無題/戦争画をテーマにした物語(第5部のつもり⑦)

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「絵を描く自分」が、目標に据えた存在。私の夢のてっぺんにいた人が、あんな姿で現れた。
 描くことは物心ついた頃から好きだったが、大きくなるにつれて店の売り物の美術誌に手を伸ばしてはこっそりページを繰る、というのが楽しみのひとつになった。父は「店の者が手をつけた品物で商売をするわけにはいかない」と私を叱った後に美術誌を買い下げたが、それ以来毎月、その本を私のために1冊余計に発注してくれるようになった。
 その本は子ども向けというわけではなく、当時の私にとっては正直なところちんぷんかんぷん・・・・・・・・、という他なかった。ただ楽しみにしていたのが旅行記の連載、その筆者が河原田真暁だったのだ。帝展クラスの大規模な公募展入選者の常連でありながら国内外への旅を繰り返し、その様子を見事な絵と文で伝えてくれる。それこそ(敵国になる前の)ヨーロッパでもアメリカでも、ある時は馬を駆って異国の地を巡り、その土地ごとの文化に触れてきた人だ。
 彼の見た世界を知りたくて、はじめの頃はそばに辞書を置いて漢字を調べながら紀行文を読んでいた。そのうち父も私の熱心な様子に目を細めるようになり、「河原田真暁に憧れてるんだな? 父さんもこういう人には憧れるよ」などと言って、親子で肩を並べてその本を見たりしたものだ。
 関東大震災で足を怪我してしまったから、真暁のように方々を旅するのはちょっと大変かもしれない。でも描くことならできる、彼の描線を、色づかいを、構図を目指すことならできる。11歳の私が描くことに没頭するきっかけを作った人、いわば原点ともいえる存在だった。
 私はその美術誌をとおして真暁を追い続け、旅行記の連載が終わっても以前買った本に掲載された絵を模写してみたり、彼の作品を生で見られる展覧会に足を運んだりしていた。
 柳条湖りゅうじょうこ事件が起きた昭和6年ごろから彼の作品は旅行記や美術作品ではなく従軍記で見られるようになっていったが、さほど反感を抱いてはいなかった。戦争はまだ、我が事として考えるには遠いものだったし、私淑していた画家が軍服姿の人物の絵ばかり描くようになっても「しょうがない」の一言で済ませることができた。
 芸校に入ってしばらくたった頃、こんなことがあった。
 青海君や平澤君と見に行った美術展で「河原田真暁が来ている」と誰かが騒ぎ始め、平澤君が「大畑の憧れの人じゃないか。これぞ千載一遇せんざいいちぐうってやつだ、思い切って話を聞かせてもらわないか」と言い出した。青海君が「公私の別というものがあるだろう。いきなり声をかけては嫌がられるんじゃないか」と言い、さすがに声をかける勇気はないと戸惑っていた私もそれに同意して、ふたりで平澤君を止めた。しかし本音をいえばもちろん話をしてみたかった、技法のことはもちろん旅先の話なんかも聞かせてもらいたい、とさえ思った。
 帰りがけに、その姿を遠くから見ることができた。例の美術誌にはたまに真暁の近影も掲載されていた、洋装姿でほんの少し気どったようなポーズをとり、時には仲間と写る快活な笑顔もあった。その時もやはり洋装で、雑誌で見たとおりのバタくさい顔立ちで上背うわぜいもあるから、背広姿がとにかく格好よかった。
 しかしその時は、居合わせた客に騒がれて辟易へきえきしているのだろう、と容易に推測できる表情になってしまっていた。平澤君に「ほら、声をかけなくてよかったんだ。自分たちの行いが原因であんな顔になっちゃったら辛いじゃないか」と言ったら「はいはい。悪かったよ」と口をとがらせ、それを見た青海君は苦笑いした後「まあ、しょうがない。もう帰ろう」と促した。そのまま、そそくさと展覧会場を後にしたのだった。
