iPhoneではなくカメラでなければならない理由 ー 祭具としてのカメラ
朝から、カメラサブスクサービスのGooPassとビックカメラが協業開始とのニュースが流れてきました。
https://japan.cnet.com/article/35163248/
ビックカメラ店頭で購入をその場で決めずに持ち帰り、月額6380円〜テストして、購入したければ後日差額を支払うというもの。
カメラの価格帯により月額利用料が6380〜87780円と変動するようです。
一眼レフが売れない中、テストできるのは良いなと思いました。多くの製品を扱うカメラ量販店なので、最新のカメラも含まれます。
必要な時に、レンタル感覚で一ヶ月だけ借りるのも良いし、新機材導入テストとしてプロのフォトグラファーも使えるサービスだと思います。
iPhone12になって、カメラ性能が格段に上がりました。Apple独自のRAWプロファイルを標準で扱えるようになり、3つの光学レンズに、高感度の飛躍的な向上、動画ではドルビービジョン規格で撮影できるようになったのです。
そんな時代に、重くて、大きな一眼レフが売れないというのは理解できます。
いや、一眼レフどころかミラーレスやコンパクトカメラでさえ、iPhoneの軽快さと携行性には及ばないでしょう。
しかし熱心な撮影者は、iPhoneではなく「カメラ」でなければならない理由を知っていると思います。
それはユーザビリティと気分の問題に集約される、というのが僕の最近の結論です。
ユーザビリティは使い勝手、もっと言うならアフォーダンスと言い換えることができます。
レンズがついて右上にシャッターボタンがあり、しっかりグリップできること。これがカメラの全てです。自然に構えて、すぐに押すことができる。押せば写って写真ができあがる。その体験はiPhoneにはありません。
iPhoneはそもそも電話であり、スマートフォンですのでカメラは付随する機能のひとつに過ぎません。形もただの板で、構えという構え方が無いようなものです。だからこそ、新しい写真を生み出す可能性を秘めていますし、実際に、カメラのことを何もしらない人がiPhoneで素晴らしい写真を撮っています。常に携帯しているので、気になったものや、近くの人を撮るのにこれほど好都合な条件はないでしょう。
しかし撮影行為という観点に立ち戻ってみると、その意味のあるデザインにアフォーダンスが宿っている「カメラ」として作られたものに軍配はあがるのです。
もうひとつが気分の問題。
この気分には2つあって、ひとつが撮影者の気分。もうひとつが撮影される側つまり、被写体の気分です。
コンパクトカメラを使って日常を撮影していた人が、コンパクトカメラを捨てて、iPhoneだけで撮ろうと決意したとします。多くの人は、写真を撮ることを忘れてしまうか、やめてしまうと思います。実験をしたわけではないので、確証はありませんが、このような体験をした方は多いのではないでしょうか。先に述べたように、iPhoneは様々な機能が備わっているため、カメラは副次的な扱いになってしまうからです。
コンパクトカメラは、純粋に撮影のための道具ですので、基本的に写真を撮ることしか出来ません。
そのような物体がバッグの中にひとつ入っていると、何かに対峙した時に、自然とカメラに意識が向くのです。
また、カメラ好き、カメラフェチという場合もあります。これは写真ではなくカメラそのものが好きなタイプです。こちらはわかりやすく、iPhoneでは鼻からダメです。カメラ本体が好きで、ディティールや操作のフィーリングや、ファインダーの感覚を楽しもうとしている人たちなのですから。
もうひとつが被写体の気分です。
例えば旅の途中で素敵な人と出会ったとして、別れ際に写真を撮らせてくださいとお願いするとします。カメラを向けた時、それがiPhoneなのか、カメラなのかで、印象が変わります。撮れる写真も大きく変わるでしょう。ただしこれは良い悪いの話ではありません。iPhoneで撮った写真が劣るとは限らないからです。
ではそこに生まれるものは何か。
僕は儀式性だと思うのです。
写真が一般的でなかった時代や国においては、「魂を奪うもの」などと恐れられていたことがありました。レンズを見据えて、動かず何秒も止まって、眩しいフラッシュが焚かれるからです。フィルム感度が低かった時代は、10秒ほど止まらなければならない時代もありました。それは少し恐ろしい体験だったはずです。その代償として、絵画よりもリアルな(写実的な)写真を残すことができた。
今でも、七五三や、結婚式など多くの記念的場面で写真が撮られます。記録としても必要とされていますが、写真を撮るという行為としての儀式性が、その場面場面でまだ必要とされているのです。旅で出会った人に、写真で感謝の意を告げることも同様にひとつの儀式です。
そのような儀式においては、やはりiPhoneではなく「カメラ」の出番だなと思います。
カメラがありふれたこの時代に、私たち撮影者が欲しているのは、祭具としてのカメラなのかもしれません。
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