「死」を見つめて

「明日の正午に貴方は死ぬ」

起きて直ぐ、全知全能の存在にそう言われたらどうするだろう。
こんなことを考えてしまった。

その命日が平日だったら、あるいは土曜日だったら。
2通りの筋書きを思いついた。もちろん主人公は僕だ。

死を前にして、僕は冷静でいられるだろうか。
「まだ心の準備が出来ていないんだ!!」と言って足掻くのか、全てをゆるし自分の運命を受け入れるのか。

自分は明日死ぬと言われたら、間違いなく動揺する。
でも僕は、それを運命として受け入れるのだろうなと思う。

命あるものはみんな死ぬ。僕にとってそれは明日というだけだ。
きっとそう思うだろう。

僕には死ぬ前にやりたいことがたくさんある。例えば、高級腕時計を大量に買うこと、世界一周旅行をすること、豪華な料理をたらふく食べること。

でも残念ながら今の財力では無理だ。

銀行強盗でもしない限りそんなお金は手に入らないし、それは決して許されることでもない。たとえ僕が明日死ぬ身であっても。

あれだけの大金、家族にせびっても取り合ってもらえないだろう。

大学に行くことも叶わないので、受験勉強も意味をなさない。

したいことでできることといえば、ディスクオルゴールを制作するアプリで自分だけのディスクを作ることくらいしか思い浮かばない。


もし僕の命日とその前日が平日だとしたら…


いつも通りの時間に、階下にいる母と挨拶を交わし、朝ご飯を食べ、学校に行き、授業を受けると思う。きっと授業は普段よりも真面目に受ける。もう二度と授業担当の先生とは会えないし、残された時間をクラスメイトと共有できる時間もわずかばかりだから。

休み時間でもそれは変わらない。友人と談笑したり、一人で音楽を聴いたり、弁当を食べたり、SNSをチェックしたりする、ありふれた一日になると思う。ただ、命の砂時計が残り僅かだということが心にピン留めされているから、その行動一つ一つが重みを持ってくる。

しかし、自分が死ぬことを大切な人に言うことはないだろう。下手に悲しまれ、哀れみの眼差しを向けられても僕が困るだけだ。

学校が終わったら家に帰り、直ぐにパソコンを立ち上げ、先に書いたディスクオルゴールのアプリをインストールする。そして少し眠る。

夕食と風呂を済ませた後、僕は趣味の合う友人が集まったLINEグループに電話をかけ、彼らと会話をしながらオルゴールのディスクを作るだろう。

そして壁に掛かったからくり時計を一つ一つ鳴らし、最後の別れを告げると思う。実は、僕は今まで集めてきた時計のその後をあまり気にしていない。使っていたらいつかは壊れるし、然るべき時に処分されるのは当然のことだ。価値のわかる人が持ってくれたらいいなと思う程度だ。

そしていつも通り、ベッドで眠りにつく。

次の日も、いつも通り起きて学校にいく。そして、4時間目が始まる11時50分になったら机に突っ伏して眠るだろう。そしてそのまま昇天するのである。僕が死ぬ瞬間を誰も気付くことはない。

土曜日に「お告げ」が来ても基本的に同じだ。でもきっと最後に思い出の場所に行きたいと思い、ヨドバシカメラの時計売場に行くだろう。ここには今でも時々行くくらいにはお世話になっている。
そして、死ぬ時になったら、ベッドの上に横たわり、イヤホンを耳にはめ、音楽を聴きながら、体が冷えていくのを感じ取るだろう。
それ以外は友人に電話したり、オルゴールのディスクを作ったりといったあらましは同じだ。

こうして考えを文にしてみると、僕は誰にも見られることなくひっそりと死んでいきたいのだと思った。

だが、これはあくまでも理想だ。あなたがこの記事を読んでいる時に地震が来てしまうかもしれないし、車が突っ込むような事故にだって遭うかもしれない。
そして、家族や友達といった愛する人もいることだろう。
大切な人がいるからこそ、一人でひっそりとあの世へ行くという理想の死を体現できるとはとても思えない。