 その後、私たちが進級して卒業後のことを考え始めるのと歩調を合わせるように、世の中は戦時色を強めていき、ついに我々に「戦争がらみの絵を描くしかないのだ」という現実をつきつけてきた。
 その頃には、私はもう河原田真暁という画家には「従軍画家という浅ましい連中の筆頭」という目を向けるようになっていた。きっと昔の作風など封印した――少年だった私が大いに憧れ目標としたような絵、その新作は二度と拝めないのだ、と観念するしかなかったし、軍への迎合ぶりもひっかかって「きっと裏の顔があるのだろう」と邪推するようにもなった。
 ただ、以前の作品群で感じられた抒情味じょじょうみは、そんな絵からもほんの少し感じ取ることができた。それが不思議というか、なんとなしの違和感があった。でも色づかいは陰気だったし、なにしろ題材が題材、だ。私が少年時代を経て大人といえる年になる中で希望をもつきっかけになった存在、その変わり果てた姿を見せつけられた感があった。
 そして例の絵、時局画展で見ることになった「忠魂」でとどめを刺されたのだ。私にとっての河原田真暁は、そこで終わっている。
「単なるファンだったんだから、なにを知っているわけでもないんですけど。でもね、昔見たあの人と同一人物だとは、とてもとても…… こんな言い方は失礼ですけどね」
「いや、みんなそう言うよ。『変わっちゃった』とか、ひどい人は『見る影もない』とか。ここだけの話だよ、こんなのは。
 それだけご苦労があった、ということだ。あの人だってだて・・に50年以上生きてきたわけじゃない、時代が時代だったんだし老けこんでしまうのも当然だろう」
 河原田が展示室に入ってから、新田さんは私に彼のことをいろいろと教えてくれた。
 新田さんと河原田とのつき合いは、驚くほど長いものだった。
 前に新田さんが話していたように、彼の祖父は非常に信心深い人で、名家なだけあって菩提寺ぼだいじが属する宗派の総本山とも懇意にしていた。そして河原田の父は山陰地方の古刹こさつの出身で、総本山に出仕し高い地位についていた人だった。ちなみに母親は子爵ししゃく筋の生まれだ。
 新田さん以上のお坊ちゃま育ちで、年端としはもゆかぬうちから高名な画家に日本画を学び、京都に開校したばかりだった美術学校にはの一番に入学している。そんな御曹司、著名な画家になってからは(僧籍にありながら)貴公子と称したほうがしっくりくるような人物と新田さんには、祖父を通じて「知り合いの知り合い」といっていいほどのつながりが、幼い頃からあった。
 海外に出る前、うんと若い頃の河原田は国内の各地もくまなく回っていたが、ある時に新田さんの故郷を訪れることになった。その時の逗留先とうりゅうさきとして、まだ少年だった新田さんが暮らす邸宅が選ばれた。
 来訪日には駅まで迎えに行ったが、汽車を降りて改札を抜け、待ち受けた新田さん一家に挨拶した時の姿が忘れられないという。「都会の青年が来たんだから『格好いい』と思うのもわくわくするのも当然なんだ、でもその一言では説明がつかないような。颯爽さっそうとしていたけど、やっぱりその一言では説明がつかない。とにかくどきっとしたんだよ、まぶしいと思ったほどだ」
 それが初めての出会いだったという。新田さんが画家に憧れていると打ち明けると、河原田は絵の手ほどきをしてくれたばかりか「生まれ育った場所を愛するのは当然だが、井の中のかわずで終わってはいけない。時代の趨勢すうせいを考えれば、広い世界に目を向けることがいかに大事か分かるだろう」と諭してくれたそうだ。投宿初日の夜にそんな対話をし、翌日からは「当地に伝わる民話を題材に描いてみたい」という河原田を、物語の舞台となった河のほとりに案内したり、例の煉瓦造りの地蔵堂が建つ山にも連れていったという。
 その数日間は新田さんにとって大切な思い出として残ったが、長じて芸校入学にあたり上京。河原田がひとりで暮らしていた家に出向いて挨拶して以来、彼が旅に出ている時以外は交流が途絶えたことはないという。
