かわいそう、かな?
僕はたびたび、子どもがかわいそうじゃないか、という趣旨のことをnoteに書いている。直接ではないにしても、苦しむかも知れないとか、そんなことを。
でもふと、昔ネットで読んだ記事を思い出した。よくテレビなどで取り上げられていた半分一般人、半分有名人、みたいな人が、「私に可哀想という人はたくさんいるけれど、そんなことなくて幸せなんだ」という話をしていた記事だ。それを読んで、遠くから見て可哀想だと思っても、本人はちっともそんなこと思っていない、ということはあるのだと気がついた。それからは安易に可哀想という言葉を使わないようにしようと思った。
それでもそんなことはつい忘れて、可哀想だと言ってしまう。それは上から目線の言葉だ。自分より何かしら劣っているから「かわいそうだね」と言えてしまえるのだ。だから使わない方がいい、と思ったのに。
でもだから可哀想と思うのはやめよう、というのはやっぱり違うと思った。言うのはやめるにしても。先に出した記事の人の例でも、今は幸せと思っていても過去あるいは未来に苦しむことはあると思う。あるいは幸せと思い込もうとしているだけとか、PV狙いの発言とか。いくらでもそうじゃないかも、という想像を張り巡らせることが出来る。
可哀想、という言葉を使わなくても、その人や似た境遇の人たちへ大丈夫だろうか、ということを述べることはできる。個人に対してではなくて、一般論としてこんなことがいえる、こんなことが懸念されて、こんなふうに予防や解決できる。もちろんインターネットでそんなこと言ったって基本的には誰かを助けることなんて出来ないから、ただ口だけの奴になるのだけれど。だからわざわざ個別の事案に言及するつもりはない(知り合いで困っている人がアイデアや解決策を探していたら、助けになりたいとは思うけれど)。
結局、何が言いたいのかというと、可哀想という感情そのものは自然と湧き上がってくるものだし、それをどうにかしたいと思うのも当たり前のことだと思う。けれどそれをすぐに口にしたりネットに書き込んだりするのは違うと思う。そもそも可哀想という言葉自体、相手を見下している部分があるのだから。だからよく考えたい、と思う。
このお話は序章にするつもりで、noteにはこれまで書いていたような話の他にこれから自分が考えたい、出来れば解決の助けになりたいことを書こうと思う。具体的に言えば子どもの権利のことだ。手始めにつらつらと思ったことを書く。そこから読むべき論文や本に手を伸ばして、そして頭の中を整理したいと思う。