無題/戦争画をテーマにした物語(第5部のつもり⑧)

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 2週後の火曜日、つまり私が河原田邸を訪問することになっている、その前日。
 この日までずっと、私はあの画家に面会する時のことを、店の帳場に入っている間じゅう考え続けていた。
 日本画家及び僧籍にある者が住みそうにもないという屋敷に招かれて、あんな風貌になってしまった元人気画家の真向かいに座って。いったい、どんなひと時を過ごすことになるのか。緊張や萎縮を通りこして、恐怖心すらある。さらにいえば、対話しているところなどまったく想像がつかない。こうなると、頭でっかちになってあれこれ想定してみるしかない。
 まず、こちらから質問してみたいことをいくつか考えて、箇条書きしてみた。
・従軍画家をやっている時はどんな気持ちだったのか
・当時の自分を、いまどう思っているのか
・他の従軍画家、戦争に協力的だった画家をどう思っているのか
・なぜあの絵を描いたのか
・あなたにとって、彩管報国とはなんだったのか
 私も野次馬根性むき出しで思い切ってあれこれ訊いてみればいいのかもしれないが、そんな勇気は出ないだろう。書き出したいくつかの質問はまさに「本当に聞き出しておくべきこと」といえるものばかりだが、その字面じづらに向きあっていると「こんなこと、訊けるか?」と自らに問いたくなってしまう。
 それとも、聞き役に徹したほうがいいのか。こちらが「お話を聞かせてください」と促さなくても、問わず語りでいろいろ話してくれるのだろうか。
 聞かされるエピソードの中には、他言無用とすべきものや私が受け止めきれないものだってあるかもしれない。そんなものを背負って家に帰りついた後、私は平常心を保ちつつ、知りえた事柄を消化することができるのか。
 いっそのこと「気が変わった」とかなんとか言って門前払いしてくれればいいとさえ思う、しかし「本当に聞き出しておくべきこと」があるという事実は変わらない。もう明日だ、この際あれこれ考えるのはやめた方がいい。行くしかないんだ。そう思い切ろうとしても、次の瞬間には「いや、でも」と始まってしまう。
 堂々巡りをやめられないまま、帳場を出て店内をちょっとうろうろしたり、また座ったりを繰り返していたら、陽子がいきなり現れた。先日の団体展には来てくれなかったから、ちょっと久しぶり、という感がある。
 平澤君に相談に行った時、「陽子につき添ってもらえば」と言われたことをこの時に初めて思い出した。彼の提案は私にいわせれば「やぶから棒」という他ないものだったし、なぜ陽子の名前を出したのか考える余裕もなく、河原田と対峙した時のことに思いを巡らせつつ10日以上過ごしてきた。あの画家のことで頭がいっぱいだった私にとって、彼女の来訪もまた「やぶから棒」といえるものだ。
「火曜日は休みだったね」
「そうよ。
 あなた、河原田先生のお宅に行くんですってね。発ちゃんが言ってたわよ、『大畑のやつ、大先生に取って食われるんじゃないかって縮みあがってる』って」
「そんな言い方…… まあ、発ちゃんならそんな風に言うか。
 で、つき添ってくれるって?」
「そうよ」
「『どういう関係か』って訊かれたら、どう答えればいいんだよ」
「ああ、そういう心配をしちゃうの? 相かわらず、あれ・・だわねえ」
「あれって、どういう意味だよ」
「別に。
 私ね、河原田先生とお会いしたことがあるのよ。先生はもうお忘れかもしれないけど『その節はどうも』とかご挨拶させていただいてちょこちょこお喋りすれば、場もなごむでしょ」
 陽子いわく。私たちが卒業した翌年、河原田は芸校で講演会を開いた。テーマはもちろん彩管報国、だった。陽子はモデルの仕事をこなした後、お茶くみ兼講演前の話し相手として河原田と接したのだという。
「……どんな感じだった? 話は盛り上がったか?」
「そうね。私も『大物面おおものづらするような人だったら』なんて戦々恐々としてたけど、全然そんなことなかったわ。とっても穏やかでね。『やっぱり世界を見てきた人だわ、ジェントルマンなのね』って。
 ただ、講演会は、ね。やっぱり穏やかな調子で『時局画万歳』みたいなお話をするんだもの、ちょっと怖いと思ったぐらいよ。まあ、昔の話だけど」
「そうか。団体の代表の紹介で家に行くことになったんだけど、『元は気さくな人だ』って代表は言ってた。こないだ会った時の様子をみると、気さくなのはやっぱり『昔の話だ』ってことになるのかな。心身ともに弱りきった、って感じだった。
 ……どうすればいいんだろ」
