無題/戦争画をテーマにした物語(第5部のつもり④)

 
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 私が所属する美術団体「ひらく会」は終戦の翌年、新田修哉しゅうやさんという画家はじめ7人が「戦争で止まってしまった日本画の歩みを再開させ、さらに新しい道(可能性)を『ひらく』」を合言葉に創設した日本画専門の団体だ。会員は芸校の卒業生が多く、母校の先輩格や後輩、あるいは在学中に終戦を迎えた若手らとともに、年2回の団体展を軸とした活動を行なっている。
 新田さんも芸校の卒業生で、島崎先生の2期先輩にあたる。卒業後は銀行員として働きながら制作活動を続け、その中で展覧会入賞を果たすなど一定の成果をあげてきた。
 明朗快活、邪気のない人だからすこぶる接しやすい。しかし、あっけらかんとし過ぎているというか、リーダーらしい働きをするのが非常に苦手な人ともいえる。ただ本人の人柄と、終戦後の混乱期にあれこれ考えず団体を立ち上げてしまった行動力を考えれば「強い求心力をもつ人」ということになるだろう。そんな新田さんの元で、まとめ役ができる人が展覧会を企画し会場を探したり、あるいは懇親会と称した会合の場を設けたり、時には会員同士のいさかいをおさめたりと、活動の舵取かじとり役を務めている。
 母方が地方で数十すうじゅっそんを治めた大庄屋おおじょうやをつとめた家系だったらしい、お坊ちゃまなんだからしょうがない。と、創設メンバーのひとりである柏木さんから聞かされたことがある。
「新田さんの母方のお祖父じいさんというのが、貯蓄銀行の頭取でさ。昔は、地元の名家がおこした銀行というのがその街ごとにあったじゃないか、地方は特にそうだ。今は普通銀行に吸収合併されて消滅したけど。
 で、実家にいた書生と母上が恋におちて駆け落ちしようとしたところで、新田さんのお祖父さんが『いや、君になら娘をやってもいい』と。ふたりは実家の広大な敷地の一角に離れを建ててもらって、娘婿は銀行を継いだ。そんな夫婦の間に次男坊として生まれ、乳母日傘おんばひがさで育ったのが新田さんだ。
 俺達が描く場所を作ってくれたんだもの。ご恩返し、ご奉公のつもりで助けてやらないとな」
 ちなみに新田さんも、私同様に戦争画に背を向けていたひとりではあった。しかし(こういうと語弊があるが)さほど思い悩むことはなかったようだ、「描きたくないから描かない」というだけだったのだろう。だからこそ、戦後のどさくさの中で「さあ活動再開だ」とばかり団体を立ち上げることができたのではないか。私からみれば、いま抱えている戦争画にまつわるもやもやを共有できる人とはいえないが。
 
 4月第2週、快晴の日に団体展の作品搬入が行なわれた。この週末、いよいよ当会こと「ひらく会」の第6回作品展の開催日を迎える。
 新田さんや柏木さんはじめ7人の日本画家が「ひらく会」を立ち上げたのが昭和21年夏。夏になれば創設3周年を迎えるこの会には、22年の晩夏に参加させてもらった私同様に「描く場所」を求める画家が集まり、第6回展では20人近くの会員による力作40点以上が一堂に会する。これは当時の美術展としてはまあまあの規模といえる。
 天候にも恵まれ、作品搬入をつつがなく終えた。その後は例によっての会合、展覧会場の隅っこで「懇親会」が始まる。この年の5月に酒類の統制が解かれ、ようやく「酒屋で酒を買う」という当たり前のことができるようになった。我々が宴席をもったのはその前夜といえる時期だったが、この日はそれまでやっていたように、各々が酒類やつまみになるものを持ち寄っていた。左党にしてみれば、それこそこの夜の痛飲を思い描きながら、大事に取りおいていたものだ。
 以前は、搬入後の懇親会は展覧会場のロビーだとか、あるいは会場近くに住む者があればその人の家に移動して行なっていた。しかし酒が回ると、みんな「一番の酒のさかなは、出品される作品に他ならない」となってしまう。
 いちど、会員宅から展覧会場まで徒歩10分の大行進(もちろん手に手に酒瓶さかびん酒肴しゅこうを携えて、だ)なんてことがあった。創設メンバーのひとりである浦野さんが暮らす街の公民館を押さえることができ、搬入を終えた会員全員が浦野さん宅に移動し、細君に多大な負担をかけつつの宴が始まった。
