よむということ 4
ここ最近、
小説を読む機会がある。
自慢ではないが、
子供の頃から
本当に小説とか
その手の本は
読んでこなかった。
小説が純粋に面白いと
思ったのは、
30歳を過ぎてからかもしれない。
中学生の教科書では
『少年の日の思い出』(ヘルマン・ヘッセ)
高校生の教科書では
『山月記』(中島敦)
といったものが
やはりインパクトがあるが、
小説とひとえに言っても、
いろいろな種類、時代背景の
ものがあるわけで、
そう簡単に分類できるものではない。
大学生の時分は、
ただの鈍感な男子学生の感性しかなく、
文学を解する精神的余裕などは
到底持ち合わせてはいなかった。
いまだって、
全然足りていないのがわかる。
小説の講評等を目にすると、
「え、、そんな視点、解釈があるの?」
という具合に
自分の至らなさが痛感されて、
少しいやな気持ちになることも。
まあでも、
これから愉しんでいけばいいのかな、
と安楽にかまえてはいる。
加えて、
文章の読み方について。
小学生の頃から
長い文章を読むのが
苦手だったのだが。
それは
なぜかというと、
拾い読みとか
斜め読みとか
そういった読み方を
持ち合わせておらず、
文章を右から左へ
単に読み進める視点しかなく、
細かく読むことに
”ひどく疲れて” しまったところがある。
(神経質が行き過ぎるとこうなるのかな)
しかし、この傾向は
「精読」という姿勢を
与えてはくれた。
最近は、
小説に限らず、
本、文章を読む際に
キーワードだけ追ったり、
はたまた
後ろのページから
読むことがあったりもする。
(そもそも決まりはないのかなと)
どうして、
こういう視点が得られたかというと、
おそらくは
「スマホ」の存在、
画面をガンガンにスクロールする、
ということが寄与しているように思われる。
スマホの画面は、
読み飛ばしでも
ページのスキップでも
なんでもありだ。
その自由さが僕に
新たな翼を授けてくれた。
(レッドブルの謳い文句か)
ただ
少し戻って、
文章を右から左へ順に読むとか、
数学の問題を問1、問2、、
というように順に解いていくというのは、
それはそれで
大事な視座を有してもいる。
というのは、
順番に進むことは
規則、規律に従うことに繋がり、
あくまで
日本人らしくはあるのである。
この
順を追って読むということと、
必要なことだけ拾って読むということは、
時と場合で使い分ければよい。
高校生の
国語の文章読解では、
速読や拾い読みは
危険だと思われる。
対して、
サラリーマンが出勤前に
情報を得るというのであれば、
やはり読み飛ばしが
有効になってくる。
と
つらつらと
こんな感じで
書いてはみたものの、
これって、、
みんなが既にやっている、
当たり前のことだよね。
今年の夏で
36歳を迎えるんだが、、
行き先はいかに。
以上
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