「ほら、縮みあがっちゃってる。一緒に行ってあげるわよ、私のことは『この女は、私が芸校在学中にモデルを務めていた者です。かれこれ10年以上の腐れ縁でして』って、こう言えばいいのよ。本当のことじゃないの。それが嫌なら『いとこです』でも『近所のねえちゃんです』でも、なんとでもいえばいいわ」
「いや、いいよ。
 なんでだろう、いま腹がきまったよ。ひとりで行ってくる。
 ごめんな、せっかく来てくれたのに」
「いいわよ。またお邪魔するわね」と陽子は帰っていった。機嫌を損ねたわけでもなさそうだったが、やはり申し訳ない思いはあった。
 それで。なぜいきなり、河原田邸を訪れることへの抵抗を捨てることができたのか。
「本当に聞き出しておくべきこと」が明確にあるのだから、そのぐらいは自分ひとりで向き合って、自分で聞き出し、肚落ちさせて。そうあるべきだ、とようやく思えたのかもしれない。
 気弱な面を克服しきれない私にとって、陽子が頼もしい存在なのは間違いない。しかし彼女が助け舟を出そうとしてくれたことで、逆に「向き合うべきことには自分ひとりで、しっかり向きあわなければ」と、気持ちを切り替えることができた。きっとそういうことだろう。
 
 その夜、こんどは平澤君がやって来た。「陽子ちゃん、来たか?」
 やっぱりその話か。と思って、せっかくの申し出だがひとりで行ってくる、と丁重にお断りしたと伝えたら平澤君は顔色を変えてこう尋ねた。
「お前さ。なんで俺が陽子ちゃんの名前を出したか、分からないか?」
「それはちょっと気になったけど、考える余裕なんてなかった。昨日、やっと『発ちゃんがそんなこと言ってたなあ』って思い出したほどだ。
 発ちゃんも陽子ちゃんも俺を心配してくれてるんだろう。それはありがたいけど、でも俺が抱えてきたもやもやが解消されるかもしれないんだし、俺自身がきちんと向きあわなきゃ、って。陽子ちゃんにやいやい・・・・言われてるうちに、なぜか腹がきまったんだよな」
「ふーん。俺が彼女の名前を出したのは、別に明日のためだけじゃないんだけどな。
 お父さんはいるか?」
「奥にいるけど。呼んでこようか」
「その調子だと、やっぱり分かってないんだな。
 呼んでこなくたっていいんだ、逆にお父さんの前ではできない話だからな」
 毎日顔を合わせているから気づかない、というのもあるだろう。平澤君はそう前置きしてから、私の父の衰えが気にかかっている、と告げた。羨ましさを通りこしてちょっとおかしな親子といえるほどに仲のいい父子家庭は、いつか必ず、父の死をもって解消される。その後のことを考えたことがあるか、と。
 ひとりになってからもこの本屋を続けながら細々と制作活動を続けるのか、それとも本屋という家業がなくても暮らしていけるところを目指してやってみるのか(もちろん絵筆一本で)。
 それ以前に、大畑隆一という人間はひとりで生きていける人間なのか。
「まあ、たしかに父さんが老けこんだっていうのは、発ちゃんに言われるまで気づかなかったよ。そういえば、ってこともないけど、父さんだってもう還暦を過ぎてるんだ。体を気づかってあげないとな」
「ちょっとピントのずれた答えだなあ。陽子ちゃんのほうは、それなりに考えてるらしいけど。
 お前、俺が何を言いたいか分からないふりをしてるだろう」
「いや、そうじゃないよ。我が事として考えられない、ってだけかもしれない。
 陽子ちゃんは百貨店の仕事が楽しくてしょうがないようだ、俺も店に行ったことがあるけど充実そのものって顔で働いてた。でもそのうち職場でいいめぐり合わせがあるだろう、その時はお相手をここに連れてきて…… なんて、こないだ想像したばかりだよ。
 俺とどうのこうの、っていうのが」
「嫌いなのか?」
「だから、俺とどうのこうのって……」
「ま、俺のほうも例によって独りよがりで突っ走っちゃってるのかもしれないけどな。お前の性格を考えれば『熟慮に熟慮を重ねて』って事柄だろうし。それに例の大先生の家に行くっていうんで気持ちに余裕がなかったんだろう、そんな時にいきなり言われても、な。
 でもとりあえず、悪い話じゃない、って思っといてくれよな。最後はお互いが決めるしかないことだけど、そうなったら『安心した』って喜ぶ人間が、何人もいる。
 明日、頑張って行ってこいよ。敵前逃亡は駄目だからな」
 そんな後押しの言葉を残して、平澤君は帰っていった。
 彼自身、私の性格をよく分かっているから(河原田邸訪問というきっかけがあったとはいえ)陽子の名前を出すのはいかにも間が悪かった、と気づいてくれたようだ。それにしても真面目に向きあうにはいきなりすぎるし重たすぎる話だ、「何が言いたいのか分からないふりをしている」というのは、私が無意識にそんな表情をみせていたから、かもしれない。