それでは、大切な人のために死ぬのはどうだろう。

僕はこの間、「いぬやしき」というアニメを見た。
そのアニメの内容は、定年間近のサラリーマンである「犬屋敷さん」と男子高校生の「獅子神くん」が突如戦闘ロボットと化し、戦闘を繰り広げた挙句、地球に降ってきた隕石を2人の自爆によって破壊するというものである。
「人を救うことによって生を実感する」犬屋敷さんと「人を殺すことによって生を実感する」獅子神くんは敵対するのだが、最終的には「愛する人を守りたい」という思いで、2人は協力して隕石を破壊する道を選ぶ。
その「愛する人」とは、獅子神くんにとっては限られた友人だけであり、犬屋敷さんにとっては全人類なのだ。

この2人のうちのどちらかと言えば、僕は限られた人のためにこの生命を捧げる獅子神くんタイプだ。僕にとって大切な人は何人もいる。でも、僕が生命を捧げてもいいと思えるのはほんのひと握りだ。

僕の友人に「ねぇ、死んで」と軽い口調で言われたところで自殺することはありえないと思う。
また、僕の両親や年老いた祖父母のために死ぬ気にはなれない。残された寿命は明らかに僕の方が多いからだ。

でも、自己肯定感に溢れ、日々を有意義に生きている人のためならこの生命を捧げることだろう。例えば、僕の友人の1人に起業家と高校生とを交流させるイベントを企画している人がいるのだが、行動力があり人望の厚い彼女のためなら死んでもいい。また、人気のある歌手や俳優のためなら死んでもいいと思う。明らかに自分より多くの人に希望や生き甲斐を与えているからだ。

理想の死とはなんだろう。

いつかこんな広告を見たことがある。

「死ぬ時くらい好きにさせてよ」というキャッチコピーが大きな白い文字で書いてあり、老女が森の中で横たわっている写真が貼られた広告である。いつ見た広告だったかは忘れてしまったが、その内容だけはやけに覚えている。
この場合、「好きにさせて」とは自分の意思を尊重させてほしいということだと思う。

当然、死ぬときの感覚は分からないが、人生最後の一大イベントくらいは自分の意志を尊重させてくれという感情は大いに理解できる。

痛みを伴う延命治療は楽なものではないだろうし、長生きしてほしいというのも、大切な人を喪う悲しみを恐れることで生まれるエゴイズムだと思う。不治の病などで「早く死にたい」と思っている人もいることだから、そこは本人の意思を尊重すべきだろう。だから尊厳死の制度はあってもいいと感じる。

ここまでは肉体的なことを書いたが、精神的なことを書くとしたらこうだ。

気分が最高潮に達した状態で、痛みを感じずに僕は死にたい。ぶち上がるプラスの感情とともに生を全うしたらどれほど美しいだろう。そう思っていた。

だが、この記事を書いているうちに考えが変わってきた。
理想の死とは「静かなる死」、つまり生まれた時の状態と同じ中庸の状態で死ぬことだと思う。
産まれた時の赤ちゃんは感謝をしている。両親に、この世界に、自分を産んでくれてありがとうと。
死ぬ時だって同じだ。架空の人物ではあるが、犬屋敷さんも獅子神くんも感謝の念を心に持ったまま死んでいった。
自分を育ててくれたこの世界よありがとう、と感謝の気持ちを持ったまま死んでいきたい。

そして、今できることはきちんとやっておく。
正直、これはとっても難しいし、苦手としている人も多いだろう。恥ずかしながら、これを書いている僕だってそうだ。
しかし、やるべき事を丁寧にこなすことを心がけている人は自己肯定感が高く、生きていること自体に満足しているように見える。
それならば思い残すことはないだろうし、決して死ぬのが怖いと思うことはないだろう。

この記事は「死ぬ時の感覚を一度死んで味わってみたい」と言っていた僕の友人たちにも見せる。彼らがどう思うかは分からないが、この記事を読んでいる皆様にとって死について再考するきっかけとなれば幸いである。

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