個人的な「健康で文化的な最低限度の生活」
憲法第25条に定められている、「生存権」に関する文言。
これは国が国民に負う義務であり、日本国民には全てこの権利を持っている。
憲法25条については、生活保護を始めとした沢山の福祉があり、しかしそれが全てうまく行っている訳ではないという現状があり、幾つもの事件や訴訟が起こっている。そのような法律や人権に関することについて、わたしは素人なので、専門家に譲るとして、自分が求める「健康で文化的な最低限度の生活」ってなんだろう?という、ごく個人的なことを考えてみる。
まずは「健康」について、良く引用されるWHOの定義を見てみる。
これ、すごく難しくないですか?「全てが満たされる」なんて言われると、一つも欠けてちゃいけないんだ……無理だよ……と思う。
でもこれは憲章に書かれている言葉なので、「MAXの理想的な状態」と捉えてみようと思う。全員がこうなれたら最高だよね、という、いわばWHOの最終目標。ここがゴールだよ、と言われたら、ひとまず道筋を作ってみることが出来ると思う。
まず「病気でないとか、弱っていないということではなく」という部分。「もちろん病気でない、弱ってないということは当たり前で〜」という意味にも捉えられるが、わたしは「病気でも弱っていても健康はあり得る」と捉えたいと思う。
なぜならわたしは不安障害と鬱病の診断が下りていて、これらの病気は寛解はあっても完治は殆どないからだ。ほぼ一生、これらの病気と付き合っていくことになるだろう。そこで健康の定義の中に「病気でないことは当たり前です」と言われると、ああわたしは一生健康になれないんだ、と諦めたくなってしまう。
もちろん、完治が見込める病気や、今は難病とされている病気に対して、医学やその他の分野で治療の為の努力は必要だと思う。わたしの抱える病気でも。しかし、今のところ治らないです、という病気を持つ場合でも、健康というものに近づきたいと思うのだ。健康な生活を送ることは権利だから。
「肉体的に満たされる」とはどういうことだろうか。飢えがない、痛みがない、基本的な生活動作に支障がない、といったこと、としてみる。
飢えについては、有難いことに親の援助のお陰でその心配はない。もし何らかの事情でそれがなくなっても、奨学金や借金などでどうにかできそうだ。行政に相談するのも手である。だから大丈夫かな、と思える。
痛みに関しても、今のところ慢性的な痛みを感じるようなことは起こっていない。天気が悪い時の頭痛とか、ちょっと怪我をしたとか、その程度だろうか。一時的なものだから、対処のしようがある。昔は自傷行為をしていたけれど、今はしていないから、その点でも大丈夫。
基本的な生活動作、となるとちょっと問題がある。抑うつが酷い日は、ベッドから動けず食事、排泄が限界ということもある。それでも毎日ではない。それと、これに関してはアルプラゾラムという抗不安薬を頓服として飲むと少しマシになることが分かってきた。だから動けない……となった時はどうにか力を振り絞って薬を飲む。どうしても無理なら寝ておく。そんな感じだろうか。
「肉体的に」という点は、少し問題があるものの、薬などのお陰でなんとかやっていけそうだ。自分の中では割と満足である。
将来のことを考えると、適度な運動や栄養バランスの取れた食事が大事になるだろう。今のわたしには少しハードルが高い。なので保留にして、調子が良ければ出来たらいいね、ということにしておく。
次は大きな問題、「精神的に満たされる」である。全然満たされていない感じがする。それを細かく考えてみる。
ひとつは過去の家庭環境の問題。「子ども時代に子どもらしく過ごせなかった」「いわゆるアダルトチルドレン」というのが、自分自身とわたしを見てくださっている心理士さんの認識だ。それを引き摺っていて、満たされていないなあと思うことが多い。解決策のひとつは、心理士さんが提示してくれた「自分の気が済むまで、昔のことを話す」「今得られる精神的な繋がりを大事にする」だと思う。過去は変えられず、今さら親から子どもの頃に欲しかった愛をもらえる訳ではない。だからそれらを重視するのはわたしにとっても納得感がある。