「いかにも都会的で瀟洒しょうしゃなお屋敷だよ。彼も日本画家、なおかつお坊さんだと考えれば『いくらなんでもモダン過ぎやしないか』と思ってしまうほどだ。
 今はその建物を妹さん夫婦の名義にして、一緒に住んでもらってね。『自分で建てた家に居候いそうろうしているんだ』なんて苦笑いしていたよ。今日つき添っている留美子ちゃんは、彼の姪御めいごさんだ。
 あれだな。君は例の絵があるから、河原田先生のことを好意的にみれないんだろう?」
「そうです」
 当たり前じゃないですか、新田さんは長年のつき合いがあるからひいき目で見てしまうんだろうけど。と言ってやりたかったが、ちょっと冷静になると自分の狭量さに気づいて気恥ずかしくもなってくる。
「なぜ『まことあかつき』から『雨にく』と名前を変えたのか。それを考えてみると、彼のことをよく理解できるかもしれないね」
「ああ、そうか。……『雨に啼く』か」
 私の横顔を見て「ちょっと態度が軟化してきたかな」とでも思ったか、新田さんはとんでもない提案をした。
「大畑君。いちど河原田先生のお宅に伺って、話を聞かせてもらうというのはどうだい?」
「なんですって? いくらなんでも……」
「いや、彼もずっと、ご自身の絵を見てきた人に対しては『誤解を解きたい』『いきさつ、内情を知ってもらいたい』といった思いを抱えたままにしているんだろうし。そういう話をすることで心の重荷が軽くなって、もっとお元気になられるのではないか。って、僕自身考えていたものだからさ」
「話し相手というのは、誰でもいいんですか?」
「『絵を見てきた人』といったじゃないか、近しい存在でないほうが逆にいいのかも、と思うほどだ。家族ならいざ知らず、例えば僕のような仲間に話しても、ご本人にとっては『ごとを述べただけ』という感じになってしまってさほど効果はないんじゃないのかな」
「うーん」
 かつて人気画家として鳴らした人物の家の敷居をまたぐ。そして話を聞く。いくら新田さんの橋渡しがあるといっても、本当に私などが気軽に訪ねてもいいのだろうか。
 新田さんは「ご本人の都合や体調と相談、ということにはなるけど、元々は気さくな方だったんだ」などと言っているが、あんな姿を見せられたら、いきなりの訪問など叶いっこないと思えてしまう。きっと断られるだろう、むしろ断られたら私はほっとしてしまうだろう。
 しかも私は、その人物に対して「裏切られた」といってもいいほどの感情を長年抱き続けてきた。仮に彼の家に訪れて諸々聞かせてもらったとして、どちらか、あるいは双方の感情が表に出てきてしまったら。そんな懸念もある。
 いろいろと思案するばかりだが、そうこうしているうちに河原田が展示室から出てきてしまった。新田さんはすぐに河原田にその旨を話した、すると彼は即答した。
「構わないよ」
 本当にいいんですか、と確認する間も与えられず、新田さんは我が店の定休日を訊ねてきたが「ああ、水曜日だったね」と思い出し、2週後の水曜日に私が河原田邸を訪れると勝手に決めてしまった。招き入れるほうは「療養中のようなものだから、いつ来てもらっても在宅している」という。
「あの。当日、新田さんは……」
「行けないにきまってるじゃないか。平日だもの」
 河原田のほうは「来てもいい」と言っただけで、その顔色から本心をはかることはできない。でも帰り際に「気兼ねせずに来ておくれよ」と声をかけてくれた。
 本人がそう言ってくれたのだから訪問してもいい、だから私だって気兼ねせず、というか気兼ねという気持ちを捨てなければいけない。ということなのだろうが、どうしても踏ん切りがつかない。
