無題/戦争画をテーマにした物語(第5部のつもり①)
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昭和24年3月。
仲間の奮闘を労うつもりで開いた宴の席で「いい加減に描くことに本腰を入れないか」と発破をかけられてから、1年半以上が経っていた。
その後私は、島崎先生の伝手で美術団体に加入した。半年に一度、春と秋に開かれる団体展に出品する作品を制作し、「見られること」を念頭においた作品に向き合い完成させては人目につくところへ晒してみる。団体展以外にも大規模な展覧会への入選を目指すこともできるが、それはもう少し腕を上げてから、というところだ。
作品制作以外にも、団体の仲間との会合や、それらの絡みで知遇を得た人などと「小品展でもやってみるか」という話になればそちらを実現すべく諸々動いたりもする。ようやく、絵を描くこと・見てもらうこと、そのために使う時間や行動が、私の生活の軸といえるものになった。本屋稼業のあれやこれやは父任せにすることが多くなったが、我が店はお陰さまで相かわらず、そこそこの賑わいがある店のままだ。
この日は春の団体展に出品する作品を描き上げたばかりで、あとは作品搬入日を待つのみ、というところだった。作品完成に向けて自分を追い込む日々から解放されて少々ぼんやりした状態で久々に帳場に入り、新聞を見るでもなく見ていると、ある画家が離日する、という記事が目に止まった。
戦中、某部隊壊滅を題材にした大作を軍主催の展覧会に出品し、作品の前に陣取って観客らに講釈をたれた、というあの画家だ。時局画の代名詞ともいえるほどの活躍をみせた彼は、終戦後すぐに巻き起こった「画家の戦争責任」にまつわる論争の中心人物にもなり、ひとり批判の矢面に立った。そんな日々が何年も続くものだから疲れ果ててしまった、というところなのだろう、一旦ニューヨークに行き、最終的には若き日々を過ごしたパリに戻るらしい。
美術界にとって、問題に決着がつくのはこの分野での「戦争の後始末」が済んだ、ということにもなる。戦争賛美の作品を描き散らした画家が「画家同士で争うのはいい加減やめてください」などという捨て台詞とともに日本を離れるのはいかにも滑稽という他ないが、それでもこの画家自身、他に思うところがあるのかもしれない。私達には、遠い存在であるこの画家の胸の内、本音の本音を知る術などないけれど。でもそういうところにこそ、落としどころといえるものがあるのかもしれない。そんな気もする。
とりあえず「ふーん」と呟いて、当時この店に通いつめていたあの軍国かぶれの老人の忌々しい面構えや、1回行ったきりの時局画展でばったり会った飯村君と話したことなどをつらつら思い出していると、小笠原君がひょっこり現れた。
「新連載のほうは進んでるのか?」
「うん、今が一番のヤマ場だ。でもなんだかもう煮詰まっちゃった、新しい作家と組んだものだからまだ世界観をつかみきれてないんだよ」
「そうか。まあ、一服していけよ」
締切に追われる彼が編集者から逃れるためにここを訪れることは、前年からお馴染みになっていた。私自身「そろそろ来る頃だな」と分かるようになってしまったほどだ。もっとも先方にしてみれば行先など分かりきっているから、湯吞片手に話しているうちに店のドアが開き「やっぱりここでしたね」と担当どのが上気した顔で乗り込んでくる。
小笠原君の絵物語画家としてのデビュー作「水底巨岩城」は、児童向け雑誌を牽引する新たなジャンルを提示することにもなった。二番煎じ、三番煎じの連載があらゆる雑誌で始まったし、小笠原君に対しても他誌から次々に執筆依頼が舞い込んだ。前年は「ぼうけんブック」で「水底―」に代わる空想物語一作のみに全精力を費やしたが、ついこの間、大団円の裡に完結させたばかりだ。
新年度からは3本の連載を抱えることになった売れっ子中の売れっ子だが、編集者などに「先生」とは呼ばせないのだという。国策雑誌「国防」でなんとも荒唐無稽な、それこそ「こんなもので戦争に勝てるのか」と失笑が出てしまうような兵器の絵(詳しいことは教えてもらえないが、彼ひとりで考えたものではないと思う)をさんざん描かされていた時の担当者の媚びへつらった声色を思い出して、むかむかしてしまうから。
