元従軍画家の独白:2ー無題/戦争画をテーマにした物語(第5部のつもり⑩)

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 柳条湖事件。線路がちょっと爆破されただけで人的被害もない、ちっぽけなテロ事件だ。「あれが戦争の発端になるなんて」と思った人だっていただろう、君はどうだった?
 満州を治めていた中国人政治家が、柳条湖事件の数年前に暗殺されたじゃないか。その跡を継いだ息子が率いるグループが弔い合戦を仕掛けてきた、っていうことになっているけれどね。真相は違うんだよ。「日本には満州という土地がどうしても必要なのだ」と主張して独断でいろんなことをやってしまうK軍というのが当地にいたじゃないか、彼らが仕組んだ謀略ぼうりゃく事件だ。
 彼らは、満州を手中に収めるための戦争を始めるきっかけがほしかった。だから、「暗殺された政治家の息子が鉄道に爆弾を仕掛けました」ということにして自作自演のテロ事件を起こし、これを機に一気呵成いっきかせいに満州全土を日本のものにしてしまおう、と勇み足の攻撃を始めたんだ。ところが日本本土のほう、政府だって陸軍中央だって、そこまでやれとは言っていない。国連理事会まで「何をやっている」と騒ぎだす有様なのに、K軍は暴走をとめない。
「ならば、領有ではなく満州国建設を目指そう」と、当地の有力者と接触して独立工作を始めたり、例の政治家の息子が本拠地としていた街を爆撃して不穏な空気にしてみたり。国連は日本政府に対してK軍の撤兵を要求し、2週間の猶予期間を与えていた最中にそんな騒ぎを起こしてくれたものだから、日本はいっそう立場を悪くしてしまったんだ。
 そうした中で、かつての紫禁城の主――清国を追われて以来天津てんしんに身を潜めていた最後の皇帝のもとを、日本の特務機関の者が訪ねて。そして彼を、旅順りょじゅんに連れ出した。
 そこから先はご存知のとおり、だ。昭和7年の年明けから、K軍は幕僚ばくりょう会議を重ねて新国家建設の段取りを検討した。同時進行でハルビンを占領したことで満州一帯の制圧に成功し、2月末に例の皇帝を新国家の元首とすることが決まり、3月には建国が宣言された。
 
 柳条湖事件が起きたことをきっかけに、私は初めて、従軍画家として絵筆をとることになった。その年の冬に軍から招かれてハルビン~チチハル、興安嶺こうあんれいまで足をのばして、向こうで年を越したんだ。同行した少将が戦記ものの書き手としても名を馳せた人だったんだよ、家業が本屋さんだというなら「あの作家のことか」なんてピンときているんじゃないか? 彼は絵もやるというから、いろいろ楽しい話ができたかな。
 そういう人と一緒に歩ければまだましだけど、ね。軍人さんと画文がどうのなんて話をしながら従軍の日々をやり過ごすなんてことはめったになくて、まずは任務の遂行、だ。はじめの頃はあまりの窮屈さに叫びたくなるほどだったけれど、すぐに慣れて「来るべき日が来た、ただそれだけだ」と思えるようになっていた。
 それまでの私などは、見る人が見れば「遊び半分」で生きてきた、それでも食いっぱぐれることもない。とんでもなくおめでたい奴であり、おそらく有事の際にはなんの役にも立たない輩である。私自身その自覚はあったんだ、だからなるべく「お国の一大事」に遭遇した時の自分について、どう立ち回るかをしっかり想定しておかなければいけない、と考えていた。
 先ほども話したことだが、私は画家であり、僧でもある。このふたつの肩書でもって貢献していくことしかできないんだ。いい星の下に生まれてさんざんいい思いをしてきたのだから、有事の際には「ご恩返し」というものを活動の軸に据えなければいけないのだ。こんな私でも、気概のようなものはあったんだ。
 従軍している時も、軍の連中は「先生、先生」と下へも置かぬ扱いをする。それに乗っかって大威張りして、ぬくぬくやっていくこともできたんだ。でも私は、そうはしなかった。あえて「特別扱いはおやめいただきたい」とお願いして、寝食も含め一兵卒と同じ処遇を受けることにしたんだ。軍人さんがちょっと鬱陶しいというのもあったけれど、名もなき兵たちに寄り添うような思いを持ち、彼らの姿・心こそを画題にしていくべきではないか、と思ったから。
 そういう路線で描くことに対しては「成功をみた」といってもいいだろうね。戦地でも、人間は人間のまま。それは変わらないんだ。死と隣り合わせの場に身を置いても、彼らは仲間と助け合い、故郷で待つ者に思いを馳せ、帰還した後の日々の展望を語る。
 もちろん、それらが意味をなさなくなる――帰還など叶わなくなる、そういった場面にも遭遇した。私はそのたびに、僧として彼らを弔った。仲間を失いむせび泣く若者のやり場のない思いをただただ受け止めることしかできず、わが身の無力さにこちらが泣けてくるような。そんなことは数えきれないほどだ、私はいったい何人の兵のために読経どきょうし、ともに泣いたのか。
 しかし、そんな毎日が続けば――戦地に赴いた者と喜怒哀楽を共有する日々が長くなればなるほど、「勝って終わらなければ」の思いは強くなるんだ。彼らのためにも、彼らを待つ人々のためにも。戦争が始まってしまったことに対してあれこれ考えることはもちろんあったし、お偉いさんが言っていたことが頭をよぎることもあった(望んでもいない交流の中で知りえたことが少なからずあったものだから)、それでも、だ。
「勝って終わらなければ」。この思いと、それから若い兵たちという仲間の存在に、いわば追い立てられていたのかもしれないけれど。
 
