耐えられぬほどの断絶

 一度こころを壊してしまったひととそうでないひとの間には、大きく深い断絶がある。

 この頃、似たような家庭環境のひとと話す機会が多かった。僕の幼少期を知っているひともいた。実家で過ごすことの苦痛、家族を持つことへの不安、子どもを持つことの諦め、先の見えない将来。確かに楽しいことはたくさんある。こうやって友達と食事に行ったりすることだってそうだ。しかし通奏低音のように、憂鬱と絶望が常にこころの奥に潜んでいる。それを、完全にとまでは言えないけれど分かり合う。想像し合う。共感し合う。その苦しさを、孤独を。

 そんなひとたちと話して、そのあとに”そうではない”ひとと話すと、その断絶に驚き、落ち込む。こんなにあっさりと、将来の希望を語れるのか。そんなに明るくやりたいことを話せるのか。そんなに堂々と過ごせるのか。どうして。羨ましい。まるで僕みたいなひとがこの世に存在すらしないようだ。家族は多少喧嘩するけどもちろん仲が良くて、お互いに気にかけていて、帰りたくなるお家がある。小さなミスに落ち込みつつも、愚痴として発散できる。将来は自分も「努力」して、バリバリ働くのだ、そして幸せな家庭を築くのだと、何の疑いもなく語る。きみもそうだろう、という口調で。

 鬱で動けない時のなんとも言えない焦燥感、自責、諦め、希死念慮、そんなものなど通じる筈もない。休日は寝て起きてYouTubeを観ている、と言えば、もっと有意義なことをしなよ、と言いたそうな雰囲気を感じる。僕だって出来ればそうしたいよ。でもこれが精一杯なんだ、YouTubeを観て笑って、ああ笑えるからまだ大丈夫だ、と思うので精一杯なんだ。
 言葉の上では多少は分かるだろう、鬱は脳の病気で怠惰ではないと。でも実感として理解されることはない。だから口には出さずとも、どうしてそんなにダラダラしてるの、という空気を感じる。それすらも病気の症状かもしれない。でも口にした言葉の端々から、ああやっぱり理解など程遠い、と感じるのだ。

 ひととひとは分かり合えない。仕方ない、同じ人生、同じ脳みそ、同じ身体のひとなんていないんだから。でも、こころを壊したひととそうでないひととの分かり合えなさは、あまりにも非対称だ。こころを壊したひとは社会に紛れ込むために必死にそうでないひとのフリをする。そうしないと本当に居場所がなくなるから。こころを壊したことのないひとは、そんなことなんて考えない。考える必要がないぶん、他のことにリソースを回せるんだろうな、なんて悲しくなる。こうして差は開く一方だ。もう追いつけそうにない。

 例えどんなに好きなひとでも、その差は埋められず、この谷は飛び越えられず、手を伸ばしても届かない。そんなふうに思うようになってしまった。それが辛い。苦しい。僕のことなんて分からないくせにと言いたくなる。でも好きなんだし、そのひとに悪気があるわけでもない。どうしたらいいのか分からない。結局僕のこと分かる努力もするつもりないのかな。そしたら僕が好きでも、一方通行で終わるじゃないか。
 何度言っても伝わらなくて、上手くいかなくて。僕も相手のことが分からない。どのくらいの事で傷ついて、どのくらいは平気なのか。何を言われたら嫌なのか。どれくらい僕に割けるリソースを持っているのか。なにも知らない。本当に、なにも知らないね。何もかも拒絶して、断絶を作っているのは僕なのだ。でも飛び越える勇気も力もないよ。全部遠い昔に奪われちゃったんだ。理不尽だよね。やっぱり、勇気も力も残ってるきみが飛び越えて来てよ、って言うのはわがままなのかな。

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