愛着、執着、それから
僕は何もしないでいるのが苦手だ。思考が無秩序に飛び火して、昔の嫌な出来事を思い出すのが怖いのだ。
だからいつも五感を情報に晒し続ける。何かの映像か音楽を流し、絵を描くかアクセサリーを作るかし、こうして文章を書き、本を読み、それすらできないときでも全く知り合いでもないTwitterアカウントの呟きを遡る。
小学生の頃から既にそうだった。片時も本を手放さず、受験が近づけば歩いている時でさえ数学の問題や暗記した英文のことを考えていた。
ぼんやりとするのが怖かった。その場に存在し、その場を直に感じ取り、その空気を吸うのが怖かった。だからいつもどこかへ逃げていた。いつも何かの行為に執着していた。疲れ果てて眠るまで。
反対に、僕はどうやらにんげんに愛着というものをあまり抱かないらしいと気がついた。仲良しだった友達、元恋人、彼ら彼女らにもし二度と会えないとして、それほど悲しむだろうか。いま想像してみて、殆ど心を動かされなかった。今だって自分から連絡を取る友達はいない。いつも受け身だ。だから二度と会えなくなっても何も変わらない。ほんのたまに、自分から会いたいと思う人が現れる。でもそれもそこまで長続きはせず、また受け身の僕は誰にも執着を示さない。
恋人と付き合っていたときだって、どこか冷めたような気分でいた。あちらが何か要求するから応える。人間関係とはそのようなものだ。特に親密な人間関係というものは。
どうやら僕には、親密な人間関係というものも理解し難いようだ。親しき仲にも礼儀あり、というか、親しさとは何かが分からない。親友、恋人、配偶者、それらは一体なんなのだろう。他のにんげんと何が違うのか。
その代わり僕はぬいぐるみに執着する。僕の間違いで前の子を捨てなくちゃいけなくなったとき、物凄く傷ついたのを覚えている。未遂の遠因にもなっていると思う。今の子はその子のぶんまで可愛がりたい。構ってやれていないときは可哀想に思う。だから抱きしめて、いい子だね、と囁く。ぬいぐるみを失うのは、友達を失うより悲しい。にんげんと話していても、ぬいぐるみが居ないと寂しくて話なんてどうでも良くなる。
まともな人間関係なんて築けやしないように思える。ましてや結婚なんて、家族なんて、僕にはあり得ない。症状が良くなってきた今でもそう思う。改善するには途方もない努力が必要で、僕にはそんな努力よりぬいぐるみの方が大事で、逃避するための行為さえあればいいのだ。
こんなことを考えないきみたちが羨ましい。常に朧げながらついてまわる疎外感は、僕が人間関係を諦めきれていない証拠だろう。少しにんげんへの擬態が成功したときは嬉しい。けれどひとりになればまた虚しくなってしまう。擬態に成功したのは嘘の僕だから。