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掌編 木曜日のステージ
木曜日のステージ 1988字
沈黙と言う言葉をはじめて知ったのは、火曜日の放課後だったと思います。そのときは「チンモク」という以外、どう読むのかわかりませんでした。
そのまま「チンモク」では、なぜだめなのでしょうかと訝しんで、先生を悩ましてばかりでした。けれど、「ウソ」と読むことがわかると、わたしはなぜかゾクゾクしたのです。
文字から受けるイメージより先に「U」「SO」と口を動かすときの、小さな頬の緊張。しっかりすぼませたあと、開くように見せかけて、また小さくすぼめる発音は沈黙の実態がリアルに伝わってきて、これまでの「チンモク」が潜めていた深層の感触がゆらゆらと立ち上がってきたのです。
黙って口を沈ませることへの真意とでも言うのでしょうか。「沈」と「黙」と言う文字を「ウソ」と見立てた人のセンスがよく理解できて、なんだか嬉しかったのでした。
そして、近頃読んだ本の中に、沈黙に「だんまり」とルビがふってあったのもとても印象に残りました。ますます沈黙=「ウソ」という言葉が好きになりました。
そう言うと、先生は満足そうでした。
授業が終わった教室にわたしをひとりだけ呼びだすときも、さらなる沈黙を使う方法を教えてくれました。個人指導でしたから、それはそれは丁寧でした。ですから、わたしが誰よりもうまく沈黙を扱えるようになったのは言うまでもありません。完璧になるまで先生が導いてくださった結果なのです。
先生は授業中、黒板のチョークをわざと落とします。机の下にしゃがみこんでチョークを拾い上げるそのとき、教室の一番前に座るわたしの白い靴下をそっと撫でます。スカートの中でおとなしくしている膝小僧を下からすーっと掬い上げるように触れるときもありましたし、太ももの内側まで上がってくることもありました。
くすぐったかったです。沈黙はくすぐったいのだとわかったのもこの時でした。
クラスの子たちは気がついていないようでしたけれど、本当はどうだったのかわかりません。案外、斜め後ろに座っているリリちゃんやユキナちゃんは、先生がチョークを落とす理由を知っていたのかもしれません。彼女たちも沈黙の本当の読み方とその効力をじゅうぶん理解していたのであれば、なおさらです。
放課後の教室の隅で制服の上から背中に触れるとき、先生は、胸の下着はこれではダメだよ、と言いました。お母さんに買ってもらったはじめてのブラジャーが黒のスポーツタイプだったので、先生が気を悪くしたのだろうとすぐにわかりました。
わたしはお小遣いで買った白い小さな花柄のブラジャーをつけるようにしました。それは、夕方の個人授業でいとも簡単に外され、乱暴に扱われてしまうのが眼に見えていても平気でした。
すべてが沈黙だからです。
「悪い子だね」先生の囁きはわたしを沈黙の世界へと導いて行きました。
こうして曲を作りみなさんの前でライブをするようになっても、わたしは沈黙から離れることができずにいます。むしろ沈黙こそが、音楽に求められている気がしてならないのです。
本当はもうずっと前から沈黙しかなくて、聴こえているはずのあらゆる声や言葉や歌からは、なにも心が動かされないことをみなさんもご存知なはずですし、誰かにそうはっきりと言ってほしいとさえ思っているのではないでしょうか。路地を横切る野良猫や、朦朧としたままベッドで寝たきりになっているおばあちゃんさえ、もう鳴くことはありません。
じゃあ、なぜ、わたしはこうしてみなさんの前で歌のうのか。
音楽がウソだなんて、そのような言い草はファンへの背徳ではないか。おっしゃる気持ちもわかります。
ですが、それはあくまで、あなたさまの物語でしかありません。
あなたが主人公の映画を、あなたが監督、脚本し、あなた自身が演じている。それだけなのです。
でも、その真実を誰も口にしません。沈黙というのはそのような姿をしているものでしょうから。
あなたの映画に出演している〈わたし〉は脇役でしかありません。
セリフすら与えてもらっておらず、もしあったとしても、監督のあなたがその場面を作り、わたしにスポットライトをあててそう言わせているにすぎません。
沈黙を前にして、わたしたちは逃げる術を持ちません。ぜったいにです。
まあ、かわいそうに。どうしたのでしょう、そんな怯えた顔をして。もう話さない方がいいでしょうか。
もし途方に暮れてしまったら、「U」「SO」と口を動かしてみると、いくらか楽になると思います。
わたしが先生から受け継いだ沈黙という世界があなたのなかでリアルに動き出すかもしれません。
ええ。ゾクゾクしたらそれが合図です。
ただし、それはあなたのなかだけです。それをどうか忘れないでください。では、次の木曜日のステージでお逢いしましょう。