喜びのない幸せは。
フェイスブックで友達が(20も年上だが) 、
「あなたの "joy" はどこから来るか。」
という質問をしていた。
こういう問いにはまんまとのせられる私である。年配の人たちの答えを読むのも面白かった。「料理をして、それを誰かと分かち合うとき」、「あなたとハグをするときよ!」などなど。「喜びは神が与えるものである」とか言う一瞬居眠りしそうな回答もあった。
しかし読んでいると、どうやらみんな「喜び」と「幸せ」を一緒くたにしているように思えてきた。
そういうところにぬるっと手を入れるのが好きな性格の悪い私は、素直に返答しつつジワジワと質問返しをしてみた。
そして、コメントを送りつつも返答を待てない私は、結局自分で調べるといういつものパターンを辿り、さらに今ここでこうして呼吸を整えているというわけだ。
最近はAIにもよく聞いてみる。
私が投稿者に2巡目に返したコメントはこうだ。(英語をグーグル翻訳に通してあるので、小説のようなセリフ回しとなっております…)
ーええ、私もそう思います。たとえ困難な状況でも喜びは存在するかもしれません。なぜなら、喜びは自分自身の内側から生まれるからです。一方、幸せはあなたとあなたの環境の間にあります。それで、私の質問はこうです:
喜びなしに幸せを見つけることはできますか?
ーAIからの返答がこちら。
なるほどなー。例えば私が夜、布団に入っていざ眠ろうか、というときに、ああ、今日も食事があって屋根があってなんて幸せなんだろう…と思うことに、喜びは付随していないし、そこに喜びが不可欠だというわけでもない。
…まてよ。もしかして、まだ「生きている」という生存欲求レベルの喜びが密かに息を潜めていそうじゃないか?
いやはや、これは70歳の人生の大先輩の返答を気長に待つことにしよう。
ということで、こんなつぶやきにお付き合いくださってありがとう。みなさんのうちにある「喜び」がキラリと輝く一日になりますように。