無題/戦争画をテーマにした物語(第4部のつもり⑤)
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平澤君と小笠原君が帰って、武村さんも夫人との約束があるとかで店を出てから、私と父、それから飯村君の3人で話し合った。
私は、彼がこれまでのことを語りながら泣き出した時、うっかり怒鳴りつけそうになったことを打ち明けた。彼の、変わっていないようで「変わり果てた」といってもいいのかもしれないほどのたたずまい、醸し出す雰囲気。そういうところから、彼が背負う羽目になってしまったものの大きさ、怖ろしさを感じ取り、「とても受け止めきれない」と思ってしまったのかもしれない。
「出征したってだけで、ひとくくりにはできないんだよね。僕も出征したけど、即日帰郷になった。戦地には行かなかったけど、ほんの何日かの間に思い出したくないようなことがいっぱいあったもの。それは部隊の中で起きたことで、ね。武村さんも出征したけど、半年も経たないうちに終戦になったし」
「我々もな、『人助けでござい』なんて格好つけていろいろやってるわけだけどさ。なんていうかな、彼のような思いをした人の心に届くような動きができるかどうか、それがどういうものなのか、見当もつかんよなあ。激戦地からの帰還者というのは、私自身初めて接するかもしれないな。
発雄君には家族がいる、『子煩悩でびっくりした』って隆一も言ってたじゃないか。その存在が彼の支えになるんじゃないのか」
「たしかにそうだけど、家長なんだから頑張らなきゃ、って気が張るようなところもあるかもね。仕事のほうはどうしてるのか聞かなかったけど、その点もちょっと心配なんだ。深川の人の支えもあるかなあ、あればいいんだけど」
「じゃあ、発ちゃんにとって『気を張らずに済む場所』を作ってあげようよ。隆ちゃんの家がそうなればいいんじゃない? よろず相談所でしょ?」
飯村君が言った。「大黒柱として頑張ることも、街の人と助け合ってやり直すことももちろん大事だけどさ。でも、そのどっちでもない場所に、ここがなればいいんじゃないかって思ったの」
「飯村君、それは名案だ」
父も同調し、私もついさっき考えていたこと――彼にとって一番の薬(と思われる何か)を提供できる場所になればいい。笑っていても涙を流してもいいから、気負いも何もない、ありのままの平澤君になれる場所を作ろう、と述べた。
それで、飯村君がなぜそう提案したか、というと。
「あのね、僕なりに発ちゃんに恩返ししたいの。
発ちゃんは僕達38期生のまとめ役だったし、みんなを楽しい気持ちにする達人だったし、毛色が全然違う人同士をつないでくれちゃったり、大活躍だったでしょう? 隆ちゃんだって、心当たりあるんじゃないの?」
「うん。大いにある」
「正直いうと、僕はね。芸校に入りたての頃は『お友達なんかできないだろうな』って思ってたの。僕ってこんな感じだから、昔から変なこと言われたり、いろいろ。だから『芸校に入ったらひとりでいればいいや、友達なんて絵の中の女の子だけで充分』ぐらいに思ってた。
でもさ、ほら。青海のハル君と、発ちゃんがね」
彼らがいたから、「絵が好きな者、あるいは絵そのものが自分の最大の味方になってくれる。色眼鏡で見る者、茶々を入れようとする者など放っておけばいい」と、ようやく思うことができた。飯村君もまた、当時の私とほぼ同じことを感じていたのだ。
「彼らがいなかったら、僕はここに来ていろんなご縁をもらって…… ってことにはなってなかっただろう、いったいどうしてたかな、って思うの。
隆ちゃんだってそうでしょ、ちょっと陰気で自信なさそうで。それを変えてくれた人たちってことになるでしょ? 本屋さんの跡取りっていうのは変わらなくても、こんな風に前向きに頑張れる人になってなかったんじゃないの?
