求めよ、さらば与えられん
いま、精神疾患を理由に、学校に配慮を貰えるよう申請している。どうやら法律に基づいたしっかりしたもののようだ。何度も繰り返し心理士のひととお話しして、色んなことを確かめて、必要な配慮を貰う。病気があるひと、ないひと、障害があるひと、ないひと、その差を出来るだけ埋めるための大事なルールで、人権というもののひとつの形だと思う。
けれど、その配慮を手にするのは恐ろしいほど大変だ。初めて会う心理士さんに自分の病気や苦手なこと、トラウマについて話す。僕は何度か話しているからそれなりに慣れてぺらぺらと話すけれど、それでも心のどこかは痛む。思い出したくない、触れられたくない傷だから。
それを何度も繰り返して、ようやくあと一歩のところまで漕ぎ着けた。その間にも日程調整、書類の提出、やらなければいけないことは沢山あった。それに、最後の一歩がきっと山場だ。相手は心理士さんではなくて、精神疾患やトラウマの知識のないひとだから。もしかしたら傷つけられるかもしれない。
それでも、たぶん、「助けて」と言って手にした配慮は無駄にはならない、と思う。そう信じるしかない。
こんな大変な道のりだから、スタートには立てても途中で脱落するひとはたくさんいるみたいだ。そもそも精神的な障害を抱えていれば、メールをすること、日程調整すること、どこか新しい場所へ行くこと、知らないひとと話すこと、それを繰り返し次への見通しを立てること、少なくともそのどれかは苦手だと思う。だから精神科で診てもらっているのだ。それなのに、普通のひとはやらなくていい沢山の面倒ごとをこなさなくてはならない。そこに大きな矛盾がある。
助けて、とひとこと言えば誰かが全部代行してくれたらいいのに。でも現実にはそうなっていない。人材確保とか、他のひととの平等とか、そういう問題があるのだろう。だから助けて、という言葉だけでは何も変わらない。自分で最後の力を振り絞って動くしかない。役所や担当窓口に行って、書類を書いて、事情を説明して、診断書をもらって、それからそれから。健康なひとだって、こんなの億劫だと思いませんか?
だからたぶん、SNSには沢山の助けてが溢れている。学校行きたくないとか、仕事辞めたいとか、死にたいとか、そんな行き場のない救いを求める声たち。ただ文字にすることしか、それだけの力しか残されてはいない、疲れた声たち。僕らは何も出来ない。ただ無責任な言葉をかける以外に何も出来ない。
求める、というのは、口だけではなく行動せよ、ということだろう。助けてと言ってるだけじゃなくて。なんと残酷なことだろう。助けて欲しいとき、もうそんな力なんて残っていないのに。
そんな馬鹿みたいに矛盾だらけの世界で生きている。そりゃ死にたいくらい言わせてよね。