 いきなり言われても困る、というのも事実だ。でも、いま私が平澤君に伝えなかった心情とは、どんなものか。
 その前に片づけておくことがある。考えるのはそれからだ。
 これに尽きるのか、と思う。
 とりあえず、絵のほうで一本立ちする。その前に私がこれから手がけるべき画題、「こういうものを描きたい」と胸を張って言えるものを見つけなければいけない。さらにその前に、たった今抱えているもやもやを、「戦争画とは何だったのか」を解決しなければいけない。
 まずは明日の来訪を、そこでの河原田真暁改め雨啼との対話を。これは第一関門のようなものだ。
 
 その夜はわずかな寝酒に頼ってしまったが思いのほかぐっすり眠ることができ、翌朝の寝覚めも悪くはなかった。不安が消え去って勇気りんりん、というわけでもなかったが、それまでよりは明らかに前向きになっている。
 委縮気分が戻ってくる前に、目的地にたどり着かなければ。とばかり、私は省線に乗り込んだ。さらに私鉄に乗り換え、予定よりもかなり早い時間に河原田邸の最寄駅に着いてしまった。どこかで昼食を済ませたとしてもまだ時間が余ってしまう。文庫本でも持ってくればよかった、とも思ったが、その辺の公園でも寺社の境内でも時間つぶしをする場所はあるだろう。そういうところのベンチか何かに腰かけて、考えごとでもしていればいい。
 河原田が屋敷を構えたのは「田園都市」といわれる地域、大正期に宅地開発が始まり、先進的な人・お金とそれなりの立場がある人の参集によって形成された高級住宅街だ。駅前の道路は広々としていて、その脇には銀杏いちょう並木が、さらにその脇には小じゃれた住宅が整然と並んでいる。この界隈もまた空襲被害は軽微であり、その前の関東大震災でも大した被害は出なかった。
 なるほどなあ、と思った。あの人は若い頃から活躍して、こういう場に家を持つことができた。こういう場に家を建てて独り身のままで(独身貴族を気どっていたかどうかは知らないけれど。いや、僧侶だから、だろう)絵三昧ざんまい、旅三昧の日々を過ごしているうちに、戦争と美術が密接に結びついて生まれた奇妙な世界のど真ん中にその身を据えることになった。画家として優れていればいるほど、そんな世界――それこそ小笠原君が以前言っていたような「見えない檻」に追い込まれ、誤った権力を振りかざす者の手先として「健筆をふるい」続けることになったのだ。
 河原田と私の共通点といっても、独身で制作活動をしている、ということぐらいだ。
 彼は民衆(どころか国民、果ては国そのもの)の求めに応じて絵を描いてきた人だ。私は、あの小さな団体や芸校時代からの仲間の存在、私自身の意欲に後押しされて制作活動をしている、でも煮詰まっている感がある。先方は後押しだの支えだのという言葉では済まないほど大きなものに、いわば追い立てられるように描き続けていたのかもしれない、だから独り身だろうがなんだろうが描き続けることができたのかもしれない。
 で、私はどうなのか。父だってもちろん大事な家族だが、他にも家族ができたら、その人が「支え」というものになってくれるとしたら。物心ついた頃すでに母がいなかったせいか、家に女がいるという状況がどうも想像できない。父が父親兼母親として奮闘してくれていたおかげで、母がいないことで「他の家とは違う」と実感せざるを得なかったものの、苦労や寂しさをさほど感じずに済んでいたから、かもしれない。
 私だって、女というものとの関わりが一切ないまま生きてきたわけではない。ただ、ある程度の期間だけではなく、人生そのものに女が深く関わってくることがまったく想像できないようだ。
 で、陽子という女は。家にいて誰かを支える役割を担うことを良しとする女なのだろうか。女とはそうやって生きるものだ、といっても、そこに収まることができるのか。青海君と結婚を誓い合ったが叶わず、その後彼女はとんでもなくたくましくなった。「ひとりで生きていけるからいいのよ」と言い放つ彼女なら、容易に想像できる。
 いや、それより。陽子自身が私の「支え」になりたいと思うだろうか、平澤君の口から彼女の名前が出てきたというのは彼のお節介でしかなく、ある意味暴走といってもいいぐらいのものではないのか。
 いや、ちょっと待て。平澤君は、陽子が「それなりに考えている」と言っていなかったか。それは本当なのだろうか、彼は嘘をつくような人間ではないが、よかれと思うあまりについ口走ってしまったのではないか。
 なんにしたって、陽子と私が。