 初めての従軍と時を同じくして、私は例の皇帝と――K軍に担がれて、例の新国家執政しっせいを経て皇帝となったあのお方と交流を深めたり、ということもあったんだ。
 新国家建国宣言が出た直後、私のもとに「秋に国賓こくひんとして招待する」との親書が届いた。その年の秋、また満州へ出向いて建国をお祝いする作品をお贈りし、御前で達磨だるまの絵を描かせていただいたりもした。
 この時初めてお目にかかった、というわけではないんだ。柳条湖事件の少し前に朝鮮を旅したが、そこから石窟せっくつなどを巡って中国北部にまで足を延ばした、その旅の途中にちょっとご挨拶をさせていただく機会があった。さらにさかのぼれば、若い頃に初めての中国旅行で紫禁城を見学させていただいたが、その時に私の姿をちらっと見て覚えていた、というんだよ。先方が私を覚えているもなにも、私にしてみれば広い城の中のどこにあのお方がおられたのか想像することすらおそれ多い、というところだが、ね。
 これはおこがましい推測だけれど。あのお方、もしかすると好き勝手に旅する私という若造のことが羨ましかったのかな、と思わなくもないんだ。ここだけの話だが、私はあのお方に対しては「大変な人」「ちょっと可哀想になる」そういう印象を持っていた。特にK軍への不信感に、常にさいなまれるような感じで日々暮らしていたのだろう。常にいらいら、不安げで猜疑心さいぎしんの非常に強い方だった。
 だから私も昔の大陸の文化やら歴史やら、こちらが興味あることを教えていただくという姿勢で話したり、とにかくまつりごとの話など一切せずに「私は単なる絵描きであり、文化的な事柄に関する話をする友達でしかないのですよ」という態度で接していた。なんでもない話ばかりしていれば次第に心もほぐれて、こちらを信用してくださるようになる。ある時、部屋の壁いっぱいに大きな龍の絵を描いてさし上げたら、子どものように大喜びしてくださったよ。
 彼は昭和10年に来日したが、その時に私は日程や訪問先の調整などをおおせつかったんだ。
 そうしているうちに、私とあのお方を引き合わせた軍の思惑というのが、なんとなく分かった感があった。K軍のほうは、あのお方が自分たちに不信感をもつというのは想定済みだったのだろう、そうなった場合のなだめ・・・役あるいはご機嫌伺いのためのおもちゃとして私をあてがった。そういうことだったのだろう、と。自らひどい言い方をしてしまったが、「おもちゃ」という表現は我ながらしっくりきてしまうんだ。
 自慢だか愚痴だか、よく分からない話になってしまうけれど。私自身、母方の先祖が殿様だったものだから子爵の称号を持っている、宮様などとお近づきになったのはそれもあってのことだ。おまけに父方はお寺の総本山に出仕して、こちらも幅を利かせるどころでは済まないほどの地位についている。
 そういった事情を、いってみれば嗅ぎつけたんだな、軍のお偉いさんが。私は先ほど言ったように一介の画家だ、私自身は偉くもなんともないことは分かりすぎるぐらい分かっている。画家としてひとかど・・・・の人間になりたいから頑張ってきただけだが、軍の連中は私を「諸々背負わせるにはちょうどいい」と捉えたんだな。私は、上の人間からそんな期待をかけられたことを喜ぶのは「ちょっと違う」と思ってしまうくち・・だし、暮らしに困っているわけでもない。ただ「余計なものを背負わせてくれたな。背負わされる身にもなってくれよ」と思っただけだ。
 私は単に「自由な人間」というだけだ、筋金入りの。
 
