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たぶんそうについて②冊子できたきっかけ

エッセイを長らく書いてきて、エッセイの不自由さに限界を感じ、なんとかそれを突破したい気持ちでこれを書いた。一方で小説には自由さを日々感じていて、その違いはなんなのかというのを知りたくなった。
この冊子ができたきっかけはこんな感じ。
昨日ようやく推敲とやらを終えてみて(遅すぎ)、エッセイと小説の違いを少し肌で感じられたかもなと思えた。推敲のキリのなさはやばかった。

今後はエッセイじゃなく小説をずっと書いていこうと思っていて、そのためにもその辺の考えを整理したかった。
「たぶんそう」はたぶん結構読みづらい文章に仕上がっている。それは、エッセイのように説明的になり過ぎないように、完全に小説(フィクション)にならないようにしたからで、かなりギリギリかもしれないし、そうじゃないかもしれないし、自己評価ほどあてにならないものはない。結局小説にもエッセイにもなっていない中途半端なものかもしれないし、枠を越えられなかった感は正直否めない。ただ、ここにはそういう迷い含めて文字に乗ってはいる。そもそもエッセイは、私が突破を目指した不自由さと戦うことで生まれるものが魅力でもある気もした。

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悪寒で寝れなかった昨夜考えたこと

基本的に真実か虚構かとかよりも、面白いか面白くないかの方を重視してる。面白い、は、笑えるか笑えないかとかそういうのじゃなく、身体から面白がれるか的な話。それでいくと、身体から面白がれるのはやっぱり小説で、小説にはエッセイでは書けない感覚的なことをつめこむことができる気がする。エッセイでそれができないのか?という疑問は正直まだ落とし所をつけられずにいる。

小説は身体で読めるけど、エッセイは頭で読んじゃう気がする、これは単純に私の力不足もある。一方で、エッセイは著者の存在が大きすぎるとも思う、反対に小説は著者が小さい、もっというと著者を感じない(のが私的にいい小説)。
身体で読めるエッセイの可能性はあるのだろうか?自分の話をするのと、自分の話を元に物語るのとでは、やっぱり本質的な違いがあるように思う。
私が文章にしたいこと、というのは自分の人生じゃなくて、もっと漠然としたことなんだとたぶんそうで確信できた。

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