 夜も更けた頃、すっかりいい気分になったある会員が作品のひとつについて語り始め、「いま一度会場に行き、作品を見なおしてみないか」と言い出した。止める者はいるにはいたが声が小さかったし、浦野夫人は疲れ果てていたのだろう、「行ってらっしゃい。そのままお泊まりになるんでしょう?」と送り出した。
 我ら「ひらく会」こと十数人の酔っぱらいどもは、大いに気炎きえんを上げながら公民館へ向かって歩き始めたが、それを見とがめた警察官に呼び止められた。新田さんは警察官に対して「美術団体の会合ですっかり出来上がってしまっており、酒席で話題にのぼった作品を見に行くところだ」と打ち明け、さらに「よろしければ一緒に作品を見てほしい。第三者の視点というのは非常に参考になるから」と、大胆にも誘いの言葉をかけた。
 警察官も警察官で(新田さんの申し開きを聞いたとしてもなお危ぶむような感があったのかもしれないが)公民館まで同行し、我々の力作を前にして「うーん。上手です」と一言だけ感想を述べた。まだ若く真面目そうな好青年だったからすぐ夜警に戻るつもりだったのだろうが逃げるに逃げられなくなり、彼は新田さんのしゃくどぶろく・・・・を一杯だけ飲んでひっくり返ってしまった。新田さんは「巡査どのも、日頃の激務でお疲れなのだろう。風邪をひいては大変だ」と舶来はくらいものの外套がいとうを脱ぎ、眠りこける警察官にそっとかけてやった。
 それから眠気に絡めとられた順に雑魚寝ざこね相成あいなったが、翌朝、新田さんの外套を毛布代わりにしてぐっすり眠った警察官以外全員が風邪をひいてしまっていた。それ以来、搬入後の飲み会は移動せずに済むよう作品のある場所で行うのが通例となり、さらに「春先の展覧会前の会合時はあたたかい服装で」という、あってもなくてもいいようなルールができた。

 さて、第6回展を控えた懇親会が、作品がずらりと並ぶ会場で始まった。
 いつも、ざっくばらんに話しているうちに次第に作品の評価めいた話に移っていくが、みなそれぞれ、互いの作品を尊重するという姿勢で接することを忘れず「議論と批判は違う」という合言葉を常に心に留め置きつつ仲間の作品に向き合っている(脱線してしまうことも少なくないし、脱線しがちな者がいるのも仕方ないことではあるのだが)。作品そのものの話とそれに因む軽いエピソードの間を行ったり来たりする、というのがいつもの懇親会の風景だ。
 この時は、門倉さんという中堅どころの会員が出品したお地蔵さんの絵が話題にのぼっていた。作品について発言したい者が自由に意見を述べた後、新田さんが「お地蔵さんといえばねえ」と語り始めた。酒が回り、彼のトレードマークともいえるふっくらした頬(赤ん坊並み、といってもいい。無邪気すぎる彼の人柄を象徴しているようにも思える)が紅潮し、素面しらふの時よりもつやつやして見える。さらにいえば頬同様に腹回りもふっくらしているから、戦中の暮らしぶりがどんなものだったのか、ちょっと想像がつかないようなところもある。
「僕が小さい頃、実家で村のお地蔵さんをお預かりしていた、なんてことがあったんだ。
 僕の実家は近郷30か村を治めていた大庄屋だっただろう? 明治維新後は庄屋の格なんて通用しなくなったけど、お祖父さまが貯蓄銀行を始めたから治めていた村のほとんどが昔と変わらずうちを頼ってくれていたし、うちだって彼らのおかげで暮らしをたてていたわけだから。
 でね。ある年の夏、山あいの一番奥まったところにある村が大雨の被害に遭ってね。幸い人的被害は出なかったけど、土砂崩れで山の中腹にあった地蔵堂がつぶされちゃったんだ。お地蔵さんはなんとか掘り出したものの安置する場所がない、お堂を再建するにしてもみんな細々と暮らしていたから、寄進する余裕なんてないんだ。下手すると、このまま再建できない可能性もある。それでどうしたか、っていうとね」
「ほら、お坊ちゃまの自慢話が始まった」と顔をしかめる人はいない。みんな分かっていることだ、柏木さんが言っていた「お坊ちゃまなんだからしょうがない」の一言に尽きる。彼は血筋のよさをひけらかしたいわけではないし、それに起因する歪んだ優越感を持っている人でもない。ただ、お地蔵さんの絵を見て幼少期の出来事を思い出し「お地蔵さんといえばねえ」と語り始めただけだ。
「僕のお祖父さまがね、『地蔵堂の再建費用はうちで出してやる、参道だって他の村の力自慢を集めればすぐに直る。お堂が完成するまではお地蔵さんは我が家でお預かりする、何も心配するな』って。村人がお地蔵さまを大八車に積んで運んできた時のことは今でも覚えているよ」
