元従軍画家の独白:3-無題/戦争画をテーマにした物語(第5部のつもり⑪)

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 その作品を見せられた私は、大槻はとっくに人間としての一線を越えてしまっているのだ、と感じた。なぜその一線を越えることができたのかといえば、彼自身の芸術家としての意欲があまりに強すぎたからだ。彼は酸鼻さんびな場面を嬉々として描いたのだろうし、描き上げたことに誇りを持っていた、一片いっぺんくもりもなく。
 しかし、私は心の中でこう言っていた。「あなたは、楽しんではいけないことを楽しんでいるのだ」。
 いうまでもなく、時局画とはプロパガンダのために制作されていたものだから、現実――つまり日本が負けるところを描いたものなど「表になんか出せない」、本人も言っていたとおりだ。しかし、絵の制作を依頼した中将は「これは真実の記録だ」と捉えて作品の仕上がりに満足するかもしれないし(もちろん凄まじい感情が入り交じった状態で、だ)、大槻本人にとってあの画題は「挑戦してみたいこと」だった。
 芸術家として挑戦したいのなら、それは仕方がないよ。彼はパリで活躍していたんだから、私などとは絵描きとしての下地がまず違うんだ。それと彼自身の人間性というものもあるだろう、彼は「戦場なんてこんなもんだろ」という表現をすること、残酷図のような絵を描くことに対してなんの抵抗もない。そんな彼の人となりが、その後制作された作品、あるいは絵描きとしての姿勢に反映されている。戦中の日々が「楽しかった」と言える人間が世の中のどこかにいるとしたら、彼がそのひとり、かもしれないね。
 それでも私だって、かしこまったような絵を描きながらも戦争に協力していたんだからね。君にいわせれば「目くそ鼻くそをわらう」ということになるだろう。
 一方で私は、これまで私自身が手がけてきた時局画について、その方向性は間違っていなかったかどうかを考えるようにもなった。しかし「これまでの姿勢は崩さないことにしよう、間違ってはいないはずだ」と思い直した。大槻が喜んで描いたような場面が「真実の記録」だというなら、私が手がけてきた戦地の者の姿・心を私なりに描写したものだって「真実の記録」といえるはずだ。
 私は、勇ましい戦闘場面はさほど描いてこなかった。ああいう画題に対しては、私だって「噓八百だ」と思っていたんだ。大槻じゃなくたって、従軍経験がある者ならそう言いたくなるだろう。そこに疑問を感じずに唯々諾々いいだくだくと、あるいは功名心のようなものに後押しされて、はたまた芸術家として新たな可能性を見い出し嬉々として描けるかどうかだ、ね。
 戦地で出会った兵の中には元画学生だったり、絵が好きだという者も何人かいたよ。彼らはきまって、軍用はがきに自分たちの日常や駐在する街の風景などを描いたものを、何枚か持っているんだ。そういうのを、折に触れて銃後で待つ人たちに送ってやるんだ、と。そういったもののほうが、私のような従軍画家が描いたものよりも自然で、嘘がない。君も戦地に行った同級生なんかがいただろう、送られてきたことがあるんじゃないか?
