わたしは誰ですか?
ここに書いたことにさらに色々考えたのでメモ程度に書いておきます。
わたしが自分の使ういい感じの外面に違和感を覚えるのは、この記事に書いたことだけが理由ではないんじゃないか、と思った。
泣きながら家を出て、電車の中でも涙目だったのに、教室に入った瞬間笑顔でおはようと言う。昨晩はリスカして今も腕は絆創膏だらけなのに、素知らぬ顔して談笑する。そこまでは、程度によるけれど誰だって経験のあることだろう。しかしわたしの場合、それは意識して行なっていることではない。本当に無意識に、何の躊躇いも葛藤も、なんなら気付きさえもなくそうしているのだ。そしてさっきまで泣いていた気持ちなんてすっかり忘れて楽しくおしゃべりするし、マジ無理リスカしよ、っていうあのネタを言われても一緒に笑っている。
けれどひとりになったらまた泣いていたことを思い出して、腕が傷まみれなことを思い出す。さっきまで楽しくしゃべっていた自分は誰なんだろう?
もちろんきちんと記憶はあるし、自分が考えて話したり行動したりしているつもりなのだけれど、スイッチが勝手に切り替わったみたいに言動も表情も変わっている。違う性格の人間がやってきたみたいだ。正しくは、自分ではあるけれどさっきまでの自分とは不連続な自分、だろうか。
から元気、とか営業スマイル、という言葉があることから分かるように、どうやら多くの人々は内心と行動が違う場合があるらしい。あー疲れたな、と思いながら大丈夫!と言ったり、心の中でてめえなんて大嫌いだと思いながらお世話になっております、と言えるらしい。
わたしはどうだろう?誰かに気を遣って元気そうに振る舞っているときも、嫌いな人や怖い人と話しているときも、その瞬間は本心から元気だし、相手が楽しそうならわたしも愛想笑いではなく本心から楽しく笑顔でいる。たまに違うことを考えていることがあるけれど、それはほぼ100%「やばい、この人怒らせてないかな?」である。そしてその相手が居なくなった瞬間、あれ、わたしって元気じゃなかったよね?とかあれ、わたしってあの人苦手だったよね?と思う。
親の前でも同じように振る舞っているから、お母さんも本当に調子が悪いときのわたしを見たことがない。父親は娘と仲良しだと信じ込んでいるはずだ。そして実際、わたしもお母さんの前では元気で、お父さんの前では仲良しな娘だと本心から思っているのだ。
そんな自分が気持ち悪い。その不連続性に何度も傷ついてきた。「もっと本音を言って良いんだよ」というのは、「取り繕ってない自分を見せて」という意味だろうけれど、誰かの目の前では取り繕っている自分なんてどこにも居ない。だから本音を言ったことなんてないと感じる。
じゃあ本当のわたしってどこにいるの?
文章を書いているときが、頭の中で考え事をしているときが本当のわたしだと思う。それは前の記事にも書いた。多くの人ってもしかして、その「本当の自分」を維持したまま、「外向けの自分」「〇〇さん向けの自分」を演じることが出来るの?
記憶にある限り、親にわがままを言ったことがない。物心ついてから自分の感情を主張するために叫んだり泣き喚いたりしたことはほぼないはずだ。「今親はこうして欲しいんだろうな」と察していたのかもしれない。だから相手に合わせて感情を変えるなんて当たり前すぎて、変な技を身につけてしまったのかもしれない。
それに、元気なさそうだね、とか体調悪いの?とか大丈夫?とかもほとんど言われたことがない。これもきっと、自分さえ騙して元気な自分を演じているからなのでは……と仮説を立ててみたのだけれど、実際はどうなのだろう。
他の人が何を考えているのか気になるのは、にんげんが怖いというのもあるけれど、どうやら自分はどちらかというと異端者らしいぞと思っているからなのもある。厨二病が治ってないだけならそのほうがマシだ。本当に周りと違っていたら、この先どうやって生きていったらいいのかより分からなくなってしまうから。