子どもは持たないと思う
noteには何度か書いているけれど、わたしは子どもを持たないつもりだ。たぶん結婚もしないけれど、これに関してはしないつもりというほどでもないかもしれない。
幼少期は大人になったら結婚して子どもを産むのが当たり前だと思っていた。けれど、両親の関係はとても悪かった。だから結婚なんてしたくないとも思った。ローティーンにありがちな安直な考えで、子どもたちと自分で暮らしたらいいと考えていた。
それから少しは恋愛というものをして、寂しさを感じたりもして、結婚して子どもが欲しいなあと思ったこともあった。しかし、本当に欲しいものは自分を大事にしてくれる誰かだった。結婚相手は、とりあえずお互い唯一無二の存在と定義されて大切にしたりされたりすることになっている。子どもを産むにあたってはその相手からとても優しくされるかもしれない。子育てを頑張ればちやほやされるかもしれない。子どもは満足感を与えてくれるかもしれない。
そんな欲望に気がついたところで、自分には親になる資格などないのだと思った。いや、その前に、やはり不仲な両親や自分が受けた精神的虐待のことを思いだして、子どもを持つことは倫理的に良くないのではないかと思った。
幼少期の経験のせいか、その後の学校生活のストレスか分からないが、うつ病になった。そのことを母親には話し、子どもの頃の辛かった記憶についても少し話した。母親は理解を示してくれたものの、わたしより自分のことが大事なようにも見えた。父親のモラハラが酷かったとき、死のうかと考えていたと言われた。それを聞いて、わたしはそんな人間のもとに生まれて育ってきたのかと思った。この世には死にたくなるような辛い出来事があると考えていながらも、子どもであったわたしに対して何もしてくれなかった。それがショックで、ならやはり死ぬのが最適解だと思った。だから自殺を図った。
結果的にまだ生きているわけだけれど、それで子どもを持つってどういうことなのだろうと余計考えるようになった。子どもが「欲しい」、まるで物のように。生きていて人権もある人間を欲しいと言うのは恐ろしいことのように思えた。
子どもを持つことに倫理的な正当性があると、今のところは思えない。子どもは同意なく生まれてくるし、どんなことが起こるかは全く予測不可能だ。もちろん現状に基づいた予想はできるけれど100%なんてありえない。もしも子どもが生まれてこなければ良かった、死にたいと思った時にどう責任を取るのか。責任を取る方法はない。
もちろん、生まれてきて良かった、産んでくれてありがとうと思う人だってたくさんいるし、子どももそう思うかもしれない。けれどそうでないかもしれない。その賭けをする必要性も、その賭けの正当性も分からない。人類社会を存続させるため?そのためにいくらかの人間が苦痛を感じながら生きていても良い、とは思えない。
人生が薔薇色、とまではいかなくても、辛いことより幸せなことの方が多かったり、必ずこの先は良くなると信じられるような人生を送ってきた人が子どもを持つ、欲しいと思うのは何となく分かる。彼ら彼女らは不幸になるとか死にたいと思うという可能性を想像出来ないだろう。わからないものを無理に分かれと言ってはいそうですねとなる話ではない。だから他の人が子どもを欲しいと言うことに対して、共感はできないけれど理解はできる。でももし子どもが自分の思い通りの子どもじゃなかったり、そのほかの要因で困難に陥ったらどうするつもりなんだろうとは思う。わたしの母親みたいになるのかな。
SNSでは、反出生主義の考えを広めている人たちを見る。わたしがそれをしないのは、自分に対してこの考えを適用できるとは思うが他人に対しては確証が持てないというのが理由だ。それに、子どもが欲しいと考えている人に反出生主義のことを伝えてもあんまり理解されない。考えを変える人はごく僅かだと思う。
わたしの幼少期は主観的には幸せではなかった。大人になってからは精神疾患で苦しい。人生はそこまで良いものと思えない。そんな人間が子どもを持つ。子どもになんと説明したら良いだろう?お母さんは死にたいけれどあなたは幸せになってねとでも言うのだろうか。あまりにも無責任だ。大して良いとも思っていないものを、それを拒否することもできない人間に押し付けようとは思えない。
反対に、人生は良いものだと感じて、それを心の底から信じている人なら、子どももそう考えるように育てられる可能性があるのかなと思う。100%じゃない、もちろん。でも、障害があっても自分を肯定できたり、貧困になっても福祉の力を借り自立まで辿り着けたり、一般的に不幸とされる状態でも人生は良いものだと思うようになる、かもしれない。
だから自分は人生が苦しいから子どもを持たないのはいいとして、人生幸せだ、という人が子どもを持つことに対して何かを強く言うことが出来ない。全部かもしれない、だけれど、幸せになれるかもしれないから。
ということは、反対に、人生辛いのに子どもを欲しいと思う人については一旦止めたいと思う。そういう人と対話するような距離にいたことがないので止めようとした経験はないけれど。たぶんSNSで見かけた人に対しては何も言わないかな。見て見ぬ振りで卑怯かもしれないけれど、SNSですれ違っただけの人の考えを変えられるとは思わないのだ。それに大抵のひとはもう子どもを持ってしまっているので意味がない。
Twitterなんかで反出生主義のアカウントを動かしたり、それに関する呟きをしようとも思えない。Twitterの140字では他者に何も伝わらないということは痛いほど分かったから。それに、目立つ反出生主義のアカウントの人は言葉遣いが荒いことが多い。やめろとか良くないという権利はわたしにないと思うけれど、わたしの心が痛いので見たくないという自由はある。交流もあまりしたくないのである。そのへんが人生苦しい理由のひとつかもしれないけれど。
反出生主義の考えに賛同できるけれど、その主義を掲げるタイプの人間ではない、といったところだろうか。かなり卑怯な人間かもしれない。妥協点まみれ、というか。
完全に反出生主義の理想が達成されるとは考えにくい。少なくとも数百年くらいはそうだろう。それなら、消極的な対策だけれど、生まれてくる人たち、いま生きている人たちが少しでも楽に暮らせるように何かできたら良いなと思う。