わたしに価値はないけど、権利はある
誰かに傷つけられた人たちに、よく「あなたには価値があるのだ」というメッセージがおくられる。虐待や虐めや差別やハラスメントなどで傷ついて、自分を大切にできなくなっている。だからきっと、優しい人は励ましたくて、心を癒したくて、そしてそれが真実だと心から思って、価値があるのだから自分を大切にしてねと伝える。
けれど、他人に傷つけられたという現実は消えない。その現実は、あなたには価値がないというメッセージを送り続けているようにも見える。傷つけた人が悪かったとしても、現に、自分を大切にしなかった人たちがいて傷ついているのだから、やはり大切にされない存在というのはある意味事実なのだ。だから、自分には価値がないというのは思い込みの面もあるし、現実を表現している面もある。
そんなときに、あなたには価値があると言われても心に響かない。とても親しい人が何度もそう口にして、行動で示してくれるならそう思える。でも、SNSで、何かの本で、あまり親しくない医者や心理士に、そう言われただけなら信じることは難しい。
しかし、もし「価値がある」という表現ではなく、「権利がある」という表現だったらどうだろう。人には生きる権利がある。支援を受ける権利、大切にされる権利、それが得られなかった時に怒る権利、助けを求める権利。これらは人間として生まれた瞬間から死ぬまで消えることはない。今の社会はそう約束しているからだ。そこに価値など関係ない。
周りの傷つけた人たちは、その権利を無視して侵害したのだ。つまり、彼らの方に罪がある。確かに法律でこそ裁かれないかもしれないけれど、約束を守り悪いことをしたのは向こうだ。自分に価値があるかどうか関係なく、傷つけてきた人たちが悪い。それが変わることはない。
もしかしたら、神様や偉大な力を信じている人や時代なら、またそれに応じた説明があるかもしれない。神の子だから大切にされるべきとか、自然がそのように人間を作ったとか、色々ある。その方がしっくりくるならその説明でもいい。ただ、現代でより広く受け入れられているのは人権の方だから、一般的な言葉にすると「権利がある」というのが一番しっくり来る気がする。
人間に価値があるかというのは、正直分からない。そもそも人間を、「価値」という尺度で測っていいのかも分からない。だから、それよりも少なくとも広く約束され認識された「権利」というものの方が受け入れやすいこともあるんじゃないかと思う。
どんな人間にも生きる権利がある。価値がなくたって権利がある。だから大切にされるべき存在なのである。