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どちらかというと控えめで目立たない人たちとの交流
どちらかというと組織の中ではあまり目立たず少し控えめで、
どちらかというとあまりコミュニティの中心にいることはなく、
時には少しみんなから距離を置かれている人たちのことが、
昔から気になって仕方がなかった。
そうして気にしていると、なぜか彼らから頼られたり話しかけられたり
したことが幾度となくあった。
最近、私の事業用のFacebookに以前勤めていた会社の社員だった何人かからアクセスがあった。
『○○さんがあなたのページに「いいね!」しました』
「○○さんて、あの時の○○さんかな?」
そう気づくと、せっかちな私は少しためらいながらも○○さんに折り返しのアクセスを試みることにしている。
『Kさん、お久しぶり。お元気そうで何よりです』
『Sさん、Facebookチェックしてくれてありがとう』
Kさんは私が昨年まで社長を務めていた会社の地方営業所の女性社員
だった。
とても優秀な社員でお客様の評判もよかったし、先頭に立ってリーダー役を務めるタイプではなかったがチームの重要な存在だった。
だが、少し事情があって2年前くらいに退職していた。
400人の社員の中の一人の女性社員ではあったが、印象深く覚えていた
のでメッセンジャーで送ってみたところ、すぐに返してくれた。
新しい仕事を自身で始めていること、地元から東京に引っ越してきている
こと、そして間もなく結婚することなど、とても元気そうで明るいメッセージが返ってきた。
よかったよかった。
Sさんは、それ以前の2016年まで私が勤めていた会社の部下だった
営業マン。
当時は常務として営業本部長だった私には300人くらいの部下がいたが、彼はユニークな存在として私の記憶に残っていた。
6年ぶりの私からの突然のメッセージにとても驚いていたようだったが、
彼からのレスは早かった。
今もその会社で働いていて、3月には新しい異動があるので心機一転頑張ります、ということだった。
二人とも、当時の社長や常務だった私から直接メッセージが届いたことに
とても驚き、そして喜んでいてくれたようだったが、私は今では個人で
小さなビジネスを営み、何ら大きな組織のバックボーを持つものでもなく
肩書などはない一人の人間であり、こうした交流をとてもうれしく感じて
いる。
そして二人とも、私の印象には強く残っているが組織の中では決して
「中心人物」的な存在ではなく、どちらかといえば脇役的な存在だった
かもしれない。
そんな彼らだがとても鮮明に覚えている。
そういえば、もう15年も前になるだろうか、会社にMさんという女性社員がいて結婚式に招かれたことがある。
彼女は営業担当として新卒採用され現場に配属になったのだが、営業社員
としてはすこし線が細く、そしてすこし内向的なところもあって、ほどなく別の部署に異動になった。
しかしそこでも、チームにあまりなじめずにだんだんと孤立していったように覚えている。
私はあまり深くかかわりを持ったことがなく、ほんの数回短い会話をした
だけだったが、確かに少しエキセントリックな雰囲気を持っていて、そんな
彼女の個性が私は嫌いではなかった。
そのMさんがある日、当時直属の上司でもなかった私に相談したいことが
あると言って連絡を寄越してきたので、会って話しを聞いたことがある。
確か私はその当時、広報企画室の室長という立場で本来は組織の枠組みを
超えて別の部署の社員から個別の相談を持ち掛けられても、直接の対応を
すべきではなかったのかもしれないが、何となく彼女がいつも周囲から
遠ざけられ孤立しているようで気になってもいたし、きっと相談相手が
いないのだろうと思って彼女の話しを聞くことにしたのだと思う。
相談の内容は今となってははっきりとは覚えていないが、ただ一つ覚えて
いるのは、その場で彼女が泣き出してしまったことだった。
周囲から正当に認められていない、誰からも遠ざけられている、そんな内容だったと思う。
彼女が何故、相談相手に私を選んだのかはわからない。
ただ、私は仲間外れにされていたり、あまり仲の良いグループを持たずに
孤立して(本人にとってはそれが心地よい場合もあるが)いるように見える人を見ると、どうしても気になって心が落ち着かずに、つい声をかけたり
する性格なので、自分では覚えていないがいつかどこかで彼女にも声をかけていたのかもしれない。
彼女の結婚披露宴には個性的な親友が集まっていて、かつ良家のお嬢様を
連想させるようなご両親やご親族の穏やかでほのぼのとしたテーブルを確認し、会社では見せたことのない笑顔の彼女に、とても明るい気持ちにさせられたことを覚えている。
会社からは私を含め招待されたのは3人だった。
私は精一杯の来賓の祝辞を心を込めて述べた。
さらに昔にこんなことがあった。
もう40年も前のことだ。
高校3年生の時に同じクラスになったO君は陸上部のランナーで、小柄だったが無駄な贅肉の全くない筋肉質の男だった。
クラスの中では目立たないタイプのとてもまじめな男で、ちゃらんぽらんな私とは特に交流もなく、たまに話をしたのだろうけれどもそれすら覚えていない、そんな程度の間柄だった。