 などと、河原田とはなんの関係もないことをあれこれ考えているうちに、そこそこ時間が経っていた。その辺で腹を満たしてから屋敷に向かえばちょうどいいだろうと考え、通り沿いのパン屋で昼食を買い公園でそれらを腹に詰め込んだ。
 河原田邸の前には、約束の午後1時ちょっと前に着いた。新田さんが言っていたように、日本画家および僧籍にある者がとうてい住みそうにない造りだ。彼は「とんがり屋根が目印だ」と言っていたが、それは教会建築などで見られるものではなく東洋のパゴダというやつ、インドあたりの寺院を模したようだ。そういえば、築地にはこんな感じの本堂をもつ寺がある。あの建物を縮刷したような感じか。たしかに日本画家が住むにはモダン過ぎるが、宗教家の住まいだからこのデザインになった、と考えれば合点がてんがいく。
 さらにいえば、先進的な者および金持ちが形成した新興住宅地に見事に溶けこんでいる、どころか洗練の度合いが違う、異彩を放っている、といってもいい。当地に住む者でさえ羨望せんぼうや嫉妬の目を向けたのではないか、と思うほどだ。
 まず外観で、建てた人間の個性をこれでもかとばかり表現している邸宅だが、今はこの家の門には「内山」という表札がかかっている。そしてその傍らに、小ぶりな「河原田」の表札がかけられている。本人は「自分で建てた家に居候している」と言っていたそうだし、今はこの家の主は妹夫婦なのだから遠慮したのだよ。と、表札そのものが説明しているように思えてくる。
 上京したての新田さんが河原田に挨拶するため郊外の新興住宅地(地方にこういう街ができるのは、うんと後のことだ)を訪れ、今の私と同様にこの家の前に立った時はさぞかしびっくりしただろう、と思いを巡らせた。河原田は当時まだ元気で、この重たそうなドアからやはり颯爽と現れて新田さんを迎えたのではないか、「ようこそ。遠かっただろう、疲れたんじゃないのかい」とか言って。
 そうしていると、ドアが開いて、中から出てきた中年女性が私と目を合わせた。この人は留美子さんという人のお母さん、河原田の妹だろうか、と思っていると彼女は「大畑さんですか」と声をかけ、私を家の中へ招き入れた。ほの暗い廊下を歩きながら女性は自己紹介をしてくれた、やはりこの人は河原田の妹で留美子さんの母親、名前は久仁子くにこさんというそうだ。
 邸内は洋風の意匠を取り入れていた。外観もしかり、世界中を巡った河原田の趣味趣向というか美意識というか、そういったもの――彼が「素敵だ」と感じたものをできる限り反映させているのだろう。後から住むことになった久仁子さん夫婦にはちょっと落ち着かない感もあるんじゃないか。
 廊下の突きあたりに、応接室があった。その部屋で待つように言われてふかふかのソファに座らせてもらい、茶菓を振るまわれてしばらく待つことになった。コーヒー茶碗は舶来かつ随分と時代がかったもので、これは河原田がかつて買い求めたものなのかもしれない、と思いを巡らせた。
 平和だった頃に旅先でこのコーヒー茶碗を見つけ、美しさに惚れこんで土産に持ち帰った。しかしその後、この茶碗を買った思い出深い国と日本との間で、戦争が始まってしまった。そんなエピソードのひとつやふたつ、寂しく味気ない思い出なら、語りつくせないほどあるはずだ。おそらくコーヒー茶碗どころでは済まないようなことも。
 陽子のことなど頭から消え去って、まさに縮みあがった状態で待っていると、絵が一枚、壁にかけられているのに気づいた。その作品に見覚えがある、どころでは済まない。十代半ば頃、画塾に通い始める少し前に展覧会で目にして、作品の前から立ち去ることができなくなるほどの衝撃を与えてくれた作品だ。ここでこんな風に、この絵と再会するなんて。
「恋わずらい」というタイトルの、ちょっと日本画らしくない調子の作品だ。洋装姿の女性が、ひとしきり泣いて泣きやんだ後のような顔でこちらを見ている。いや、見ようとしているけれど恥じらいのほうが勝ってというか、こちらをまともに見れない、ような。画風もさることながら、女性のこういう表情を切り取って表現していることに度肝を抜かれたし、とても真似できるものではないと脱帽の思いで眺めたものだ。
 やっぱり、すごいなあ。その一言とともに、数十年ぶりに作品の前に立ってためつすがめつ・・・・・・・眺めているとついに、河原田が久仁子さんに付き添われて現れた。団体展に来た時と同じよれよれの着物姿で、家の中でも杖をつき、そしてあの小さな風呂敷包みを抱えたままだ。それでも笑顔を作って、声をかけてくれた。
「ようこそ。遠かっただろう」


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