東京大学2015年国語第1問 『傍らにあること―老いと介護の倫理学』池上哲司
2015年の第1問『傍らにあること―老いと介護の倫理学』は、私が2000年以降の東大国語第1問の中でもっとも難解だと考える問題である。
問題文そのものが難しく、したがって、解答するのも当然難しい。問題文の難しさは、第一に、キーワードとして使われる語句が、ことごとく日常的な語彙であるにもかかわらず特殊な意味を付与されていることに起因する。「生成」「回収」「働きかける」「運動(性)」「働き」「足跡」「方向性」「棒(のような)」などである。一部は本文中に定義らしきものが示されているが、十分とは思えないものがほとんどである。
難しさの原因の第二は、論じられている主張の具体例が少ないため、抽象的な言葉の意味を理解するのがかなり困難なことである。具体的な事象をイメージするためには、思考をかなり試行錯誤させなければならない。
第三は各論である。120字問題となっている設問(五)の傍線部オの一文が簡潔すぎることだ。「この秘められた、可能性の自分に向かうのが、虚への志向性としての自分の方向性でもある」、可能性、志向性、方向性、と〇〇性という言葉が3つ並ぶうえ、主語を表す助詞は「が」で、述語は「でもある」。一見、判じ物のような一文だ。
設問(一)「このような見方は出発点のところで誤っているのである」(傍線部ア)とあるが、なぜそういえるのか、説明せよ。
傍線部アの「このような見方」は明らかに、直前の文の「こういった発想は根強く、誘惑的でさえある」の「こういった発想」と同義である。では、これは何を指すのか。
まず考えられるのは「不変の自分なるものがある」という「発想」を指すとするものであろう。しかし、この「不変の自分なるものがあるという発想」がなぜ「誘惑的」なのかが理解できない。また、直後の文の「このプロセス」が何を指すのかもまったく解釈不能である。したがってこの解釈を採ることはできない。
正しくは、「昨日の自分と現在の自分とが」「身体的にも意味的にも」「違って」いて、「その違いを認識できるのは、その違いにもかかわらず成立している不変の自分なるものがあるから」だという発想のことである。「昨日の自分と現在の自分の違いがあり、それを認識できること」の方に主眼があると捉えるべきであり、言い換えれば、冒頭の文にある「昨日の自分と現在の自分はどういう関係なのだろう」という問いを発すること自体なのである。こう捉える方が、「誘惑的」と形容するのによりふさわしいし、「このプロセス」も、「昨日の自分と現在の自分に違いが生じたプロセス」または「昨日の自分から現在の自分に変化または移行したプロセス」と解釈することが可能になる。
そうすると、設問で問われている理由が、第1段落中に傍線部の後に続いて、論理をさかのぼる形でつながっていることが読み取れる。最後の文から逆の順序で読み取るとわかりやすい。「生成しているところにしか自分はな」く、「あるのは、今働いている自分ただ一つ」であって、「過去の自分と現在の自分という二つの自分があるのではない」にもかかわらず、「このプロセスを時間的に分断し、対比することで、われわれは過去の自分と現在の自分とを別々のものとして立て、それから両者の同一性を考えるという道に迷いこんでしまう」からだ、ということだ。
なぜ「自分ただ一つ」しかないのかは、第2段落に説明されている。それは、「過去の自分は、身体として意味として現在の自分のなかに統合されており、その限りで過去の自分は現在の自分と重なることになる」からである。「現在の自分が身体的、意味的統合を通じて、結果として過去の自分を回収する。」とも書かれている。
以上から、「身体的・意味的統合により一つになった自分を過去と現在に時間的に分断し、別々に並立させてから、両者が同一かどうか考えるのは不合理だから。」(67字)という解答例ができあがる。
設問(二)「この運動を意識的に完全に制御できると考えてはならない」(傍線部イ)とあるが、なぜそういえるのか、説明せよ。
「この運動」とは傍線部イの直前の文にある「生成の運動」である。第3段落には「(自分の)生成」とは、「過去への姿勢」が「自らの行為を通じて」「現在の世界への姿勢として」「他者からの応答によって」「新たに組み直される」ことと書かれている。また、その「過去への姿勢」とは「自分の出会ったさまざまな経験を」「引き受け、意味づけ」る仕方である。
以上の内容が理由説明の骨子なのだが、解答を完成させるためには、さらに念入りに因果関係をつなぐための要素が必要である。それは、「他者からの応答」は自分が「意識的に完全に制御できる」ものではない、という暗黙の、しかし当然の事実である。そのため、「他者からの応答」に「自分の意志では制御しがたい」という修飾語を付けることにする。
以上から、「生成の運動は、経験の意味を現在の自分の姿勢として組み直す過程において、自分の意思では制御しがたい他者からの応答を要するから。」(62字)という解答例を導くことができる。
設問(三)「その認められた自分らしさは、すでに生成する自分ではなく、生成する自分の残した足跡でしかない」(傍線部ウ)とはどういうことか、説明せよ。
傍線部ウの「その認められた自分らしさ」は、その直前の文である「自分について他人が抱いていた漠然としたイメージの通りに、一つの具体的行為によって自分が現実化したもの」を一語に縮約したものである。
ただし、「自分らしさは生成の運動なのだから、固定的に捉えることはできない」とある通り、生成の運動において現れる自分らしさは流動性、つまり変化する可能性を持っている。すなわち、傍線部の「生成する自分」とは現在生成の途上にある自分であり、「生成する自分の残した足跡」とは、そのイメージを抱かれた際、つまり過去に生成した際の痕跡である。いわば、前者が現在進行形の自分らしさであり、後者が過去形の自分らしさであるということである。
流動性、変化する可能性を持つ生成については、第7段落に触れられている。まず、「生成の方向性は、棒のような方向性ではなく、生成の可能性として自覚されるのである」とあり、「自分なり、他人なりが抱く自分についてのイメージ、それからどれだけ自由になりうるか。どれだけこれまでの自分を否定し、逸脱できるか。この「……でない」という虚への志向性が現在生成する自分の可能性であり、方向性である」とある。したがって、生成の可能性とは「これまでの自分を否定し、逸脱」する可能性だということがわかる。これが現在進行形としての「生成する自分」の意味である。
以上をまとめると、「自分のイメージを現実化することで認められた自分らしさは、過去の痕跡に過ぎず、従来の自分を逸脱する可能性を持たないということ。」(62字)が解答例となる。
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