「ちゃんと寝てるのか? 体が資本だぞ」
「分かってる。締切前はどうしたって徹夜になるけどさ、栄養面はね、問題ないんだ」
神田に来る時は、我が家に顔を出す前に近くで営業を再開した「ほてい屋」という食堂で腹を満たす、それがここ最近のお決まりのコースになっているそうだ。私達も食堂の店主から「そんな大先生だなんて分からなかった。人気者になっても偉ぶったりしないのは好感が持てるね」と聞かされている。
「それにしても、連載3本か。大したもんだよ。無理のない程度に、息の長い活躍をしてほしいもんだ」
父が口をはさむと、小笠原君はもったいぶって「実はですね」と返した。「バラックを卒業しようと思ってるんです。そのためにも頑張っておかないと、と思って」
「家を建てるのか!」
「うん。なんとか乗り切るためにも、ここで息抜きさせてもらって『よし、やるぞ』って気持ちを切り替えて」
「よし、やるぞ」となる前に編集者が来てしまう、というのが常なのだろうが、ここでのひと時を含めた外出がその後の意欲につながっているのは間違いないようだ。
「なるほどな。忙しいのは結構だが、身の回りのことは大丈夫なのかい? 君も家を建てて一国一城の主となるわけだ、新しい家といえば新しい畳だ。新しい畳といえば……」
「まあ、そうだな。そこに意識がいくのは、いかにも世話焼きの父さんらしいよ」
父が何を画策しているのかすぐに分かった、「女房と畳は新しいほうがよい」というじゃないか。「君も今では『ひとかどの人間』といえるほどになったんだ。家を持って、ぴかぴかの新居にお嫁さんを迎えてさ。お母さんだって安心するだろう」
「はい。……あの」
「ああ、やっぱり!」
食堂にはアヤ子ちゃんという看板娘がいる。とびきりの美人というほどではないが愛嬌があって快活な子だし、商売人の娘らしく頭の回転も速い。彼女への意識を匂わせるような態度をみせた小笠原君の気持ちはたしかめるまでもない、適齢期を迎える彼女との縁が生まれる可能性は大いにある。しかし小笠原君が上手に接近できるかどうか分からないし、父のことだから「ここで一肌脱ごう」となるのは当たり前だ。
「父さん。『ほてい屋』の親父さんとは、その辺話したことはあるのか?」
「ああ、大将も女将さんも、小笠原君がうちに顔を出してることを知ったら、もう質問責めだ。ということは、向こうだって考えてる、ってことだ」
「当の本人はどう思ってるんだろう」
「あのね。なんていうかな、気づいてるっていうか。……でも、嫌な感じじゃない、と思う」
「おおー」
「今をときめく売れっ子画家がお相手だもの、これ以上の良縁はないだろう?
迎えてあげたらうんと大事にしてやれよ。仕事で忙しくするのは結構だけど、金を稼ぐだけでふんぞり返ってるような亭主になっちゃだめだぞ」
「そうだな。互いを思いやってこそ、あたたかい家庭というものが作られるんだろうし」
「いや、そんな…… ふたりとも、気が早い。俺の方は、まだとてもとても。ちょっと『いい子だなあ』って思ってるだけですよ」
「またまた」
「『いい子だなあ』で済ませて、黙って飯食って『ごちそうさま』って店を出るのを一生続けるつもりか?」
「そうだよ、向こうだって『もらってやる』って人がいつ現れるか分からないだろう。もたもたしてたら、他の奴にさらわれちゃうぞ」
小笠原君は「でもさ」などとぐずぐず言い続けたが、アヤ子ちゃんの存在が「家を建てる」という夢のきっかけになったに違いない、と我々は踏んでいた。火を噴きそうなほど真っ赤になった耳がそれを物語っている、気があるもなにも、というところだろう。その推測のとおりであることを白状させてから、色恋には不慣れな小笠原君のために信頼できる仲間に後押しを頼むことにしよう、と相談した。学生時代「恋愛の達人」として鳴らした平澤君から意中の人との交流術について学び、武村さんには彼にぴったりのスーツを、いざという時の一着をデザインしてもらう。
