初イレバ。
私の左下にできた一本半分の隙間。
つまり歯抜けである。
誰も他人の歯の話、ましては耳の疼くような歯医者の話など聞きたくもないと思うが、自分の心の整理のために書かせてもらおう。
私の黒歯歴史は10代の高校生にまで遡る。
いや、あれはまだ中学生だったかもしれない。左下奥から2番目の歯が虫歯になり、金属の詰め物をすることになった時のことである。
その当時の神経の抜き方というと、歯医者が「神経を殺す薬を入れるからね」と言って、何やら綿に染み込ませた物を歯の中に放置し、上から仮の詰め物を被せ、それを2,3回繰り返すといったやり方だった。予約は1週間置きだった。
たいていいつもその仮の詰め物というのは、2,3日で姿を消した。だからその歯で「噛まないように、噛まないように…」と気をつけていた。
…はずだった。
その日の夕方、母が台所でさつまいもの素揚げを作っていた。お、大好物じゃないか。
私は穴の開いた歯のことなど百年昔のことのように忘れ去り、そのカリッと揚げられた熱々のイモを口に入れた。
「ピシッ」
嫌な感覚が下顎の方まで突き抜けた。
やばい、という言葉以外になにがあろう。
やばい、やばい、やばい、やばい。
私はお風呂場の鏡に向かって走った。
恐る恐る口を開け、見る。
…。
割れているようには見えなかった。
数日後、何事もなかったかのように歯医者に行った。
若い親切な歯医者さんの手が一瞬止まる。
「…なにか硬いものを食べましたか?」
「ひぃぇ(いいえ)。」
なんて罪深い私…。
いや、私だって信じたくなかったのだ。イモの出来事はまるでなかったことのように無意識がその記憶をすっ飛ばしたのだ。
若い歯医者はそれ以上何も言わず、予定していたとおりに出来上がっていた詰め物を入れた。
私も事なきを得たかのように振る舞った。中学生だ。そんなもんだろう。
数年後、その歯医者からハガキが届いた。親子でやっていたうちのどちらかが亡くなったという知らせだった。私はちょっとだけ心配した。患者全員にわざわざハガキを送って知らせてくるものだろうか。まさか私が放った「ひぃぇ」の一言が、優しい歯医者の心労になってしまったのではないか…。
今更ですが、私のあの日の嘘もあなたの沈黙も、巡り巡って起こった小さな事故だったとどうぞお赦しくださって、安らかにお眠りください。
さて、その左下六番目の歯は数年間は生き延びた。しかし、あの感覚はやはり事実であった。
私は高校3年生になっていた。ある日の授業中、白と紺色のあのみずみずしい制服に似合わない臭いが自分の息に混じっているのを感じた。
私は家の洗面所で鏡をのぞきながら、鈍く痛む歯を手で揺らしたりしていた。歯茎が緩んで歯の半分が少し横に倒れるようになったのだろう。その時、真ん中にパッツリと入った割れ目が一瞬だけ見えたのだ。その線は重なっているときには完全に姿を消すという、完璧な芸術作品のようだった。
もう一度やってみた。痛みのある方の半分の歯を指で外側に押し倒すようにすると、その恐怖の亀裂が私の心をつんざくようにして現れた。後悔の嵐が押し寄せる。からっと揚げられた芋に、全てを忘れて身を捧げた愚かな自分を責めた。
私は母の通っていた歯医者に予約を取り、自転車を飛ばせた。受験も終った頃で、授業を抜けて歯医者に行ったのを覚えている(先生はどこに消えたのか心配していたようだが。)
「割れてないよ。」
ベテラン歯医者は言った。
あれから数年成長した高校生である。
「割れてるんです。」
と、私はもう一度言って、割れ目が見えるように半分の歯を指で押して見せた。
あら、とでも言っただろうか。歯医者にもそれが見えた。割れ目を開けると、臭いが漂ってくるのが分かった。
とりあえずぐらついていた半分の歯が抜かれた。
次の予約を待つうちに、残された半分の歯も鏡の前で指で押しているうちに私の細胞を離れた。
ブリッジ決定である。
ブリッジとはご存知の通り、両端の歯と連結させて空いたところに浮いた歯を作る。左下六番が抜けていた私の場合はその前と後ろを合わせて五、六、七番と連結させて歯を作った。
治療はとくに問題なく進んだ。そして一本歯を無くすことの大きさにもそれ程気づいていはいなかった。
それから10年後。
私は地元の高知から新潟に移っていて、30代になりたてのその頃、慢性の頭痛に悩んでいた。私は小さい頃から歯ぎしりもあり、歯もいくらか摩耗していた。
当時にわか大学教員だった私は、噛み合わせを診てくれそうな歯医者の論文を大学の図書館データを駆使して漁っていた。そして一件、私の案件にピッタリ合う歯医者の報告を見つけたのだ。しかも車を走らせれば通える範囲だった。