ああ、隆ちゃんのお父さん、ごめんなさい。僕、ひどいことを言っちゃった」
「いや、君の言ったとおりだよ。隆一はまさに、ちょっと陰気で自信なさそうにしていたもの、芸校に入るまでは。
それがどんどん変わっていったんだ、好きな絵に打ち込んでいるからだけではなく、きっといい仲間に出会えたからだ、と思ったものだよ。
うちは父子家庭で、私ひとりでこいつを育てたつもりでいたけど、君達も隆一を育ててくれたようなものだ。そう思ってるよ」
「じゃあ、僕もきっと隆ちゃんや発ちゃん達に育てられたのね。
ハル君にはもう恩返しできないけど、発ちゃんには恩返しできる。まず、隆ちゃんに『気を張らずに済む場所を作ってあげて』って提案したことが、第一の恩返しだよね」
「それなら、第二の恩返しは雑誌創刊だな」
「そうだね。『創刊した』って僕らが喜んで、発ちゃんも喜んでれば、きっと天国でハル君がそういうのを見てて、安心してくれる」
「いや、天国に嬉しい知らせを届けることも青海君への恩返しになるだろう。飯村君も武村君も、奮起しないとな」
こんな話をした数日後、急ごしらえの人物画教室が始まった。
唯一の生徒である小笠原君は週に2回ほど神田に通ってくるようになったが、彼は「大畑君の教え方が下手くそだ」と不満ばかり口にしていた。同級生だった分だけ遠慮がないだろうし私は私で教えるこつが分からない、やはりしばらく筆をとっていなかったからだろう、と再認識することとなった。こんな調子で教え続けるわけにもいかないし、私自身が鈍った腕を磨き直す必要がある。そこで、本当に久しぶりに我が母校、帝都芸術学校に足を向けてみることにした。
戦中、例の松永老人(帰京後は一度も姿を見ていない)の件でなんの予告もなく店を閉めてしまったからか、戦争が終わって店を再開させてからも芸校の島崎先生などが顔を出すことはなかった。こちらのほうも諸々忙しくも充実した日々が続いていたから連絡を取らないままでいたが、この時ばかりは母校との関わりをうっちゃっていたことを後悔した。
緩やかな坂道を上り、空襲を免れ在学中と変わらぬ姿で残ってくれた懐かしい校舎に足を踏み入れた。やはり校内の雰囲気が変わるのは仕方ないところか、と思っていると、廊下をやたら速足で歩く足音が聞こえてきた。そのリズムには聞き覚えがあった。
「玉井先生…… ああ、玉井先生!」
相かわらずせっかちで落ち着きがなかったが、そのことに逆に安心し嬉しくなって涙さえこぼれそうになった。
「なんだなんだ? ああ、大畑君…… 大畑君か! 入りたまえ上がりたまえ。さあさあさあ」
玉井先生もまた、私の姿を見て半べそをかいていた。職員室へ通してもらうと、島崎先生と、同期生のひとりで助教に就任した平尾君とも再会することができた。彼らはいずれも芸校に留まって教壇に立ち続け、東京で終戦を迎えたという。芸校は従軍画家養成学校の体裁でなんとかやり過ごし休校を免れたが、つまり島崎先生も平尾君も、悲しくつまらない絵を描くための手ほどきをしながら数年を過ごしていた。懐かしい3人の顔を見ることができたのは本当に嬉しかったが彼らの他は分からない顔ばかりで、ここでも時の流れを噛みしめることになった。
「君と店の噂は聞いていたんだ、今じゃ本屋街の顔役だそうじゃないか」
「顔役だなんて…… うちの父が張り切っていろいろやっているだけです。そうだ、飯村君と武村さんのことはご存知ですか?」
「もちろん。彼らは逞しいな、頭が下がる思いだよ。創刊はまだなのかね」
「もうちょっとかかりそうですね。できたらもちろんうちの店の一番目立つところに並べるつもりです、学校にもお届けしましょう」
「大畑君。私のこれまでのことには興味がないのかね?」
「大畑君、玉井先生の話も聞かせてもらおう」
日本画科38期生が卒業した直後に従軍画家に志願し学校を去った玉井先生だったが、その後南方を巡る軍に帯同したものの途中でお役御免となり、18年には帰国していた。しかし学校に戻っても明るい展望などないし軍への協力も金輪際しない、と疎開を決め、一家で地方に引っこんでいたのだ。終戦とともに東京に戻り、21年度から芸校に復帰し、再び日本画科の教壇に立っていた。
「疎開するにあたって、『とにかくとんでもない田舎へ行ってやろう、お偉いさんが洟も引っかけぬような僻地に身を潜めてのんびり暮らすのだ』と決めておったが、成功をみたといっていいだろうな。もちろん苦労はあった、しかしそれもまた楽しい思い出だ」
「疎開はどちらへ?」
「新潟の高田というところだ。城下町であり軍都でもあったが、私がいたのは郊外のほうだ。中途半端に近いところなら軍人どのも足を向けんだろう、と思ってな」
