合理的配慮、差別のない社会、叶わない夢

 障害者差別解消法、という法律がある。私は最近まで知らなかった。知ったのは当事者になってから、だった。

 精神疾患になり、大学の講義を受けるのに支障が出て困っていたから、こういう法律があるから大学に合理的配慮を求める権利がある、とカウンセラーさんに教えてもらった。それで書類を書き、担当の方と面談し、会議を開いてもらい、大学と契約を交わした。結構面倒だった。あと診断書のためにお金もかかる。もちろん大学側だって負担だっただろう。偉い教授も会議に参加していたのだし。

 合理的配慮、と名の付く通り、合理的でない配慮はなされない。たとえば私の疾患は不安障害と鬱病だから、例えばノートを代筆してもらうといった配慮はされない。そしてもちろん、成績に下駄を履かせてくれるなんてことはありえないし、欠席は欠席だと言われた。それに納得して契約をした。そこに書いてあることが履行されなければ私は大学に訴え出ることが出来るし、書いてないことならば配慮されなくても大学は悪くない。
 どこまでが合理的か、ということを判断するために、私、私の主治医、カウンセラー、教職員、事務員の意見を取りまとめる必要があった訳だ。

 先に書いた通り、これはどこまでも面倒だ。当時の私はこんな恨み言を書いたくらいに。


 それでも現状、これがいちばんマシなやり方だと私はそう思っている。障害者だからってどこまでも無制限に配慮を求めることはできない。例えばテストの点数を弄ってもらうことはないように。しかし障害があるから、という理由ではなから締め出すのは差別だ。だからお互いが調整し、歩み寄り、ちょうど良い点を探す。

 細かい所ではまだ変えられる所があると思う。例えば精神障害の場合、ある程度の手続きを代行してくれる人をお願いできるようにするとか。診断書の負担額を調整してくれるとか。モデルケースをいくつか作って、少し自分用にカスタムすればすぐに配慮の書類を作れるとか(これに関しては自分の大学だけかもしれないが似たシステムがあった)。

 障害というのは社会の側にあるのだ、とはよく言われることだ。確かにどんなひとも快適に暮らせる社会がいちばん理想的だ。でもそれはいまの人類には無理なこと。何故なら利害が対立する人が出てしまったり、障害をなくすための努力を誰かが負担しなければならないからだ。いつかテクノロジーやシステムの発展でそんな負担は限りなく減る時が来るかもしれない。遠い昔、と言ってもほんの数十年前から見たら、きっと今のシステムだって驚くほど進んでいる所もあるだろう。

 みんなが平等、みんなが幸せ、みんなが快適。それは人類がゼロにならない限り達成されない、叶わぬ夢だろうけれど。でも少しずつそこに近づいている。暇なひと、余裕があるひと、やってみたいひとは、それにもっと近づけるように何かしたら良いと思う。そうでないひとは、それなりに。
 あんまりお花畑でも実現不可能でむしろ障害者の差別が進んでしまうかもしれないし、かと言って何もしなければ障害者が苦しんで終わってしまう。だからそれなりに、ちょっとずつ、それでも前に、たまに反省しつつ、ということだと思う。

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