 その頃から従軍についやす日々ははるかに増えたし、出版物に寄稿するにしても内容が明らかに変わってきた。さらに美術作品の献納が一般的になってきたから、そういった集まりにも参加したり。そうしているうちに、昭和12年の盧溝橋ろこうきょう事件をきっかけに日中戦争が勃発した。絵描き連中はすぐさま団結して国防献画を仕上げ、売上金を軍に納めた。私もそれに参加したし、陸軍省のほうから従軍を委嘱されたからすぐに渡満した。
 ここからだね、従軍画家ブームともいえる動きが出始めたのは。君も知っているだろうし、絵描き仲間にはそういう人もいたんじゃないのか。私自身、従軍画家の嚆矢こうしだなんて祭り上げられていたから講演会だの座談会だの、今まで多くはなかった仕事が舞い込むことも増えた。従軍活動を前面に押し出した美術団体のまとめ役を任されたり、なんだか面倒くさいことに追い回されるようにもなった。
 そうしているうちに、今までの絵描き仲間とはちょっと違った交流が生まれてくる。それまでの日本画家としてのつながりに加え、こんどは従軍活動をしている者ともやり取りするようになった、西洋画だなんだという垣根も越えて「従軍画家」という垣根の中での交流が始まったんだ。
 時局画の旗振り役といえば、あいつがいるじゃないか。大槻だよ。私は日本画の、むこうは西洋画の代表選手という扱いで、講演会などで顔を合わせることも多かった。実に意欲的に取り組んでいるのだな、という印象だったが私はちょっと苦手だったね、あのぎらついた目が。
 昭和13年、ノモンハン事件というのが起きたけれど。その戦いを指揮した中将から依頼されて、大槻は2年後に戦闘場面を描写した大作を仕上げた。新田君から、君は「時局画反対派だ」と聞いているが、見たことがあるかどうか。後に画集などで見たりしたんじゃないのかい。
 その作品が完成した時、たまたま日本にいた私を大槻が誘ったんだ、「新作を見に我が家に来ないか」と。ある美術誌の編集者も一緒だという、私も見知った人間がいるのなら行ってみてもいいか、ということで約束の時間に彼の家を訪ねたんだけどね。
 なるほど、依頼主もさぞかし喜ぶだろう、というほどの出来だった。さわやかな青空をバックに、大草原を匍匐前進ほふくぜんしんしながら敵の戦車ににじり寄る日本兵。右側に停まる戦車にはすでに数人の兵士がよじ登り、中にいる敵兵を引きずり出すべく鉄蓋てつぶたを開けようとしている。
「いや、大したものだね」などとおべんちゃらを言っておいたけれど、そうしたら彼はにやりと笑ってね。「これは国防展に出品したらそのまま献納する予定だ、でももう1枚あるんだよ。同じ画題で描いたのが」っていうんだよ。一緒にいた編集者が色めきたって「拝見できるのですか」って訊いたら「覚悟しなさいよ」って、またにやりと笑うんだ。
「この作品をどかすのを手伝ってくれないか」というから、私と編集者と彼と3人で「よっこいしょ」とばかり持ち上げて、画室の端っこに持っていった。それから、もう1枚に向き合ったんだが。尾籠びろうな話になってしまうが、編集者が便所に駆け込んでね。吐いてしまったんだよ。
「あの若造、びっくりしちゃったんだな。
 真暁さんだって分かるだろう、戦場の真実とはこういうものだ。私はそれを描いたんだ」
 まず、青空だの草原だのとは正反対の色味だった、全体が火炎地獄を思わせるような陰惨な赤に覆われている。その中に兵の姿も戦車もあった、でも先ほど見た作品とは別の描かれ方をしていた。
 死屍累々ししるいるいたる草原。積み重なる遺体はすべて日本兵のものだろう。その上を戦車が踏みつけにしてどこかに向かっている。
「中将どの、『作戦を指揮した者としてのみそぎのつもりで、依頼する』だとさ。『本物の場面』を描いてほしいっていうんだ、もちろんはじめは耳を疑ったけど。
『何人もの部下が犠牲になった、本当に苦しい思いをして死んでいった。でもそれは結局隠蔽いんぺいされてしまうんだ。我が部下の殉死は軽視され、なかったことにされてしまう』って泣きやがるんだよ。『ああ、罪深いことをやってるって分かってはいるんだな』って思ったらおかしくなっちゃってさ。それで『お任せください』って、これを描き上げてやった。まだ見せてはいないけどな、まあ見たら『甘んじて受けなん』って顔をするか泣いて逃げだすか、どっちかだろうな。
 それにしても、こんな絵を描かせたのはいいけど、その後どうするんだろうね。座敷にでも置いて毎日泣いて拝むのかな、どうせ表になんか出せないだろう。
 でも、私は絵描きとして新しい挑戦ができたんだ。どうってことはないよ、西洋画には戦闘場面を描くという伝統があったんだもの。こんなのはまだ序の口だ」

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