「高田ですか! 僕は新潟市にいたんです、青海君の実家筋を頼って」
「おお、そうか。『新潟といえば青海君だ』と私も思ったが、なにしろ遠い」
「そうですね。ところで、高田に写真家の方が疎開していたそうですがご存じないですか、旭工房所属だった報道写真家の……」
「杉谷君のことを言っておるのかね。私が新潟で出会った親友だ」
真柄さんから話を聞いた時は先輩格なのかと思っていたが、その写真家は私達と同世代だという。それにしても、まさか玉井先生と接点があったとは。
「疎開先では素朴な生活を送れればいい、それ以上のことなど望んではいなかったが杉谷君とは本当にいろんな話ができた。彼は『当地で暮らす人々に被写体としての魅力を感じた』と言っておったな、雪をかき分けて山あいの村に撮影旅行にも行ったそうだ。利博のことも可愛がってくれた、あの子が野山を駆け巡るところを何枚も撮ってくれたものだ。
田舎の純朴な人々と交流し、きれいな空気を吸って命の洗濯をした感があったが、彼との出会いは私にとって最大の収穫といっていいだろうな」
「ああ、やっぱり会いたかったなあ。新潟にいた頃に噂を聞いたことがあったんですよ」
「私のか?」
「ごめんなさい、杉谷さんのほうです。先生、利博ちゃんは元気ですか?」
「もう『ちゃん』づけをすると嫌がるようになった、今年で数えの十になる」
「もうそんなに……」
「そうだ、12年生まれだからな」
「僕達のモデルをやってくれた時は、まだ赤ちゃんだったのにね」平尾君が言った。講師陣の中ではまだ若手の部類に入るはずだが、なんだか老成した感がある。
懐かしい人と顔を合わせると、いつも肝心な話を忘れてしまう。この時も来意を伝えるのをすっかり忘れて、夢中で話しこんでしまっていた。小笠原君と彼の中退以来の再会を果たし、再出発をはかる彼のために人物画を教えてやっているがなかなかうまくいかない、と打ち明けた。
「彼も、芸校をやめてからいろいろあったけど…… でも飯村君と小笠原君、日本画科38期を代表するふたりの異端児が、今は絵に一番近い場所にいるんですよ」
「そういうことになるな。
どうだろう、彼さえ嫌でなければ僕が教えてやってもいいけど……」
平尾君の口から意外な言葉が飛び出した。私自身が学び直さなければ、というほどの気持ちで芸校を訪ねていたが、こちらが教えるこつまで会得するのを待っていたら小笠原君の再デビューも遅れてしまう。
「大畑君は忙しいだろうし、な」
島崎先生が意味ありげに口をはさんできたのが若干引っかかったが、ここは平尾君の厚意に甘えたほうがいいかもしれない、と思い直した。
「彼もちょっと後ろ向きなところがあるから、中退者として引け目を感じているかもしれない。俺が説得して、平尾君から直接教わりたいということになったら初回は俺が連れてくるよ。次に来た時に、さっそく話してみよう」
本人がその気になったらすぐに連れてきてもいいから、と返事したところで、平尾君は話題を変えた。
「芸校では今年から女子生徒も受け入れてるんだ、知ってるだろう? さらに学制改革で、うんと変わっていくかもしれない。大学に再編されるかもしれないんだよ」
「そうらしいな。
そこでひとつ、気になることがあるんだけどさ…… 芸校はなくさないよな、日本画科」
終戦後、早いところでは21年の春から大きな展覧会を再開させる美術団体もあった。時局画などを手掛けてしまった画家達のモラルや今後の活動の可否を問う議論もあったものの、出版界ほどではないが美術界も元気を取り戻しつつあった。
その一方で、一部の美術関係者が「日本画に未来はあるのか」と論じ始めていた。大家の作品が並ぶ展覧会を「老醜」「没落貴族のお弔い」などと揶揄する評論を掲載する新聞があったかと思えば、ある美術学校では日本画科不要論を大真面目に打ち出す者がおり混乱を極めている、という噂もあった。
「『あんなものは誰もやらなくなる。希望者がいれば臨時講師でも呼んで、半月かそこらの時間を割いて教えれば充分だろう』って主張する人がいるっていうじゃないか」
「あれは日本画科存続ってところに落ち着くような気がするけどな。
長老格が円熟味を見せつけ過ぎるのもいけないんじゃないか、と僕は思うんだ」
「言い換えれば旧態依然、ってことだな」
「そう。ああいう人達が後進の頭を押さえつけてはいけないよね。ベテラン連中が睥睨しているような感じになると若手なんかは堅苦しい思いをするだろう、『どうしてもこの枠にはまらなきゃいけないのか』って。そうなるともちろん作品に影響が出て、見る側も楽しみがなくなる。そのうち、誰も期待しなくなる。日本画を必要とする人がいなくなってしまう」
