元従軍画家の独白:1 ー 無題/戦争画をテーマにした物語(第5部のつもり⑨)

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 戸惑いと憂い、そしてただただ「会いたい」というはち切れんばかりの思いに支配されている若い女性。恋はまだ成就しておらず、もしかすると実る見込みはない、あるいは実らせる術を彼女自身が知らないのかもしれない。たった今、その苦しみを初めて、誰かに打ち明けたところなのだろうか。だから、泣いた後のような顔をしているのだろうか。
 人を好きになることの苦しさを、絵の中の女性はきっと生まれて初めて味わっている。なのに自分を苦しめている存在とは、彼女にとってまさに希望そのものなのだろう。恋とは不思議なもの、そしてとても厄介なものだ。
 そんな感慨を抱かせてくれる作品。その真ん前で、私はこれから戦争画の話を聞こうとしている。語ってくれるのはこの作品の作者だが、こういう作品を描いた時代があったのだ、と思えばなんとも落ち着かない、ざわついたような感情がわき起こってくる。
「『恋わずらい』を見ていたのかい。これは新田君もお気に入りの作品だ。
 彼は、この絵を『人物画を諦めさせた元凶だ』なんて言い方をしていたね。『よくも挫折させてくれましたね』だってさ。まったく、彼は」
「そういう心境に至らせた作品ほど愛するに値する、っていうのはありますよね。私もこの作品は大好きです、初めて展覧会に出品された時も拝見しました。いったい何年ぶりだろう、もう20年近く経っているのかなあ」
「そのぐらいになるかな。
 実はね、この絵のモデルはここにいる妹なんだよ。妹はうら若き乙女だった頃に私の学友に恋焦がれて、塗炭とたんの苦しみを味わった。私はその頃の様子をスケッチしておいて、一枚の作品に仕上げたんだ。すぐにでもどこかの展覧会に出品して出来ばえを問いたいところだったが、ほとぼりがさめるまでかなり時間がかかったものだから」
「あの、えーと。妹さん……」
 身近な人間の存在が制作のヒントになった、というのはよくある話だ。しかし、いくらなんでも昔の恋がどうの、なんて話を本人の前で大っぴらに話すのはどうなのか、と思って声をかけてしまった。
「なに、門に表札がかかっていただろう? ハッピーエンドになったんだよ。
 妹には幼い頃にきめられた許婚いいなずけがいたんだが、相手の男は長じるにつれ『果たして妹を幸せにしてくれるのか』と懸念せざるを得ないような態度をとるようになってきたし、妹は思い悩んですっかり元気をなくしてしまった。両親も『破談でいいだろう』なんて言い出したものだから、私は内山と引き合わせることを提案してみたんだ。両親と私、それから内山の4人で『相手方とひと悶着あるだろうけど、なんとか収めてやろう』って相談してね。
 内山が実家へ遊びに来るようになって、3回目の夕方だったかな。あいつが帰って、私が部屋にひとりでいる時に妹が思いつめた表情でやって来た。それで『兄さまは、なぜ内山さんをおうちに招いたのですか。私はあのお方を好きになってしまった、いったいどうすればいいのですか』と泣き崩れたんだ。
 妹は私たちの計画を一切知らなかったものだからね。間もなく好きでもない男のもとにとつごうとしている、その前にあんな素敵な男に引き合わせるとはどういうことなのか。『兄さまは罪作りなことをしているのですよ』とばかり悲憤ひふんの涙に暮れた、ってわけだ。そこで私は種明かしをして『叶わぬ恋ではないよ。兄さんに任せておけ』と。その後は、私よりは内山のほうが活躍したかな」
 久仁子さんは頬を赤らめて苦笑いしながらも、話してくれた。
「その時に『ちょっと待ちなさい。動くんじゃない』って紙と鉛筆を持ってきて、あっという間にスケッチを済ませてしまって。
『そうか、初めての恋に身悶みもだえる少女の顔とはこういうものなんだな』なんて呟きながら描いてるんですもの。いつもの、絵を描くことが大好きな変な兄さまだったけれど、同時に私に『お前が今陥っている状態こそが、恋というものなのだ』と教えてくれたのね、って気づいたんです。
『ああ、あとは兄さまにお任せしてみよう』と思った頃にはすっかり涙も引っこんで。それを見た兄が『なんだ、画題とは程遠い顔になってしまってる』って」
 初恋は必ず破れるものだ、というのが常識のように語られているけれど。久仁子さん自身その常識をくつがえして幸せになったわけだし、ひょっとすると内心鼻高々といった心境で、このエピソードを何度も披露してきたかもしれない。しかし、そんな話をして勝手な優越感に浸るような、下品な人だろうか。