 
 その後、昭和14年・15年と、相もかわらず時局画にどっぷりの日々を送っていた。ただ、四十しじゅうを過ぎて体調を崩しがちになった。温泉地でしばらく湯治とうじをしたり、僧侶どうしの関わりが多くなっていったり、国内にいる時はちょっとおとなしく過ごすようになってきたかな。
 家でゆっくりしていると、ちょっとご無沙汰していたような人との交流が再開したりもする。例えば、私と同じように従軍三昧で過ごしてきた人だとか(画家だけでなく)、それこそ仏教界の関係者だとか、それから何かの集まりでご一緒させていただいた軍人さん、だったりとか。
 軍服組と接するとね、耳に入れたくないことを知る羽目になってしまうんだよ、どうしても。それでもね(かばうような物言いになるかもしれないが)、軍のお偉いさんや後に戦犯になるような人なども、ひとりひとりは聡明で人間味もある、決して馬鹿でも悪人でもない。だから私だって、彼らと懇意にすることができた。ところが、そういう人間が寄ってたかって始めてしまったのが戦争であり、招いた結果が数十万の犠牲だ。
 本当に、分からないものだよ。難しいものだね。
 話を戻そうか。ちょうど折も折、紀元二千六百年奉祝で日本中が浮き足立っていた頃だ。ある人から「戦争に関する研究機関ができた」と聞かされた。それ自体は秘密裡ひみつりに行われていたものでもないし、「存じております」の一言で済んだ話だけれど。
 そのちょうど1年後、真珠湾攻撃の3ヶ月ほど前のことだ。例の研究所で何をやっているか知らされることになった。日米戦争を想定した「総力戦机上演習」というのをやってみたら「日本必敗ひっぱい」の結論が出た、と。
 はじめのうちは勝ちっぱなしでいくが、その後は長期戦にもつれ込む。この国には耐えられないほどの負担がかかる。ソ連の参戦でとどめ・・・を刺され、ようやく戦争は終わる。そういう流れになるだろう。だから日米戦争などやめておいた方がいいのだ、それなのに破滅に向かうような戦争が、始まろうとしている。
 大槻に見せられた、ノモンハン事件のあの絵を思い出すまでもなかった。描かれていた戦車、日本兵のしかばねの山を蹂躙じゅうりんしていたあの戦車はソ連軍のものだった。地獄さながらの絵も、机上演習とやらではじき出された結論も。芸術作品ではないし研究結果と呼ぶべきものでもない、もはや予言という他ないのではないか。軍の人にそう言ってみたら、何も言わず小刻みに何度かうなずいただけだった、こめかみの辺りにちょっと汗を浮かべて。
 その少し後だったが、君の母校に招かれて講演をやったんだ。例の件を知ってからろくに眠れなくなってひどくぼんやりしていたんだな、ただ「時局画を描け」と言わなければいけないことにものすごい抵抗感があったのだけはたしかだ。学校でモデルを務めているという愛嬌あいきょうのある女性がお茶を出してくれて、しばらくなんでもないような話をしていたら、いくらか楽な気持ちになったけれど。彼女が気持ちをほぐしてくれなかったら、講演を始める前に帰ってしまっていたかもしれないね。
 私はそんな精神状態だったが、それでも何も知らない人、なんの疑問も持たない人が大勢たいせいを占めている、そういう人たちの中で普通に日々を暮らしていかなければいけない。こんなことなら従軍していた方がましかもしれない、戦争の現実のただ中に身を置いた方が、まだ気が楽かもしれない。そんなことを考えているうちに、とうとう第二次世界大戦が開戦した。
 
 真珠湾攻撃の華々しい成功をもって太平洋戦争が始まったわけだが、その後しばらくは例の予言どおりに事が運んでいて、逆に気味が悪くなるようだった。日本画家の報国協会というのが結成されて、そこでまた理事をやらされるし、献納用の作品の制作依頼が相次いで忙殺される日々も続くし。まったく、「戦争協力に余念がない画家」としての私は順風満帆としか言いようがなかった。
 開戦から数ヶ月後、私はまた中国大陸へ従軍した。こんどは日中戦争の激戦地だ。
 その部隊には春先に合流したのだが、隊員の中に君の母校を卒業したという男がいたんだよ。上背があり運動も苦手ではなさそうだ、あるいはまとめ役としても八面六臂はちめんろっぴの活躍をみせる。一見すれば書画の類に親しむような部類には見えないが、話してみると、快活で男気がありながらもほんの少し繊細な側面も垣間かいま見えてね。なかなか面白い男だった。
 彼は行軍の時、いつも首に小箱を3つも4つもげて歩いていた。これまでの戦いで命を落とした仲間たちの遺骨や遺髪が入っている、これらを守って故郷の遺族に届けなければいけないのですから、と。
