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死ぬための練習|24/1260

気がつけば、すっかり秋。

いつも夏と秋の境目に目を凝らしているのだけど、
秋が完全に到着した後で気づき、ちょっと悔しくなります。

その瞬間をまた逃した! 
って。

地球と遊んでいるような、ちょっと楽しい悔しさですけどね。


そんな肌寒い秋の早朝、
ふと思い出した会話と、
それにまつわる思いがつらつらと出てきました。

もしかしたら、誰かのヒントになるかもなので
書いてみますね。


母親の役割を手放す


・・・・・・・・・・

「昨日、私は
母親の役を手放したの。

子どもの頃から、
精神的に不安定だった母の代わりに、

弟たちの面倒を
ずーっと見てきた。

去年の冬に、弟の一人が
亡くなったんだけど、

最期ずっと一緒にいたのね。

彼が死んでいくのを見るのは
本当に辛かった。

で、最近ふと思い立ったの。

もう母の役をしなくてもいいな、って。

いい年になった弟たちにも、
心臓を患ってる夫にも、
離れて暮らす依存症の息子にも、

そのせいで、私が引き取って育てている
孫のことも。

息子はたまに訪ねてきて、
夫と男同士の
無言の会話がしたいみたいだし、

孫はかわいいけど、
あの子の親は息子なのだし

もういいかな、って。

でね、孫が学校に行くのに
準備ができてないと、
前は何とかしようと
がんばって声かけしたり、
色々やってたんだけど。

今朝なんて、

私、ゆっくりシャワー浴びてたわ。

孫は、学校には遅刻したけど、
そうやって学ぶでしょう。
それでいいのよ。

これって、
死ぬための練習じゃない?

死 という究極の
執着しない状態に向けての
練習よね。」

・・・・・・・・・・・・


エルダーフッド

私の中では、
ああ、身軽になって良かったな
という
お祝いしたい気持ちと、

彼女が抱えてきた
重くて、
たくさんの想いが
詰まった
大切な重荷を手放すことで

まだ呆然としているような表情に、
じんわりと立ち上ってくる
悲しみみたいなものも
感じていました。

いつもいつも、家族のことを気にかけてきた彼女。
もう70歳に手が届くまで
母として家族をまとめるために
多大なエネルギーを使ってきた人。

今回の彼女の手放しは、
老いと体力の衰えのせいで、
半ば強制的にそうせざるを得なかった
ようにも見えるけれど、
成熟した彼女のたましいが
Goサインを出したんだろうな、
とも感じました。

年を取るって
きっとそういうことなんだな、とも。

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「これからは、エルダーシップにシフトしようと思うの。」


エルダーシップとは、
長老的な役割 という意味で、

エルダーフッドとは
長老期という意味です。

単純に体が歳をとるというよりも、
精神やたましい的に円熟するという意味合いが強い、
比較的新しい言葉です。


「実は、虐待家庭で育った20代の子から
たましい的な探求のためのガイドになって欲しいと頼まれていて。
これからは、そういうことに集中したいと思っているの。」

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死と生は同時にある

話が飛ぶのだけど、

自然や生き物って、
圧倒されるくらい私は好き。

そのシステムは、広く深く計り知れない複雑さなのに
自慢もせず、無言で、
ただ本質を見せてくれるから。
例えば人体は、
絶えず生と死を繰り返していることを。

何十兆個もの体細胞たち。
その寿命は、
早ければ1日という儚いもの。

一人の人間の中で、
毎日毎日
体のどこかで生まれくる細胞と、死にゆく細胞達。
あちこちで一斉に
絶えずさざ波が立つように
生と死は
同時に存在している。

そしてこの、
ミクロ宇宙の細胞群のドラマを、
絶えず見守り続ける存在があるのに気づく。

神経系。

神経細胞は、群を抜いて長生きで、
人の寿命をはるかに超える。


「まるで神さまみたい。あれ……

だから神経って、『神』の文字がついてるのか!」

私の中の
好奇心に満ちた子が
大発見をしたみたいに
驚いて言う。

生きるための練習

冒頭の 友人との会話に戻りますね。

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「死ぬための練習……それって、同時に
生きるための練習でもあるよね。
重荷を手放して その分自由になると
もっと心からフルに生きて行ける
ってことだから。」

「なるほど〜、そうだね。」

と、顔を見合わせたとき、
何かが広がったのを感じました。

余命は伸び縮みする


ところで、この、負担が大きい役割や重荷を手放すって、
ある意味寿命を伸ばす行為なんですよね。

外の世界の負担を手放すのも、
自分の内側の心の重荷を手放すのも。

キリスト教的には、

サレンダー(降伏する)とか
神さまに信頼し、み手に委ねる 

という表現になるし、
禅の言葉だと、

道元の
「放てば手に満てり」

というのがあります。

今でも時々思い出す、昔ホスピスにいた頃の、
オーストラリア人ドクターの言葉。

「緩和ケア(ホスピスケア)は、延命することをせず、

心地よく過ごせることを目指しているけど、

実際は私たちの介入で、命を伸ばしたり縮めたり、してるよね。」


ホスピスでは、患者と医療者 という役割の壁が薄くなって
それぞれの歴史を背負う
人と人
の側面が強くなってくるから、
それだけで患者さんが力を取り戻すこともあったな。

『あなたが、ちゃんと
私たちの瞳の中にいて、
こうして生きていて、
例え私たちに何もできることががなくなったとしても、
あなたを決してひとりぼっちにすることは
ありませんよ。

最後の最後まで、
私たちは一緒にいますよ。
あなたがそうして欲しいように。』

ということを、患者さんにはっきりと分かるように
声に出してちゃんと伝えられたらよかったのに。

若くて経験も少なかった私は、
恥ずかしいのと遠慮と怖いのとで、
そんなこと言えなかったな。
到底無理もないのだけれど。

そうすると、
私にとって
歳を取るというのは、

その思いを隠さずに
誰になんと思われようとも
声に出して
はっきりと丁寧に、
伝えていくということなのだろう。

どんなあなたでも、私たちという
集合体のいのちの一部だし、
あなたはもう、
ひとりぼっちになることは
決してないんだよ、
って。

一息ついて、周りを見渡す

負担になっている役割を手放す
というのは、
完全放棄するいうより、、

一旦抜け出てたり、
誰かの助けをもらったりして
自分の重荷を軽くすること。

そうして身軽になったら一息ついて
ゆっくり周りを見渡してみると、

今までまったく気づかなかった外の景色が
目に入ってくるでしょう。

エルダーフッドという、人生の次の風景の中に
彼女が足を踏み入れたのを感じたとき、
「サクッ」
と音が聞こえたような気がしましたが、

それは、
わたしの心の中の足元の落ち葉を
私が踏んだ音だったのかもしれない
と、思ったのでした。





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