の関心、私に与えられた難問は美だけである筈だった。しかし戦争が私に作用して、暗黒の思想を抱かせたなどと思うまい。美ということだけを思いつめると、人間はこの世で最も暗黒な思想にしらずしらずぶつかるのである。人間は多分そういう風に出来ているのである。
この作品のテーマである美と狂気。
126~127頁
不安の皆無、足がかりの皆無、そこから俺の独創的な生き方がはじまった。自分は 何のために生きているか? とんなことに人は不安を感じて、自殺さえする。俺には何でもない。内反足が俺の生の、条件であり、理由であり、目的であり、理想であり、 生それ自身なのだから。存在しているというだけで、俺には十分すぎるのだから。そもそも存在の不安とは、自分が十分に存在していないという贅沢な不満から生れるものではないのか。
主人公とはまた異なった考え方をする柏木の思考が語られる。私には柏木の考え方の方が独善的だからこそ筋が通っていて納得できる。
136頁
人の苦悶と血と断末魔の呻きを見ることは、人間を謙虚にし、人の心を繊細に、明るく、和やかにするのに。俺たちが残虐になったり、殺伐になったりするのは、決してそんなときではない。俺たちが突如として残虐になるのは、たとえばこんなうららかな春の午後、よく刈り込まれた芝生の上に、木洩れ陽の戯れているのをぼんやり眺めているときのような、そういう瞬間だと思わないかね。 世界中のありとあらゆる悪夢、歴史上のありとあらゆる悪夢はそういう風にして生れたんだ。しかし白日の下に、血みどろになって悶絶する人の姿は、悪夢にはっきりした輪郭を与え、悪夢を物質化してしまう。悪夢はわれわれの苦悩ではなく、他人の 烈しい肉体的苦痛にすぎなくなる。ところで他人の痛みは、われわれには感じられない。何という救いだろう!
これも柏木の独白。一理ある。
232頁
私は死者をしか人間として愛することができないのかと疑われた。それにしても死者たちは生者に比べて、何と愛され易い姿をしていることか!
当たり前です。いつだって死んで完成される、死んで伝説となるから。偶像崇拝みたいな感じだよね。
197頁
私の体験には、積み重ねというものがなかった。積み重ねて地層をなし、 山の形を作るような厚みがなかった。金閣を除いて、あらゆる事物に親しみを持たな い私は、自分の体験に対しても格別の親しみを抱いていなかった。ただそれらの体験 のうちから、暗い時間の海に呑み込まれてしまわぬ部分、無意味のはてしれぬ繰り返 しに陥没してしまわぬ部分、そういう小部分の連鎖から成る或る忌わしい不吉な絵が、 形づくられつつあるのがわかった。
主人公の狂気が垣間見える。
246頁
おしなべて生あるものは、金閣のように厳密な一回性を持っていなかった。人間は 自然のもろもろの属性の一部を受けもち、かけがえのきく方法でそれを伝播し、繁殖するにすぎなかった。殺人が対象の一回性を滅ぼすためならば、殺人とは永遠の誤算である。私はそう考えた。そのようにして金閣と人間存在とはますます明確な対比を示し、一方では人間の滅びやすい姿から、却って永生の幻がうかび、金閣の不壊の美から、却って滅びの可能性が漂ってきた。
これは私が共感できた数少ない主人公の考え。mortalとimmortal、永遠と衰退、表裏一体だよね。
273頁
俺は君に知らせたかったんだ。この世界を変貌させるものは認識だと。いいかね、他のものは何一つ世界 を変えないのだ。認識だけが、世界を不変のまま、そのままの状態で、変貌させるんだ。認識の目から見れば、世界は永久に不変であり、そうして永久に変貌するんだ。 それが何の役に立つかと君は言うだろう。だがこの生を耐えるために、人間は認識の武器を持ったのだと云おう。動物にはそんなものは要らない。動物には生を耐えるという意識なんかないからな。認識は生の耐えがたさがそのまま人間の武器になったものだが、それで以て耐えがたさは少しも軽減されない。
「生を耐えるのに別の方法があると思わないか」
「ないね。あとは狂気か死だよ」
「世界を変貌させるのは決して認識なんかじゃない」
と思わず私は、告白とすれすれの危険を冒しながら言い返した。
「世界を変貌させるのは行為なんだ。それだけしかない」
私はやっぱり柏木の考え方に寄っている。コンプレックスについても大体同じ考えだ。今自分が認識できることが世界のすべてであり、想像していることは常に起こりうる可能性があり、いつでも天と地がひっくり返る余地がある。
主人公は自分の認識の範疇を超えた絶対的な存在が金閣であり美だったのだろうか。
三島由紀夫にとっても行為がすべてだったのだろうということは、彼の最期からも想像がつく。
289頁
乳房は私のすぐ前に在って汗ばんでいた。決して金閣に変貌したりすることのない唯の肉である。私はおそるおそる指先でそれに触った。 「こんなもの、珍らしいの」 まり子はそう言って身をもたげ、小動物をあやすように、自分の乳房をじっと見て軽く揺った。私はその肉のたゆたいから、舞鶴湾の夕日を思い出した。夕日のうつろいやすさと肉のうつろいやすさが、私の心の中で結合したのだと思われる。そしてこの目前の肉も夕日のように、やがて幾重の夕雲に包まれ、夜の墓穴深く横たわるという想像が、私に安堵を与えた。
これには不意をつかれクスっとしてしまった。女性の胸から舞鶴湾の夕日を思い出す人がいるのだろうか。それとも男性ってそういう節があるんですか?
でも、覚悟を決めた男が自分の胸を見て故郷の夕日を思い出すなら、そんな幸福なことはないかもしれない。こんな日本男児が愛おしいとさえ思える。
その他
私は炎自体に焦がれているので、金閣に焦がれて、その手段として燃やした主人公とは違う。私なら絶対に燃え盛る金閣をこの目に焼き付けなければ満足できなかっただろう。
読了後中学生ぶりに金閣を見に行ったが、外国人観光客がすごかった。その上、本堂がおそらく金閣なのだろうが建築的美しさしかなく、根底にあるはずのご本尊の菩薩がないがしろにされている感じがした。
やっぱりここでも金閣放火事件については触れられていなかったし、建勲神社には明智光秀について触れられていなかった。そういうものか。