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短編小説「わざとじゃない」

「お母さん、ごめんなさい、花瓶が. . . 」
「怪我はなかった?大丈夫?」
「本当にごめんなさい。」
「わざとじゃないもんね。祐汰が無事で良かった。」


母は、故意じゃなければ怒らない人でした。というか、故意でもほぼ怒られません。僕もずっと、母のような寛大で立派な人間のつもりでしたが、弟の奏汰の事は嫌いでした。

例えば小学5年生の頃――奏汰はその時2年生でした――、母の作った味噌汁を、奏汰がこぼしたんです。母は、奏汰に味噌汁がかかっていないか心配していました。奏汰は黙って下を向いていました。なんで奏汰は謝らないんだろうと疑問に思ったので、聞いてみたんです。

「奏汰、なんで謝らないの?ママの作った味噌汁こぼしちゃってごめんなさいでしょ?」
そういう時、奏汰はこう答えるんです。
「だって、わざとじゃないし。」

他には、そうですね、奏汰は何回も学校でやんちゃをして、その度に母が先生や相手の親御さんに電話で謝っていました。
学校から帰ってきた奏汰の言い分はいつも、自分には非がないと訴えるために下校中に練り上げたような荒唐無稽な話で、聞いてて腹が立ちました。

女手一つで僕と奏汰を育ててくれた母には感謝しかありません。ですが奏汰に対しては、愛情とか仲間意識とか、所謂家族が持って当然の感情は一つもなく、むしろ嫌悪感が強かったです。
自分で言うのもなんですけど、僕には母の優しさが反映されてるんです。ですが母のあの優しさは、裏を返せば甘さなんです。奏汰にはその甘さが悪く反映されたんだと思います。

ごめんなさい、変な話をして。刑事さんが知りたいのは今日のことですよね。僕は今日、久しぶりに家に帰りました。奏汰に会うのは嫌でしたが、それ以上に母に会いたかったんです。母は元気そうでした。僕が家についた時、奏汰はソファーで寝転がっていましたが、挨拶も何も有りませんでした。母や奏汰に会うのは、今僕は19なんで3年ぶりでした。

母と話すのは本当に楽しかったです。笑顔で話を聞いてくれて、僕の事を全く否定しません。楽しくて楽しくて、僕は戻りたくありませんでした。でも戻らないと駄目ですもんね。戻りたくないけど、ずっと家に居たいけど、駄目なんですよね。
少年刑務所は嫌いです。面白くないんです。でも、毎日日記を書いて、いつか母が読んでくれると信じたら、母と話しているような感覚になって、そしたらなんとか耐えられたんです。
毎日毎日、明日もしかしたら母が来るかもって、ベッドで言い聞かせてました。でもいつまで経っても来なくて、気付いたら3年経ってました。

だから僕、久しぶりに会う母に聞いてみたんです。「なんで一回も会いに来てくれなかったの?」って。そしたら、行きたいけど行けないみたいな、なんだかよくわからないことを言ってました。その時ですよ、あいつが入ってきたのは。隣の家の田口さんです。あのおばさんが勝手に入ってきたんです。

「なんだ、あなたか」とがっかりした顔で言われました。田口さんは昔から母のことを悪く言っていたので、僕は嫌いでした。インターホンも押さず、ノックもなしに入ってきた田口さんに危険を感じた僕は、母を守る思いで田口さんに殴りかかりました。殴り続けました。それはなぜか、あまり懐かしくない感触でした。後悔はしていません。

「君は、自分がなぜ少年刑務所に入ったのかわかるか?」

僕が異常だからだと思います。僕は何もしてないのに、誰かが異常だと決めつけました。

「やはり、完全に忘れているな。自分で記憶を消したのだろう。母も弟も、もういない。目を覚ませ。」

. . . 何を言っているんですか?

「寝ている母の頭に君が花瓶を落としてしまい、母がそれにより亡くなったのが高校2年生のときだ。絶望と、どこにぶつけていいかわからない怒りに襲われた君は、その時ソファーにいた奏汰くんにそれらの感情をぶつけたのだ。君は弟を殴り殺した。」

. . . やめてください。

「そして昨夜少年刑務所から脱走した君は、今朝家に辿り着き、幻覚を楽しんだ。誰も居ないはずの家から声が聞こえるのを不思議に思い、様子を見に来た田口さんをも殴り殺した。」

刑事さん、頭が痛いです。

「わざとやったわけじゃない君を、君の母はきっと許すのだろう。だが君は他に、罪のない人間を殺したんだ。少年だとか、病気だとかの理由でクソみたいに罪が軽くなるのがこの国だが、私からしたらどんな理由があろうと罪のない人間を殺す人間はクズだ。反吐が出るほど君が嫌いだ。」