 河原田が帰ったのは夕刻近い時間で、それから間もなく閉館し展覧会の全日程が終了した。少し前から三々五々集まっていた仲間らとともに撤収作業に入ったが、どうにも落ち着かない気持ちのままで作業を進め、退館後の打ち上げでも会話に参加するのが億劫だった。新田さんが例の件を口に出さなければいいがとひやひやしてもいた、中にはひがみ・・・根性が強い者もやはりいて、私が元人気画家の家を訪ねることになったといえばちょっと面倒くさいことになってしまうから。
 でも言葉少なに飲んでいるうちに、戦争画の世界の真ん中にいた人間の話を聞くことでようやく例の件の答えを出せる、描く者として前進するきっかけにもなる、かもしれない。そう思えるようになった。
 同時に、心のどこかに河原田個人に対しての好奇心がわいてきた、ような気もした。でもこういう視点で人をみるのはあまりいいことではない(幸か不幸か小心者だから、好奇心むき出しで人から話を聞き出すなんて芸当はできないが)。そんな感情があると先方にばれてしまったらその瞬間に心を閉ざされてしまって、本当に聞き出しておくべきことを知る機会が奪われてしまう。
 そうか。彼に対して「本当に聞き出しておくべきこと」がある。そう気づいた。
 とりあえず、行ってみるか。はっきりとそう思えた。直後に宴席を見渡してみたら、仲間たちはいつもどおり、作品とちょっとしたエピソードの間を行ったり来たりしつつ、和やかに酒を酌み交わしていた。
 
 とはいえ。あれは酒のせいで気が大きくなっていただけなのかもしれない、本屋の帳場に座っていたら日常とともに、普段の私らしい「委縮」という気持ちまで戻ってきてしまった。
 やはり、私ごときがあの河原田真暁改め雨啼の家に行くなんて大それたことはできない、と思ってしまう。酔った頭で考えた「本当に聞き出しておくべきこと」は素面しらふに戻ってもやはり興味があるが、それを聞き出すためには本人の自宅に赴かなければいけない。億劫どころでは済まないが、私は彼の家の敷居をまたがなければ知りえないことこそを知りたいと思っているのだ、それだけはたしかだ。
 誰か発破をかけてくれる人、あるいはせめて私の戸惑いを共有してくれる人がいれば、と思った。とりあえず父に「そんなことがあって」と伝えてみた。
「いい機会じゃないか。行ってくればいい」
「なんだか軽いなあ」
「お前が小さい頃に憧れていた人じゃないか。戦中にどんな気持ちで見ていたのかは知らないけどさ、いま大人になって、その人とどんな話ができるのか。父さんなら、ふたつ返事でさんじるけどな」
「勇気が必要なんだよな」
「勇気というのはお前自身がなんとか振り絞るしかないだろう、父さんに頼るもんじゃないよ。いい大人が言うことじゃないな。
 お前は怪我をして以来しゅんとして、すっかりこもりがちになっちゃってたけどさ。そんなお前を元気にしてくれた、しょげ返っていた我が子が前向きに頑張ってる顔を私に見せてくれた恩人みたいなものだ、河原田真暁っていう人は。ま、父さんにとっては、だけどな」
「俺にとっても恩人だけど、その後の感情が複雑すぎて。
 思い出したよ、父さんが初めて『絵の展覧会にでも行ってみるか』って行った時はびっくりした。筋金入りの渋ちんだったのに、って当時の俺が思ったんだ。その後も、何度も連れてってくれたじゃないか。
 やっぱりその時も、俺が喜んでるのが嬉しかったのか?」
「ああ、お前が言うとおり渋ちんだったけど、帰ってくればお前がまた『頑張ろう』って描き始めるじゃないか。これは惜しくない、って思ってたよ」
「商売が大好きで『跡を継げ』ってうるさかったのに、ある時から『跡を継げ。でも絵は続けてもいい』って」
「子どもの頃は、それこそ前向きな姿見たさに続けさせていたようなものだけどな。でも絵が、ちゃんとお前を育ててくれていた。芸校に入ってからいい仲間がたくさん見つかって、肝心の絵のほうも『ものになるかな』なんて出来になってきた。
 それがお前の姿だ、お前の道というものだ、と思えたんだな」
 意外にもいい話ができたものだ、と思ったが、そこで立ち止まってしまった感もある。父は「絵の仲間に話してみればいい。発ちゃんに発破をかけてもらうのが一番だ」と言った。