ある日、3年生全員が担任の教師と進路相談の面談をするという時間が
あった。
私の順番のすぐ前がO君で、彼の面談が予定よりもかなり長引いていたので私は体育教官室の(担任は体育担当だった)少し離れた場所においてある
椅子に腰かけて、彼の面談が終わるのを待っていた。
話しの内容は全く聞こえてこなかったが、二人の表情からは決して楽しそうな会話ではないのだろうということは、何となく想像できた。
ようやく彼の面談が終わって私の番になったとき、戻ってきた彼にすれ違いざまに
「どうした?」
と聞くと、彼がこう言ったのを今でもはっきりと覚えている。
「右手がうまく上がらないんだ。」
進路の相談ではなかったのか。
右手が上がらないって、どういうことだろう。
その疑問を抱いたまま面談の席に着いた私は思い切って担任教師に聞いて
みた。
すると、どうも脳に腫瘍があるらしく、その影響で右手がうまく動かせないようなので受験せずに入院して治療にあたることになっているという話し
だった。
あんなに運動神経が抜群でがっちりとした筋肉質の彼が受験できずに入院
するって、それってずいぶんとつらい話だなあと気持ちが重くなったことを覚えている。
O君はやはり脳腫瘍だったらしく、その面談後ほどなく入院し手術して、
卒業式には戻ってきてみんなと一緒に卒業したが、受験の機会はその年は
逸してしまっていた。
彼とはそれっきりになった。
私は新しい学生生活が始まり、O君のことはすっかり頭から忘れてしまっていた。
そんなある日、家の電話が鳴って母親が出ると、それはO君からの電話
だった。
私には高校時代の友人が何人もいて、頻繁に自宅に呼んでは夜遅くまで話し込んだりトランプをしたりして遊んでいたので、家族は私の友人の名をよく知っていたのだが、母は普段聞いたことのないO君の名前を私に告げると
怪訝そうに受話器を差し出した。
私も驚いた。
O君とは確かに高校3年の時に同じクラスだったけど、そんなに親しく話し
込んだこともなかったし、まして電話を掛け合う仲じゃなかった。
そのO君から私に電話がかかってきた。
何事だろうと少し訝りながら受話器を受け取ると、その電話は北陸にある
病院の公衆電話からだった。
その内容はこうだった。
彼は卒業後、一旦は普通の生活に戻ったのだが、間もなくして再発し再手術を余儀なくされた。
その手術はどういう理由かは覚えていないが、自宅近くの関東の病院では
なく、誰一人身寄りのいない遠い北陸の病院で行われ、現在術後の入院中
だということだった。
彼は自分の現時点での病状や病院生活、誰も話し相手がいない寂しさなどを一方的に話していた。
私は彼の話を聞ききながら、薄暗い病院の廊下に設置されている公衆電話から電話してきている姿を思い浮かべ、心が重くなり、励ましとできる限りの癒しの言葉を伝えて電話を切った。
何故それほど深い付き合いの親友でもなかった私に、単なるクラスメートの一人だった私に、遠い北陸から電話してきたのだろう。
それはとても不思議な思いだった。
彼からの電話はその後も続いた。
電話はいつも我が家の夕食時にかかってきた。
母は私からO君の話を聞いてからは、まるで自分の子供が電話をかけてきているかのような表情と仕草で私に受話器を渡すようになった。
彼の話しは徐々に悲痛になっていった。
再手術後、身体的な機能がかなり低下し自力歩行ができず車椅子を使用している、特に両手には力が入らず握力がほぼない状態なので、食事の時は太いグリップのスプーンを使っている、公衆電話にコインを投入することもままならないので通りかかる看護婦や見知らぬ入院患者に声をかけて投入してもらっている、など。
私はただ聞いていることしかできず、ありふれた慰めの言葉など出てこなくなっていた。
「そうなんだ、それは大変だね、そうか」と、そんな相槌なのか返事なのかわからないリアクションしかできなくなっていた。
北陸から東京への電話は、あっという間に100円硬貨が落ちてしまい、しばしば会話は途中で突然途切れることになった。
そんなことがしばらく続き、最後に電話があったのは千葉県内の病院から
だった。
地元の病院に転院してきたんだという、その声はかなり苦しそうだった。
ほどなくして友人を誘ってお見舞いに行ったのだが、その時は彼の妹さんが気道からチューブを使って痰を取り除いているところだった。
その時の彼の苦しそうな姿が、40年以上たった今でもはっきりと目に焼き
付いている。
彼を見たのはそれが最後だった。
その数週間後に亡くなったと、担任だった体育教師から聞いた。
家族は担任以外には連絡せず、葬儀もごくわずかの身内だけで行われたようだった。
今でも不思議なこと、なぜそれほど親しくもなく、あまり話したことも
なかったのに、彼は北陸の病院の公衆電話からわざわざ私のところに電話
をしてきたのだろう。
私と話すことによって何を手に入れようとしていたのだろう。
組織の中の中心人物、みんなの人気者、いつも日の当たる舞台にいる
ヒーローたちとは、少し距離を置いてしまう自分がいる。
弱い人、少し虐げられている人、あまり仲間がいない人、表舞台には立て
ないけどしっかりとした軸を持っている人、メジャーにはなれないけれど
個性的な人、そんな人たちから私はどう見られているのだろうと考えることがある。
私も弱い人間だ。