私がラブコールをかけた相手は、リタイア直前の元気で小太りで人間味あふれる声の大きな歯医者だった。私が論文を読んで来たのだと告げると、くすんだ恋心に火を付けたかのように喜んでくれた。長年の彼の持論に再び明かりが灯された、という意味である。
歯医者は私に割り箸を一本くわえさせ、廊下を歩いてこい、と言った。数歩で戻ってくると、もっと遠くまで、と言われ、私は狭い歯医者の端からはしまで待機患者の前を「ふんあひぇん(すみません)」などとと言ったか言わなかったか、割り箸をくわえた姿で横切った。
するとどうだろう。すーっと頭と首の凝りが引いたようだった。自慢気なおっさん歯医者。私はその歯医者に言われるように治療を受けた。
しかし、歯医者も歳を取る。やはりリタイア間近の人間であった。擦り減った私の歯を少し高くしてあげようと、いろいろ試すうち、事件は起きた。
何度か通ううちに、歯医者は、ブリッジをやり直したほうがいいね、と言った。今のブリッジを解体して七番の神経を抜くのだと。ある日の予約日に、時間のかかる作業に他の患者を待たせながら、歯医者は少し落ち着きなく神経処理に取りかかった。
ズボッ
ズキン
身体が診察台の上でアニメのように跳ね上がったかのような一撃が私を襲った。歯医者は何事もなかったように振る舞っている。スゴスゴと唾液を吸っている歯科助手のおねーさんも変わらずスゴスゴを続けている。痛みはその一瞬だけだった。
後日、歯医者は私の支払いの際に、3本分のブリッジの1本はタダにしてあげるね、と言った。10万円だかの値引きである。私は親切な歯医者だと思い、ただ感謝した。
5年後。
私は常夏のマレーシアにいた。そこでは人間もプラスチック製品も、直射日光に当たっていれば4,5倍に加速して劣化するような土地だった。
私の口の中も、高温多湿で雑菌を好環境で育てるような場所になっていたのだろうか。どうやらブリッジを支えている左下七番から臭いが出ているようだった。歯を磨いた後なのに、私が近くで話しかけると子供たちが何やら言ってきた。こういう時に、家族というものの有り難さを感じるのは私だけではないだろう。
一般的に、日本人はマレーシアで歯医者にかかることは避けたほうがいいという風評があったが、そうも言ってられない。私は、マレーシアの物価がイギリスの5分の1という点と、中国人の手先の器用さを信用するという点を頼りに、近所の歯医者のドアを開けたのである。
結果、マレーシアの中華系歯医者は、私的過去最高の麻酔注射の腕前と、最高のフッティングを見せてくれた。値段も日本より少しばかり安かった。私の新しいジルコニアのクラウンは、3Dコンピューターで形が作られ、噛み合わせは完璧だった。
しかし、それでも再び取り壊された私のブリッジは、あのおっさん歯医者が元の歯を削りすぎていて、再築不可能だった。そのブリッジを壊すのでさえ、クラウンが厚すぎて4,5時間くらいかかった。診察台の上で、私は歯医者の時給と支払いが見合うのかという余計な心配ばかりしていた。
六番は歯抜けに戻された。依然として七番は異臭を秘めている。中国人のできる系歯医者は、七番をコツコツと金属で叩いてダメージ具合かなんかを確認しながらも、これは抜かずにもう一度クラウンをかぶせようと言った。私は望みをかけるかのように頷いた。五番ジルコニアクラウン、六番歯抜け、七番ジルコニアクラウン。なんという金食い虫だ。
2年は持ちこたえただろうか。
もう限界だった。この時すでに渡英していた私は、家から一番近い歯医者に行って、この歯(七番)を抜いてほしい、と言った。
キラッと歯の光る貫禄のあるインド系のおばちゃん歯医者は、お安い御用と言わんばかりに、さっさと事を済ませてくれた。おばちゃんはカランとトレーに歯を置いた後、それを手に持って私に見せてくれた。あのおっさんがやらかした一撃の証拠を見た。歯の一番根元の部分が貫通し穴が空いていて、そこに嚢胞ができていた。それが悪臭の親元だった。
私が、抜いたあとこの隙間をどうするか、とベテラン女歯科医に聞くと、歯がない人なんて五万といるわよ、と笑わんばかりに言っておしまいだった。
左下七番は、子供の抜けた歯を持ち帰る用のTooth fairy と流れ星が描かれた小さな薄紫の可愛い紙の袋に入れられた。
家に帰り、私の細胞をコロンと手の中に出してみた。今まで私の身体の一部分だったそれを何度も眺め、何度もにおってみた。臭いのにどうにも愛おしかった。
つづく…