読書リハビリ:エッセイが読みたい
習慣ができるのはなかなか難しく、習慣を失うのは一瞬だ。
ぼくの読書リハビリは順調だったけれど、仕事が忙しくなったらもういけない。
それでも一息ついたので文學界を読み続けている。
特に9月号の特集、「エッセイが読みたい」は興味深かった。
特集 エッセイが読みたい
エッセイ、というものがなんなのか、ぼくはまだ人に説明することができない。
エッセイ、コラム、随筆、それぞれどういうもので、どう違うのか。
それが今回スッキリするのではないかと思う。
そして自分の中のエッセイについてが固まるのではないかと期待しているのだ。
エッセイとは何かのエッセイ
天体としてのバター:オルタナ旧市街
エッセイとは何か、を知ることが先決だ。
そして自分の中にあるエッセイという概念を確認する必要があった。
オルタナ旧市街という方のエッセイはそんな概念にかすった。
そう、これだ。
何かエッセイというものがやや軽めの文章というイメージがあったのと、「向け」が存在することへの違和感を感じていた。
気になったものを読めばいいのだけど、「向け」を決められると該当しない場合は選ばないほうが良いのかと思ってしまう。
不勉強なので「徒然草」をまともに読んでいない。
しかしこういう風に砕けた感じで表記してもらうことで、そうかこれもエッセイであったと思えるし
「向け」ではないのではないかと少しだけ敷居が下がる気がした。
が、まだ決定的なエッセイという概念の破壊と再構築には至らない。
出てきてしまったもの:能町みね子
能町みね子は論考を読み解説も交えてくれた。
酒井順子「日本エッセイ小史」によると
また、続けてエッセイとは何かを解説する
なるほど。
かなり整理されてきた。
これはいいまとめだった。まさにエッセイについてのエッセイだった。
能町みね子の書く文章が好きなので、これまでも出版物は漏れなく購入しているくらいには信用している。
なので、紹介していた前田隆弘「死なれちゃったあとで」も早速購入した次第。
「赤い丸の思い出」と私:ジェーン・スー
ジェーン・スーのエッセイにより、さらに新たな視点が追加された。
前述の能町みね子の節でもあったように、本業のある人のエッセイには、やはり本業のエッセンスが含まれるということなのだろう。
それは間違いない。
それも含めてエッセイの魅力ということだ。
エッセイとは何かをめぐる小さな旅:野村訓市
続いて野村訓市のエッセイについてのエッセイ。
これによりここまでのまとめ的に考えがまとめられた。
エッセイとは何か、知らず知らずに読んでいた本がエッセイと分類されるものであったりする。
そしてエッセイストに兼業が多いというところを知る。
まさに前述の流れである。
そして以下のようにまとめている。
ぼくも同じようなストーリーを辿り、同じような結論に至った気がしていたので、とても合点がいった。
私とエッセイ的なエッセイ
原田宗典の影響:吉田靖直
トリプルファイヤー吉田靖直の登場、彼のエッセイは自身のエッセイとの出会いについてだった。
コンパクトな中にしっかりと文章がまとまっていて、トリプルファイヤーの歌詞とは違う理路整然としたものだった。
こういう自身の話を端的に切り取って語れられるエッセイは読み心地が良くて好きだ。
原田宗典は名前は知っているが、読んだことはない。
はて、原田宗典はエッセイで有名ではあるが、本業はあるのだろうか。
Wikipediaで軽く確認すると、小説家とある。
エッセイストと小説家を分けるのもなんだから、本業と言えるのだろう。
男の基本について:山本精一
1981年に出版された、篠原勝之「人生はデーヤモンド」についての話。
前述の吉田靖直と同じように、自身のエッセイとの出会いだ。
篠原勝之のはなつパワーワードが満載で、魅力がダダ漏れである。
そうか、こういうのが魅力なのかと思い知る。
やはり表現の世界に生きる人間は、言葉にも力が宿っている。
エッセイにはそういった言葉が必要なのだ、特に本業を他にもつ人の場合は、「」で括られるような。
こちらも自身の背景がスッと入ってきつつ、作品の魅力を紹介していて非常に好ましいエッセイだった。
スキヤキとザムザ:小山田浩子
こちらもいとうせいこうとカフカが混ざり合うエッセイの原点の話。
やはりこのエッセイを読んだからというものが多かったのだが、こういう自分語りが好きだったりする。
スペースシャワーTVは全然観ていなかったけれど、そういう知らない話を「ほー」とか「へー」とか言いながら読むのがいい。
当然ながら、筆者の筆力が前提になるのだろうけど。
知らない人の知らない話で、しかも短いのにここまでわかった気分になれるのが、文章力なのだろう。
傷つくことだけ上手になって:松尾スズキ
こちらも私とエッセイ、松尾スズキは「つかこうへい」からの影響を語っていた。
劇作家、役者という本業があり、エッセイでは松尾スズキのエッセイを演じているということか。
なるほど、筋がはっきりしているとエッセイにもやはり筋が通るのかもしれない。
端的にただの面白いエッセイ
ドーナツ屋で殴られる:檀上遼
まずはタイトル、そしてこれが実話も交えての話というところが良い。
筆者の檀上遼、そして出てくる話題についても、ぼくはほぼ知識がなかった。
それでもグイグイと話に引っ張られて楽しみながら読み、そして読み返してしまうという良作だった。
書き出しが良い。
趣味で総合格闘技ジムに通っていた際に知り合ったNさん、そして彼に教わったデイヴィッド・リンチの「イレイザーヘッド」
そして特異な髪型の主人公ヘンリーを演じるジャック・ナンスの話。
「イレイザーヘッド」といえば難解なリンチ映画の中でも特に難解と言われる作品ということは知っていた。
その噂ばかりが先行して入っていたので、いまだに未見であった。
そんな作品をリンチは自伝的エッセイ「大きな魚をつかまえよう」で振り返っている。
そのタイトルについては議論しない。
こうなってくるとGoogle検索で「イレイザーヘッド」「髪型」で検索してしまう。
画像で見る分にはそこまで特異な髪型でもなかったが、四年間もこのままにするというのは、役者という職業にとっては大きなマイナスに思われる。
そしてこのエッセイのタイトルでもあるドーナツ屋だ。
ジャック・ナンスは晩年、ドーナツ屋で殴られたことが原因で死亡している。
そんなこともあるんだな。ドーナツ屋という平和なお店で殴られる人生なんて。
当然ながらこの顛末も調べてみたが、諸説あるらしい。
こうなってくると、ジャック・ナンスの書くエッセイも面白かったのではないかと思えてくる。
短いながらも情報量が多くて、知らないことを知れた良いエッセイだった。
まとめ
一通り特集は読んだ、そしてこれ以外にも、「文学フリマでエッセイを買う」という企画が2本あり、エッセイについての長めの論考が2本あった。
これは割愛。
自分なりにエッセイについての再構築ができたことと、エッセイについての偏見がかなり薄れた感がある。
いや、そもそも文學界に載っているエセー、かなり好きだったよね。
私小説とかも好きだから、自分語りが嫌いなわけがない。
つまりエッセイとの親和性は元々かなり高かったはずであり、その短さも会って読書リハビリにはちょうどいいのではないかと、今は思っている。