 話したくなったら電話で、という時代でもない。私はその夜、「たまにはいいか」とばかり深川に出向いてみた。平澤君はまだバラック暮らしで、身重の富枝に面倒をかけてもいけない。「聞いてほしい話があるんだ。ちょっと発ちゃんを借りるよ」と、すぐそこの屋台に連れ出した。
 平澤君に河原田の話をすると「羨ましいなんてもんじゃない。とにかく会ってみるべきだ」と言った。「あの人は絵描きの日本代表みたいなもんだったんだ。旅をしていたのだって向こうの国の文化を知るためだけじゃない、こっちの文化を伝えるためにわれて世界を飛び回ってたみたいなもんなんだから」
「その後の話、だよな。どんなことを聞かされるかと思うとちょっと怖い、というのもあるかもしれない」
「軍のお気に入りどころか、かの傀儡かいらい国の皇帝に作品を献上した、って人だもんな。下々しもじもの者には想像もつかない話が飛び出すんじゃないのか、俺はちょっと興味があるな」
「興味あるか? 発ちゃん、再来週の水曜日の予定は……」
「なに言ってるんだ、こっちだって忙しいんだよ。分かるだろう?
 ところで、俺の戦争画、ってどんなものだと思う?」
「え? そんなこと、話して大丈夫なのか」
「大丈夫だよ。
 一時期、俺が神田に行くとお前だとか飯村だとか、『腫れ物に触るような』って調子になっちゃってたじゃないか。俺もさ、気を遣わせてるなあ、って。分かってたんだよ。
 でもな、深川の仲間にもいるんだよ、俺みたいなのが。そういう奴ら同士で集まって、愚痴のこぼし合いみたいな話をしているうちに、な。泣いたし怒ったし、最後にはなぜか『軍歌じゃない歌を歌おう』なんて、昔の流行歌を大合唱したりさ。『ラッパと娘』がらしには一番効くんだよ、ははは。
 そうやってるうちになんとなく復調して、今に至る、ってとこだ。
『女房子どもの前ではこんな話できないよなあ』ってみんな言うよな、泣かせたくないというか、こっちの泣き顔を見られたくないというか」
 喜久雄君が大きくなったら聞いてもらえばいい、きっと受け止めてくれるよ。発ちゃんがうなされているのを見て「お父ちゃん、よっぽど辛かったんだなあ」って言ったんだもの。そう声をかけてやりたくなった。しかし平澤君本人が「女房子どもには話せない」と言っているところをみると、彼自身が夜ごとうなされていたこと自体知らない、のかもしれない。
「それで、ええと。俺の戦争画の話だったな。
 俺が描いたとしたら、それこそ『悲惨』の一言になるだろうな。描いて誰かに見てもらえばいいのかもしれないけど、そんなのが描けるほど肝の据わった人間でもないし、『悪趣味だ』『このご時世に』って怒られるのが関の山だ。それ以前に思い出したくもないけどな、描くなんていったら荒療治あらりょうじどころじゃ済まない、また復員したての頃に戻っちゃうだろう、って。
 でも、描くとしたらそういうものを描くだろう。そんな気がしてるんだよな。そういうのもあって、金輪際描かないとはいわないけどとりあえず絵は見る専門にしよう、って決めてるんだ」
「そうか。発ちゃんの『戦場の実録』のこと、聞かせてもらってよかったよ」
「話を戻すか。例の人のところに、ひとりで行けそうか? 腹はきまったのか?」
「え? うん。えーと」
「まだちょっと、ってところか。
 そうだな。陽子ちゃんにつき添ってもらうか?」
「は?」
 そんな名前が出てくるとは思わなかった。彼女も展覧会に来てくれたりはするが、神田にはあまり来なくなった。百貨店の仕事が順調なのかもしれないし、そのうち婚約者でも連れて顔を出すんじゃないか、と思っていたほどだ。
「あの子がいる百貨店、ちょうど通り道の途中にあるから。こんど言っておくよ」
「ん。えーと」

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