 彼は「学校の卒業制作でいい成績を収めることができた。『生きて日本に帰ることができたら、故郷と東京の二重生活としゃれ込もうか』と出征前に親友と話していた。この親友というのが足に障害があり出征の見込みがない、だから彼に椎名町の芸術家村のようなところでアトリエを探しておいてもらって、一緒に制作三昧の日々を送りたい。
 同時に、故郷で芸術の裾野を広げるための活動をしてみたり、東京と地方の文化の橋渡しのようなことをやってみたい。東京と故郷を行ったり来たりの生活なんて、さぞかし楽しいだろう。そう思いませんか」と話していた。
 一方で、こんな話をしたこともある。
「僕は仲間の遺骨を届けるために生きて帰ることを目標としていますが、もちろんいつどうなるか分かりません。その時は河原田先生に弔っていただき、仲間の遺骨も託すしかないのです。
 僕は神社の跡取り息子ですから、画業などの活動は神主と二足の草鞋でやっていくことになります。絵の勉強と並行して、神職を養成する学校にも通いましたし。
 でも、僕が死んでしまったら信仰のことなどお気になさらず、他の仲間と同じように弔っていただきたい。きっと荼毘だびの煙に乗って、仲間と一緒に故郷に帰りつくのでしょう」と。
 荼毘の煙に乗って日本に帰って、懐かしい仲間と会うのが嬉しいか? 虚しくはないか? 君には婚約者もいる、と言っていなかったか? 帰るのなら、生きて帰ればいい。そう声をかけたくなったが、彼には夢や展望がありながらも、国のために散ることに対して「きっとそうなるだろう」と腹をくくっている節がある。覚悟を通りこして、彼なりに予感しているのではないか、と推測してしまうほどだった。
「自分は、この地で」となんとなく分かっていて、そんな結末を意外とすんなり受け入れられそうだ。でも当然ながら死ぬのは怖いし、死が前提となる状況にやはりあらがっておきたい。生還しなければいけない理由が必要だったから「仲間の遺骨を届ける」という目標を掲げたのではないか。
 ここまで突っ込んだ話ができればよかったが、さすがにそんな勇気はなかった。ただ、「死ぬのは怖くないのか」と訊ねてみたら、こんな答えが返ってきた。
「出征前、神社の氏子うじこに頼まれて神様の絵などをさんざん描きました。『今は、すべてが戦争のためにあるのだ。由来も意味も関係ないんだ』と思ったら、ちょっとわけが分からなくなってしまって。
 いま『貢献とは何か』といえば『ここで死ぬこと』なのだろう、ならばそうなることを念頭においておかなければ、って。
 おかしな時代に生まれちゃったなあ。貢献とはもっと楽しいものである、という時代が来るんでしょうかねえ。
 貢献とは、人を喜ばせることである。
 貢献とは、自らも誇らしく思えることである。
 誰かの台詞せりふの受け売りというわけではないんです。僕自身が、どこかでそう学んだのかもしれない。あるいは『そうあるべきだ』と思っているのかもしれない。でも多分、今の世の中では『間違い』ということになってしまうんですよね。もう、どうにもならない」
「(戦地での)貢献とは」の答えとして、適切なものがあるかどうか。そんなものはないのかもしれないが、せめて私なりでいいから、嘘でもいいから提示してやればよかったんだ。それができなかったことが申し訳なく恥ずかしいような思いもあって、あれっきり彼とは対話らしい対話はしなかった。
 翌月、彼は戦死した。
 彼が言っていたとおり、同時期に命を落とした戦友たちと一緒に荼毘に付してやることになり、彼が常に持っていた遺骨なども託される羽目になった。「信仰のことは気にするな」と言っていたし彼のためにも読経はさせてもらった、他の戦死者と同様に弔ってやった。
 しかし、彼が私に託そうとした仲間の遺骨も、あるいは彼自身の遺骨も。私に引き取ることはできない、もう勘弁してくれ、と思った。そして、彼が大事に守ってきた小箱を火にくべて、彼らもろとも灰にしてしまった。
 その時、私は声をあげて泣いたんだ。何十回も従軍し、何百人もの兵を弔っては涙を流してきたが、あんな風に声をあげて泣いたのはあれが最初で最後だ。それこそ子どもに戻ったように、人目もはばからず声をはなって泣いた。
 荼毘の煙も、遺骨や遺髪の届け先も「知るものか」の一言で片づけてやりたいような感情。もうこれ以上背負うことはできない、私には何も背負わせないでくれ。そんな気持ちだった。

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