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父のそうめんミステリー ―エアーコンプレッサーの秘密―

 世の中には、なぜそこにあるのか分からないけど、捨てられないものがある。我が家の「エアーコンプレッサー」もそのひとつだ。

 エアーコンプレッサーとは、空気を高圧で送り出す機械だ。タイヤに空気を入れたり、エアブローでの清掃したりと、様々な用途があるが一般家庭ではあまり見ることはなく、我が家ではただ眠っている。

 なぜそんなものが家にあるのか。その理由は、私が高校生だった頃のある夏の日に遡る。

 あれは八月の暑い日。私はリビングで妹とマリオカートに白熱していた。負けた方が「伝説のポケモン」を譲るという大勝負だ。最後の一周に入ったところで、外から父の車が「プップー」とクラクションを鳴らした。しかし、私たちは脇見運転になるので、無視していた。

 すると、LINEが届いた。
「ちょっと外へ出ておいで、いいものあるよ」
 誘惑的な文面に気を取られた私は操作ミスでコースアウトしてしまった。妹が歓喜する中、渋々外へ出ていくと、そこにはピカピカのファミリーカーが止まっていた。

 「どうだ、かっこいいだろう!」と父は大興奮で新車を自慢した。車に詳しくない私は「良いドリフトできそうだね」とゲーム知識で適当に返す。妹は「白くて大きいね」と水族館でシロクマを見るような感想を述べた。

 だというのに父は感極まり、突然「今からみんなで海へ行こう!」と言い出した。突発的な提案に反対する間もなく、我が家は慌ただしく準備を始めた。

 母は「突然なんだから!」と怒りながらも昼ごはんにそうめんを茹で、妹は余裕の表情でしっかり味わう。一方、私は伝説のポケモンを失ったショックを抱えながら、そうめんをかき込むだけで精一杯だった。

 新車に乗り込むと、揺れは少なく快適そのものだった。父が「四駆は馬力が違うだろう!」と自慢するが、何が違うのかは分からない。車内で眠っている間に海に着いていた。

 ビーチでは妹と砂遊びをしていたが「泳ぎ方を教えて」と頼まれ、仕方なく水泳指導を始める。しかし妹の集中力はすぐに途切れる。

「できない、もう無理!」と妹の機嫌が悪くなり始めたそのとき——突然、「ギャーッ!」と叫び、手足をバタつかせ始めた。「虫! 浮き輪の中に虫がいる!」と妹は泣き叫ぶ。

 慌てて浮き輪を見ると、確かに白くてうねうねした何かがいる。私も思わず「ギャッ!」と悲鳴を上げ、妹を抱えて岸まで必死に戻った。

「浮き輪の中に寄生虫がいる!」と私たちが大騒ぎしていると、騒ぎを聞きつけたライフセーバーのお兄さんが駆けつけ、浮き輪を調べてくれた。浮き輪を太陽光にかざして中を覗き込んだお兄さんは、静かにこう言った。

「これ……そうめんですね」

 家族全員が凍りついた。浮き輪を膨らませたのは父、昼食はそうめん。すべてが一本に繋がる。

 私たちは深々とお兄さんに謝罪し、その日の出来事は家族の間で「なかったこと」にすることで一致した。

 数日後、父が「これで空気を入れれば失敗しないぞ」と言いながら得意げに登場させたのが、例のエアーコンプレッサーだ。その言葉には威勢があったが、背中には反省の色が漂っていた。

 それ以来、エアーコンプレッサーは自転車の空気入れや窓のサッシのゴミ飛ばしに使われることもあるが、普段はリビングの片隅で、あの日の出来事をそっと封じ込めるように静かに眠っている。


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