次に、病気である不安障害と鬱病のことだ。これらに対しては薬も出ていて、処方通り服薬している。それでもなかなか寛解までも辿りつかない。薬を調整してもらうのも手だとは思うけれど、上手く言えないけれど、そこが問題ではない気がする。今、少しでも快方に向かう方法としてはセルフケアをいくつか覚えることかな、と感じている。特に不安感は、先ほどの問題と同じく家庭環境の影響が多いと思う。だから少しずつセルフケアの方法を身につけて、「安心感」というものを得られるようになりたい。
「肉体的」の方にも関連するけれど、自分の身の回りを整えることや、趣味をすることも、精神的に満たされるかどうかを大きく左右すると感じる。掃除、洗濯、自炊が出来たら気分がいい。身だしなみを整えるとわくわくする。趣味に没頭していたら悩みを忘れられる。ここで肉体的な健康と精神的な健康は繋がっているんだなと思う。どちらかを良くするきっかけがあれば片方も良くなる。逆にどちらかが上手くいかないと片方も悪くなることもあるだろう。だから上手くいっていないな、というときはどちらか片方の手をつけやすいところからケアをしたい。
最後に、「社会的に満たされる」の部分。これもなかなか難しいと思う。わたしはひとが多いところに行ったり、雑談をしたり、といったことが苦手だ。特に知り合い〜そこそこ友達、というラインの人と一緒に過ごすのが苦しい。上辺の会話が嫌だとか、世間の普通を意識させられるとか、気疲れするとか、そういう理由で。反対に、noteに書き綴っているような、じっくり考えたことについて話すのは好きだ。
あとは、社会的、という点では趣味のことや作ったものをSNSに上げたりすることも社会的な活動なんじゃないかと思う。そこまで反応を求めている訳でもなく、同じ趣味の人と繋がりたい訳でもないけれど、それでも見てくれてるんだなあというゆるい繋がりで社会的な部分が満たされている気がする。
社会貢献、という意味では、今の研究がそれに当たるのかなと勝手に思っている。もちろん「面白い」とか「楽しい」ということも続けている理由なのだけれど、もしかしたらいつか誰かの役に立つのかもなあと思うとそれも社会的なことに当てはまると思う。
わたしはたくさんの人と繋がったりふわふわした会話をするのは苦手だけれど、少しだけでも話を聞いてくれる人がいたり、そっといいねを押してくれる人がいる、それで十分だと思う。
憲法の話に戻り、「文化的な」という部分……なのだけれど、WHOの健康について考えていると、十分文化的には満足出来ているんじゃないかと思った。趣味のこと、それなりに良い人間関係。憲法第25条では、健康と文化的な生活を分けて考えていて、WHOは健康の定義の中に文化的な生活も含めている、そんな気がする。
こうして眺めてみると、わたしは結構恵まれている、と思えた。もちろん家庭環境が良かったら付き合う病気もなかったかもしれないのに……とは思うものの、運や環境、その他諸々は結構恵まれているのだ。あともう少し、な部分も、ここは自分で頑張ろうとかここは人に頼ったり調べ物をしようとか、そういう道筋が見えた。
なにより、こういうふうに過ごしていく、ということは人間に平等に与えられた権利なのだ。だから「わたしだけ恵まれていて悪いなあ」とか「何も頑張っていないなあ」とか思う必要もないと感じられた。それと同時に、この権利がきちんと満たされていない人たちのことを考えないといけない、いやそんなに偉そうなことは出来ないかもしれないけれど、少なくとも忘れてはいけないと思った。国が国民に約束した権利なのだ。それが十分果たされていないのはおかしいので。
自分が楽しく生きていけることに胸を張る。そうでないひとのために、出来る範囲のことをする。今のわたしにはそれがちょうどいいのかなあ、と思う。