「あの子は裏表のないいい子だよ、愛想がいいといっても上っ面だけじゃないんだ。真心っていうものがある子だ」
「そのとおり。小笠原君も良き伴侶を得て、ますます仕事に邁進できるな」
やもめの親子が雁首揃えて仲人まがいのことをやろうとし、また勝手に盛り上がっている。つくづく変な親子だ、と我ながら呆れてしまったところで、「この話が最高の結末を迎えたら、その時に小笠原君の『戦争の後始末』が終わる、ってことになるのかなあ」と思った。
美術界では、「節操論争」と呼ばれた騒動の中で例の画家をやり玉に挙げていびり出したことでようやくひと段落ついた、つまりこの分野での「戦争の後始末」はかなり後味の悪い形で終わった。同時進行で東京裁判が結審し、前年末にA級戦犯が刑場の露と消えたことで、こちらもひと段落ついている。
それなら、私自身はどうなのか。
帰京後の私は、飯村君や小笠原君をはじめとした他者が前に進む、つまり彼らそれぞれの「戦争の後始末」を手伝わせてもらっていた。それらがあまりにも楽しかったものだから、私自身のことは棚上げにしてきた。人の手伝いばかりに積極的になっていたせいだろう、私は私自身の「戦争の後始末」に着手すらしていない。
美術団体に入り、本格的に絵に向き合い始めたことは私にとっての大きな転機といえる。「ようやくだ」という喜びがまずあったし、描く目的ができたことで絵の勘も描くことの楽しさもあっという間に取り戻すことができた。新たな仲間との交流も含め、絵にまつわるすべてのことが、刺激となり日々を前向きに生きる新たな糧となっている。
それでいて、作品を手がけることについては「見いだせない」という言葉がしっくりきてしまうような感覚を、ほんの少し抱いてもいる。描くことについて、「なぜ描くのか」「何を描きたいのか」がいまいち明瞭に見えていないような感がある。例えば「展覧会に入選したい」だとか、そういう分かりやすいところではなく、もう一段深いところ――私の心のどこかの、絵に直結する肝心要のところだけに靄がかかっていて、その靄が晴れない限りは百パーセント前向きな気持ちで描けないのではないか。そんな感覚だ。
絵を描く者としての私にとっての「戦争の後始末」とは、なんなのか。
「大畑君はどうなんだよ、俺の心配をしてくれるのはありがたいけどさ」
「いや、俺のほうは今のところ…… もともとそういう願望が希薄なほうなんだろう、と思ってる」
「陽子ちゃんは? 俺はああいう子は苦手だけど」
「だからさ。『今のところ』って言ったじゃないか、陽子ちゃんもなにもないんだよ」
「そうなんだよなあ。いや小笠原君、私もね、本当に……」
「ほら、こういうことになっちゃうんだよ。余計なことを言ってくれたな」
話がおかしな方向にいきかけたものだから、なんとか話題を変えようと必死に考えているうちに浮かんできたことがあった。
絵を描く者としての私の「戦争の後始末」とは、私を遠回りさせたあの時代の潮流、私が絵の世界に背を向けるきっかけになった時局画とはなんだったのか。その答えを出すことではないのか。
戦後に入ると例の絵は「戦争画」と呼ばれるようになり、善か悪かでいえば「悪」にきまっている、と断じられるものになっていた。片意地を張って「絶対に描かない」との姿勢を貫きとおした私も間違っていなかった、ということにはなるが、でもそんなに単純に片づく話ではないような気もしている。
なぜなら、たった1度行っただけの時局画展で目にした作品群を前に心揺さぶられる瞬間が、たしかにあったからだ。小笠原君の「一閃」もしかり、かつて私淑していた画家が手がけた、遺体の絵もしかり。一方で、戦争画を手がけることで画壇の中央に躍り出た者へのもやもやした感情は、いまだ薄らいでいない。
あれを、どう片づければいいのか。
「あのさ、小笠原君。前に『一閃』を描いたときの話を聞かせてもらったことがあっただろう? 当時のことも含めて、あらためて詳しく聞かせてほしいんだけど」
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