 同時に、私には河原田に対して「なんだ、普通に喋ってくれるじゃないか」と安堵した感もあった。安堵を通りこして、拍子抜けしてしまったほどだ。彼の声はかすれ気味だったが、思い出話を語るのを楽しんでいることはたしかだ。優しく頼もしく、(意外なことに)茶目っ気もほんの少し感じられる人柄をその表情や声のトーン、まなざしから読みとることができた。元気だった頃は、そういった要素がさらに前面に出てきていたのだろう。
 河原田は「新田君がね」と言った。なんでも新田さんがいきなり家に来て「大畑君は非常に繊細な人間だ。先生を前にきっとがちがちに縮こまってしまうだろう、だから昔の先生に戻って、緊張をほぐしてやってほしい」と頼みこんだ。ついでに画室の絵なんかをひっかき回した挙句、とにかく好きだという「恋わずらい」を引っぱり出して自ら応接間の一番目立つ場所に飾り、あわただしく帰っていったそうだ。
 さすがに「恋わずらい」が常に応接間に飾られているわけではないと分かって、そりゃそうだよな、と思った。久仁子さんは作品のモデルでありこの家の住人でもあるのだから、少女時代の一場面をそのまま塗りこめた作品を人目につくところに出したりはせず、展覧会などがない限りは大事にしまっておいてほしい、と考えるのが当たり前だろう。
 それにしても、人様の作品を勝手に飾りつける新田さんときたら、というところだが。彼としては「昔の先生に戻って」という言葉がみそ・・だったりするかもしれないな。と、ぼんやり思って、その直後に気づいた。
 新田さんが無理やり「恋わずらい」を応接間に飾ったのは、まずは河原田に「昔の先生に戻ってほしい」から。有名な作品の制作秘話(妹さんの恋物語も込みだから、いやおうでも盛り上がる)を面白おかしく語ってくれた頃のように、快活で茶目っ気がある側面を来訪者に見せてほしいから。それによって、私こと気弱な来訪者の緊張もほぐれ、河原田という画家の人柄を深く知ることができる。そんな狙いがあったのかもしれない。
 久仁子さんも、つき合いの長い新田さんの意向を理解して、普段なら「お察しください」の一言で済ませておくようなエピソードをあえて披露するという形でその手伝いをすることになったのだろう。ちょっと可哀想な気も、しないでもないけれど。
「さてと。それでは、始めるとするか。私だって、この話をするのはちょっと難儀なんだよ」
 
 ああ、でもやはり、まだ話すのは辛い気がするな。妹の一件の後日談めいた話でもしようか、ちょっと聞いてくれるかい。
 その後、妹の久仁子と私の画学校時代の親友・内山はめでたく結婚した。子宝(まずは甥の純也。その2年後に、先日の団体展につき添ってくれた姪の留美子が生まれた)にも恵まれ、内山の仕事も順風満帆。例の許婚も他の女性をめとって幸せに暮らしている、と風の噂で聞いたところで、私は何年も前に仕上げておいた「恋わずらい」を展覧会に出品したんだ。
 ちなみに内山は画学校時代の親友だといったが、彼は卒業したものの一般の仕事に就いた。今も絵筆をとることはあるんだ、だから応接室には普段、彼が描いたものが飾ってある。
 内山に対して、私は画学校には籍を置きつつも、入学した年から「文化を研究したい」だのなんだのと言って旅を繰り返すようになっていた。国内で旅三昧の日々を過ごしていたが、「妹の問題でみんな頭を悩ませている」と母から旅先に手紙が来てね。心配になって帰京し、助け舟を出してやったんだ。
 当時は第一次世界大戦の真っ最中だった。日本も参戦していたはずなんだが、我々が戦争の空気にがんじがらめにされることは、まだなかったような気がする。
 第一次大戦が終わってから、初めて中国へと旅をした。清朝しんちょう宮廷きゅうていの美術品や、紫禁城しきんじょうなども見学させてもらってね。で学んだことを日本へ持ち帰り、美術誌への寄稿や個展などで披露すると、こんどは「あらためて日本国内を歩いてみなければ」ってなってしまうんだ。それで自分がまだ足を踏み入れたことのなかった地域、そこに伝わる伝承などに興味を持つようになった。再び国内で旅三昧、となったわけだ。
 父(山陰の古い寺で生まれ育ったが、宗派の総本山に出仕するため東京に家を構えた。そこが私にとっての実家になる)の伝手で宿泊先を探してもらうと、熱心な信徒のお屋敷なんかを紹介してもらえる。そういう家にお世話になりながら、長い時はひと月くらい逗留して取材と執筆に励み、描き上げたものを雑誌の連載で見てもらった。