「終戦後は新しいものがどんどん入ってきた、その影響もある。今後必要とされるものなのかどうか、試されてる感もあるね」
「日本画壇は壁だらけだな。高く、厚い壁に取り囲まれている」
「こらっ。講師たる者がなにを言っておる!」
すっかり後ろ向きな気分になってしまった平尾君を、玉井先生がどやしつけた。
「いいかね。君達の在学中を思い出してみろ、入学前まで遡ってもいい。
あの時代、君達が羽目を外して馬鹿騒ぎしていたあの頃まで、日本画界には新たな潮流が次々と生まれていた」
我が意を得たりといった表情の島崎先生も「そうだ」と言葉を継いだ。
「君達の在学中は、モダニズム花盛りだったじゃないか。それまで描かれることのなかった画題が次々と取り上げられて、日本画壇にはまさに新しい風が吹いていた。シュールレアリスムや抽象表現を取り入れることに挑戦する人だっていた、その後美術界は時局画一色に染まってしまったから彼らは表現の場を奪われることになったが。
しかし、そういった潮流をこれから日本画家を志す者が起こせばいい。それだけなんだよ」
「そう。我々講師陣がその手助けをせねばならん。私は君達にやったように基礎をみっちり教え込むだけだ、あとは描く者それぞれが好き勝手にのびのびやってくれればいい。もう戦争は終わったのだから、君達のように『自由』と唱和して泣きの涙で卒業していく、といった愁嘆場が再現されることはないだろう。
古いも新しいもない、自由であればいいのだよ。邪魔する者がどこにいる、軍国主義はとっくに滅びたのだ」
「どうだ、青海君が遺した卒業制作を思い出さないか? 彼はすごいことをやっていたんだよ。モダニズムの影響を受けたものを卒業制作で描いたのは彼が初めてではないが、あのご時世でああいう作品を仕上げた。彼は果敢に挑んだ、と評価していいだろう。
そして、誰かが後に続けばいい。それで万事解決、だ」
青海君の卒業制作の話が出たことで、無性にその作品を見たくなった。芸校では年度ごとの卒業制作首席の作品をすべて保管している。平尾君に手間をかけてしまうことになるが、私は我がままを言って収蔵庫に入れてもらい、青海君の卒業制作「仕立屋にて」に7年ぶりに向き合った。
時代が違えば、絵の中の女性はもっとほっそりしていただろう。しかしそこを除けばやはり新しかった、彼の挑戦心が紙本一杯にみなぎっていた。彼の絵の特徴だった光の使い方、明るく清涼感ある色づかい、透明感。彼の技術、そして人間性がなせる業だ、他の誰にも真似できるものではない。
「青海君は、例の海の絵をきっかけにこの光の感じを出せるようになったんだよな。海の絵では色のところで失敗した、暗くなり過ぎた。でもあの構図は、今考えると本当にすごい。大したものだと思うよ」
「そうだったな、あれでハルは奮起したんだ。独自の色づかいを生み出すという成長も、あんな大失敗も。どちらも、簡単にできることじゃないだろう?」
「ははは、大畑君の言うとおりだ。なんだか、懐かしいな」
私はいつの間にか、しばらく会っていなかった友と再会を果たしたような気がしていた、きっと平尾君もそうだろう。私が芸校を訪れたのは、青海君に会うためだったのかもしれない。
「薫ちゃんと小笠原君も連れてくればよかったよ。ふたりがハルに近況報告をしたら、びっくりするだろうな」
「いや、そういうのは全部見てるんじゃないのかな。空の上にいるんだから、なんだってお見通しだろう。僕らの同期生は彼を含め4人が戦死したけど、みんな向こうで落ち合うことができたはずだよ。今頃みんなで僕らを見下ろして『珍しいな、大畑君が来てる』なんて言ってるんじゃないか。
ところで、発ちゃんは帰ってきたのか?」
「それが、ついこの間、小笠原君と一緒に店に来たんだよ。本当に嬉しかったけど、もうとんでもない思いをしたみたいだ。とても本調子とはいえないけど、俺達が元気づけてやらないとな、って」
「そうか。でも青海君が、天国から発ちゃんを後押ししてくれるに違いないよ。
僕は、たまにおかしなことを考える癖がついたんだけどさ。ひょっとしたら、天国にいる人達というのは僕達仲間の将来だって知ってるかもしれない。生き残ったうちの誰が日本画家としての道を歩いていくか、それすら知っているはずだ、って。
島崎先生がさっきおっしゃっていた『後に続く誰か』っていうのは、誰のことだろうね」
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