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【体力の「EMPTY」とは?⛽️】病院で助けを求めたらラジオ体操を処方された女の30日目

私は基本的にガス欠、いや、もはや「EMPTY」を超えて完全に疲れ切っている状態だ。世の中でよく聞く「疲れた」という言葉が、私にとってはもはや別次元のものに感じられる。この「疲れた」状態は、私の「疲れた」とはまるで違う。これについても、姉から指摘を受けたことがある。


「通常の人の疲れたは、まだ動ける状態なのよ。あなたの疲れたは、もう完全にエネルギー0。動けないレベルなの。」


姉のこの言葉に、私は愕然とした。そんなことがあるのか?私はいつも「疲れた」という感覚を持ちながら、それでも体を動かすのに精一杯なのに。世の中の人たちは、「疲れた」と言いながらも、まだ余力を残して活動できるというのだろうか。


私は基本的に、「疲れた」という言葉が「もう動けない」「完全にダウン」の状態を指すものだと思っていた。だから、動けなくなる直前の状態こそが本当の「疲れた」だと信じて疑わなかった。それなのに、姉の話を聞く限り、世の中の人々は、まだ動けるうちに「疲れた」と言っているのだという。


「なんということか…。人はそんなにも余力を残して活動できるものなのか!?」


私の中で、この事実は衝撃だった。疲れたと言いながら、まだ活動できるエネルギーが残っているなんて、まるで不思議な生き物のように感じてしまう。私の「疲れた」は完全にエンプティ状態。もう何もかもを放り出して、動けなくなる寸前なのだ。それが普通だと思っていたが、どうやらそれは私だけの感覚だったらしい。


世の中の人々が言う「疲れた」と、私の「疲れた」には、ものすごいギャップがあることに気づかされた瞬間だった。疲れたと口にしても、まだエネルギーが残っている状態で活動できるというのは、私にとっては完全に未知の世界だ。


「疲れたって、普通はエンプティだろう!」


そんなことを考えながら、今日も私は体を引きずって仕事に向かう。私の「疲れた」は、すでに動けない状態を超えているのに、それでも体を動かさなければならない。まるで、ガス欠寸前の車を無理やり押して進めているような感覚だ。だけど、動かなければならない。それが現実だ。


こんな状態でどうにか仕事をこなしている自分が、時々不思議に思える。体は完全にエンプティなのに、それでも何とか動いている。私の「疲れた」は、もはや「限界」を超えているのだ。


それでも、日常は続く。私の疲れた体を引きずって、今日もなんとか仕事をこなす。それが今の私の「日常」なのだ。



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