「味方」と闘う。ルカによる福音書。社会を変えるには味方のはずの同胞と対立しなければならない。
イエスの有名な言葉に
「あなたがたは、わたしが地上に平和をもたらすために来たと思うのか。そうではない。言っておくが、むしろ分裂だ。」
というのがあって、好きな言葉です。
通俗的な「宗教」のイメージとまるで違う激しい言葉。
クリスチャンの人はどんな風に受け取っているのかはわからない。
聖書解釈の本も読んだことないし。
ただ、社会運動をやってきてイエスが何を言いたいのかわかってきた気がしています。
社会を変えようと思ったら身近な「味方」と闘う必要があって。
たとえば...
労働組合は労働者と闘います。
在日コリアンは在日コリアン同胞と闘います。
女性は女性と闘います。
男性は男性と闘います。
更に少数派は多数派と闘う必要があって、さすがにそれはきつ過ぎるけど、まあ、そういうもんです。
真の敵は日本だと日帝権力(天皇、麻生太郎ら)ですけれど、権力と闘うには「味方」と闘わなければならないのが厄介な現実です。
マジで身近な現実を変えようとした人はわかるはず。
闘うっていっても...まあわかりますよね?
例えば、パワハラされた労働者は落ち込み、傷つき、孤立感を深めます。
だから、声をかけて社長に言おうか?と聞きます。
しかし、無理な場合が多い。
これ以上、いじめられないようにそっとしておいてくれ、と。
わかった、と黙ります。
しかし、会社にいるかぎり、いつパワハラされるかわからないから、防衛のために、被害にあっていない労働者に声をかけて、労組をつくります。
すると、不思議。
怖がっていたパワハラ被害者が労組に加入して、闘い始めたりします。
でも、会社をやめたり、病気になったりする人達もいます。
パワハラ被害者は会社との話し合いで最初は口もろくに聞けません。
わたしらが社長を怒鳴りまくります。
しかし、何年かすると、パワハラ被害者のほうが、わたしらより、パワフルになって社長をやり込めまくります。
わたしが止めるくらい、怒りまくります。
人間の尊厳はこうして守られます。
だから、闘わないとわからないことはあるんです。
闘いといっても自分自身の闘いです。
他人の闘いではありません。
すべて、実体験です。
8年やりました。
わたしの闘いはまた別にありました。
で、ここからが重要です。
パワハラ被害者が、パワハラは止めて欲しいが、闘ってもらっては困ると言うこともあります。
傷つき過ぎてどうしたらよいかわからないからです。
しかし、慰め寄り添っていても、事態は悪化するばかりです。
何故ならパワハラ社長は止めないと調子にのるからです。
パワハラを悪いと思っていないからパワハラをするんです。
止まりません。
転職するか、生活のために目を瞑るかどちらかになります。
まあ、うまくやれる場合はいいですけどね。
なので、その場合は、闘える人達と連帯します。
傷ついている人は休んで欲しい。
元気な人がやります、と。
転職もありです。
でもね、それでいいのか?とは思います。
冒頭で引用した「ルカによる福音書」は以下の言葉が続きます。
52 今から後、一つの家に五人いるならば、三人は二人と、二人は三人と対立して分かれるからである。
53 父は子と、子は父と、母は娘と、娘は母と、しゅうとめは嫁と、嫁はしゅうとめと、対立して分かれる。
対立するんです。
これでいいんだろうか?
生活なりたたないかもね。
古代の家族は今よりももっと命綱だったろうから。
でも、いいんでしょうね。
権力を倒しても再現しては意味がないのだから。