「で、お地蔵さんはどこに置いたんですか?」
「うん。実家の庭にね、大工仕事が得意な使用人から急ごしらえの東屋あずまやみたいなのを造ってもらって安置したんだ。村の人には『拝みに来たい時はいつでも来ればいい』って声をかけておいたんだけどひと月に何人も来たね、かなり遠いんだけど。
 普段は家のことなんて全部使用人に任せているけど、お地蔵さんのおまつりはお祖父さまとお祖母ばあさま、率先してやっていたね。お花や線香を絶やしたことは一度もなかったよ、とても信仰心があつい人だった。
 たまにお地蔵さんをたわし・・・でこすって汚れを落としてあげたりしていたけど、僕も手伝ったものだよ。仕上げに柄杓ひしゃくで水をかけるんだけど『お祖母ちゃまにかからないようにしないとね』なんて言うと『修哉ちゃんは優しい子ねえ』って褒めてくれるんだ、それが嬉しくてさ」
 その後、お堂は再建された。新田さんの祖父の「ちょっとやそっとでは壊れないような頑丈なものを建てたい」「近代日本にふさわしいハイカラなものがいい」という要望から、なんと煉瓦れんが造りの地蔵堂が建てられたという。腕利きの煉瓦職人の手が空かないというので、2年も待たされたのだそうだ。
「ご実家のほうは、今も……」
「兄さんが家督を継いだんだ。建物は洋館のほうがGHQに接収されてるけど、そのうち返してもらえるだろう。銀行は、兄さんが『地元初の百貨店を作るんだ』ってことで、昭和のはじめにやめちゃったんだけど」
 こういう話を本当になんでもないような口調で語る人なのだ、例えば楽しい一日を過ごした小学生がその感情もエピソードもすべて家に持ち帰り、一部始終を親兄弟に語って聞かせるような感じで。祖父母のことを語る時に臆面もなく「お祖父さま」「お祖母さま」というし、自身が「ちゃん」付けで呼ばれていたこともそのまま明かしてしまう。こんな中年男にお目にかかるのは私自身初めてだ。
「本当に。何度会っても『何もかも違うんだなあ』って思っちゃうんですよね、未だに慣れないんです」
 私は隣席の柏木さんに小声で言った。「悪い人じゃないってもちろん分かってるし、嫌いなわけでもない。でも『こういう人、いるんだなあ』って」
「彼こそがまさに『銀のさじをくわえて生まれてきた人』だよな。俺も、彼に出会ったことでその実在を確認したんだ。ははは」
「自己愛の成長をはばまれる経験が一切なかったんだろうな、そういう印象です。ああ、こんなこと言うと卑屈ひくつな感じになっちゃうけど、悪い意味じゃないんですよ。
 なんていうかな、彼のお人柄に対して純粋な驚きがある、というか」
「それはみんなそうだろうな。まず、自分の出自を特別視してはいない。そうかといって、人の痛みや苦しみが分からない人でもない。人を傷つけたりおとしめたりすることもない、どころかそういうのを一番嫌がるじゃないか。俺は彼のことを『お坊ちゃまだからしょうがない』なんて言ったこともあるけどさ、彼ならどんな境遇に育ってもああいう人間になっていたかもしれないね。稀有けうな人だよ」
 新田さんの話は続いていた。彼が花鳥画を好んで描くきっかけになったのは、優しく花好きである祖母を喜ばせたいという思いから、だそうだ。「お祖母さまが『修哉ちゃん、このばらの花をご覧なさい。朝露がこんなに光っているわよ、綺麗ねえ』って言ったもんだから『この花の絵を描いたら、お祖母ちゃまは喜んでくれるだろうなあ』って。僕の原点みたいなものだよ」
 とはいえ、新田さんには銀行員として長年働いてきたというもうひとつの顔もある。職場では普通の勤め人の姿になって部下を叱責したり、なんてこともあるかもしれないし(想像しがたい場面ではあるが)、金というものを扱う仕事をしているのだからそれなりに人間のきたなさを知ってもいるだろう。
 それでも、彼の横顔にはそんな日々の中で蓄積されるであろう陰りのようなものが、一切感じられない。童子どうじのような無邪気な顔になるのは、愛してやまない絵に触れる時、そして自身と同じく絵を愛する同志とともに過ごしている時だけなのかもしれないが、なんにしても幸せな人であることは間違いない。
 新田さんのことでいろいろ話しているうちに、さらに突っ込んだ話をしてみたい、と思うようになっていた。酒の勢いもあるし柏木さんなら聞いてくれそうな気がする、きっと大丈夫だろう。いうまでもない、あの話だ。

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