. . . 田口さんが、罪のない人間。

「今日は少年刑務所じゃなくここで過ごしてもらう。」

. . . たまに、思い出すんです。少年刑務所で日記を書く時、この記憶を思い出してしまい、泣いて、泣いて、朝になると僕の頭からさっぱり消えてるんです。今、刑事さんのせいでハッキリ思い出しました。母は死ぬ直前、僕に「わざとじゃないもんね」と泣いていました。赤く染まる母の顔は優しい表情をしていました。

「君の母親は事故死だが、弟や田口さんは君が殺したんだ。」

違いますよ。

「違くない!君が殺した田口さんには夫がいるんだ。その夫さんが今どれだけ悲しんでると思ってる?可愛そうな少年だから仕方ないのかもしれないと、憎いはずの君を許そうとしている夫さんの気持ちを考えてみろ!!」

違うのは弟と田口さんを僕が殺したという点ではなく、母が事故死だという点です。

「. . . 何を言ってる?」

小学校5年生の頃、母が父のことを話してくれました。僕が生まれた後、父は浮気した挙げ句、奏汰を身ごもった母と僕を捨てました。たった一本の花を申し訳程度に玄関に置いて、どこかに旅立った父の顔は写真でしか見たことがありません。母はそれを花瓶に入れ、寝室に置き、毎晩それを眺めてはどこかにいる父のことを想っている様でした。少ない給料では僕たちのご飯が限界で、母はろくにご飯を食べておらず、ずっと元気なその花とは対照的に、母は衰弱していきました。
父の浮気相手は田口さんです。田口さんは、父がどこかへ行ってしまったのを母のせいだと思ったのか、母のことを悪く言うようになりました。母は、田口さんが父の浮気相手と知りながらも、言い返すことはしませんでした。その精神的ストレスもあってか、母は更に衰弱していきました。

母は心の広い人間です。相手の気持ちを最大限に考え、少しでも自分に非があると思ったなら相手を責めることはしません。やられっぱなしでも笑顔を取り繕う母に、なんというか、もどかしさが変貌したような、奏汰への感情とはまた違うタイプの怒りを覚えはじめました。

高2の夜、心配だったので寝室に母を見に行きました。ぐっすりと眠る母と、目障りな程綺麗な花が目に入りました。こんな花があるから母は父を忘れられないんです。だから、隠すことにしました。花瓶を持ち部屋から出ようとした時、花瓶を床に落としてしまいました。花瓶は割れず、花や水が散らばりました。その音で起きた母は、床に落ちた花瓶を見た途端、声を荒げました。

「なんてことをしてるの!!」

わざとじゃないのに、怒られました。というか、怒られたのが初めてでした。上半身だけ起こした母は、怒りで体を震わせながら、こちらを睨んでいました。
気付いた時には、僕は花瓶で母を殴っていました。鈍い音と、花瓶の割れる音が入り混じった嫌な音が響きました。破片が突き刺さり、血で染まる母の顔を見て僕は我を取り戻しました。
「お母さん、ごめんなさい、花瓶が. . . 」
すると母は、にこやかな表情で言いました。
「怪我はなかった?大丈夫?」
それは声を荒げたさっきの母ではなく、いつもの優しい母でした。
「本当にごめんなさい。」
「わざとじゃないもんね。祐汰が無事で良かった。」
衰弱した母の命を奪うには、たった一度花瓶で殴るだけで充分でした。

わざとじゃない。わざとじゃないと、言い聞かせました。母を殴ったときの音で起きたのでしょうか、奏汰が寝室に来ました。奏汰は母を見るなり泣き崩れ、お母さん、お母さんと、叫び続けました。
僕はその姿を見て、心底腹が立ちました。日々体の弱っていく母に感謝もせず、母を困らせては謝りもしないのに、いざ母が死んだら格好だけ悲しむその身勝手さは、殺す動機としては充分でした。
母が悲しむだろうから、母の前で殺すのは嫌でした。僕は奏汰をリビングへ移動させ、落ち着くからと言ってソファーに座らせました。弟を殴り殺すのに抵抗はありませんでした。

僕は奏汰と違って、ちゃんと謝れる人間です。ごめんなさいと言いながら、寝室の床の水を拭き取りました。そして母に花を添えました。

その後自分で呼んだ警察には、母に言われたとおり、「わざとじゃないんです。」と言いました。
でも実は、違ったんです。ごめんなさい。僕はわざと殺しました。母も、弟も、田口さんも、わざと殺しました。ごめんなさい。ごめんなさい。ごめんなさい. . . 


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