 新田君と初めて出会ったのも、この頃だ。彼の故郷に伝わる悲恋物語を私の絵筆で再現してみたいと思って、例によって逗留先を探してもらったら、彼のお祖父さんが建てた洋館に泊めてもらえることになった。私にいわせると、新田君は少年期から何ひとつ変わってないんだよ、私の懐中時計の金鎖を見て「美しい! きらきら光っていますね」と声をあげた時から。あの純真で、ちょっと不躾ぶしつけなところ。
 旅行記の連載を一冊の本にまとめたり、もちろん公募展に作品を出品したりね。仲間と団体展を開いたり取材旅行に行ったり、登山会と称して山中で軍隊風のキャンプを張りながら、山岳の風景を競って描いたり(あの時は学生に戻ったような感があって、とにかく楽しかったな)。絵描きとして、本当に充実した日々を過ごすことができていた。
 私としては思いのままに好き勝手やっていただけなんだが、いつの間にか「旅の画家・河原田真暁」という像が確立されていた。私はいろんなことを期待されているんだな、と自覚せざるを得ない状況になっていた。
 そんな中で、いろんな方、それこそ「やんごとなき」という言葉で表現しなければいけないようなお歴々との出会いもあったよ。これは自慢したくて話すわけじゃないんだ、事実としてたとえば宮様だとか、そういう方のお屋敷に招かれて食事をご一緒させていただいたこともあったし、肖像画を描かせていただいたこともある。書画の類がお好きな方というのは一定数いらっしゃるからね、そういう方々によくしていただいた、というのもあるよ。
 第一次大戦が終わった数年後に関東大震災が起こったけれど、そういう時にやはり「お国の一大事」の際にはどうあるべきか、と考えたりもした。私は画家であり僧籍もある、このような人間にできることはあまり多くはないのかもしれないが、そういう時でもお役に立ちたいものだという意識はあった。
 その後、インドやイタリアなど20か国近くを2年半かけて回ってね。世界中を自らの足で歩き、あまねく文化を自らの目で見て自らの心で捉え、考え、たしかめて。永年の夢がようやく叶ったんだ。それらを美術誌への寄稿という形で、日本の人に届けることができた。君が幼い頃に見てくれたというのが、多分それだろう。
 そして帰国後にこの家を建て、ここでの暮らしが落ち着いた頃に、こんどは「アメリカの対日感情を好転させるための事業に参画さんかくしてほしい」との依頼を受け、半年ほど渡米した。
 ところが、行ってはみたものの「芸術をもって対日感情を好転させるとは」なんて、企画を一から練り直す、というていたらくでね。展覧会でも講演会でも急ごしらえで「果たしてうまくいくのか」とひやひやしていたけれど、当地の人々は意外と喜んでくれた。文化に触れたいと思う人、文化を知る人との交流はやはり楽しいものだよ。君も分かるだろう?
 しかし、そういう人とばかり関わっていたわけではない。むしろ、文化に触れたいわけではない人との出会いが多かった、「どうも穏やかではないぞ」と感じさせる人が次から次へと現れて、ね。本当に、私を何に祭りあげようとしているんだろう、なんて薄ら寒いような感じがすることもあった。
 そういう人たちと距離を置きたくて、表向きはこき・・使われた腹いせとばかり「もっと旅を楽しみたいんだ。旅の空では旅情というものを忘れてはいけないだろう」とかなんとか言って、骨董市こっとういちみたいなところにひとりで行ってみたり(いま使ってもらっているコーヒー茶碗は、その時に買ったものだ)、馬を駆って雪中観光としゃれ込んだら遭難しかかったりね。
 
 そんな風に、任される仕事も出会う人も、だんだんそれなりになっていった。そのうち、「旅にご一緒しませんか」なんて誘ってくれる人が芸術家でも学者でもなく軍の偉い人で、断るに断れず同行させてもらったり。そんな人たちとどこを旅したのか、なんて言いたいような言いたくないような。旅が大好きだったはずなのに、ある時を境になんともいえないような記憶ばかりが蓄積されていくようになったんだ。
 私は単なる絵描きだったはずだが、家柄だのなんだの、諸々運がよくていろんな巡り合わせがあった。その流れの中で泳いでいるうちに、絵描きだか公人だか、という感じになっていった。それなりにいろんなことを聞かされたり、知ったりもしてしまった。
 そして、昭和6年9月。柳条湖事件が起き、それをきっかけに満州事変が勃発したんだ。
君は当時、何をしていた? まだ中学生くらいだったか?

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