Obbligato:社内報に見る「東映の支柱」⑩
「助監督さん」(社内報『とうえい』1958年6月1日発行第6号)
今回の「東映の支柱」は、「助監督さん」です。第4章「行け行け東映・積極経営推進」第13・14節「子供向け特撮キャラクター作品プロデューサー・平山亨」でご紹介いたしました平山の京都撮影所(京撮)助監督時代の仕事ぶりが掲載されています。
今回は、2023年1月24日、中島貞夫さん(6月11日逝去88歳)のご自宅にうかがい、東映京都撮影所(京撮)助監督の仕事などについてインタビューしたお話を監督の関わった東映作品と共にご紹介いたします。
1959年に東大文学部を卒業、野球部吉田治雄の紹介で東映に入社した中島さんは、より一層の量産体制に向かう京撮に助監督として配属されました。
京撮に出社したその日に、加藤泰監督大川橋蔵主演『紅顔の密使』の饗庭野ロケに駆り出され、いきなり長靴を履いてエキストラの中学生を動かす役が振られ、その後も徹夜が続いたそうです。
当時、京撮助監督部にはチーフ、セカンド、サードと3つの職制がありましたが、東横映画撮影所設立の時に様々な場所にいたスタッフが寄せ集められたため、職制に関係なく年齢的な構成はバラバラで、大卒の定期採用で配属された社員に対する風当たりも強く、また労働環境も過酷であったため、なかなか定着しませんでした。そこで会社は、撮影所の近くに独身寮を新たに建設したり、打たれ強そうな配属希望者を厳選したりすることで定着に対応しました。
中島さんは始めにサード助監督として、俳優会館からオープンセットなどの撮影現場へ出番の俳優を迎えに行く仕事に就き「走れ走れ」の毎日を送ったそうです。
現在、映画村敷地の東の境界となっている城北街道を越えた向こう側にも、当時は大名屋敷が並ぶ屋敷町などのオープンセットがありました。そこから、天神川の向こう岸のレンタルステージ、元・宝プロ、日本京映撮影所まで撮影現場が広がっており、俳優会館から現場までかなりの距離があったため、呼び出しには大変苦労したと語ります。ちなみに、城北街道を越えた東側での撮影には50円ほどのロケ手当が付き、昼食代くらいになったとのことでした。
ここで、助監督の職制による仕事の分担について紹介します。サード助監督は小道具を受け持ち、小道具担当や高津商会と親しく接し、小道具の知識を身に付けます。中島さんもマキノ雅弘監督から撮影現場で急に言われて北野白梅町駅隣にあった高津商会にタクシーを飛ばして小道具を取りに行かされたこともよくあったそうです。セカンド助監督の仕事としては、俳優の衣裳を担当し、衣裳について衣裳担当からかなり専門的なことを学びます。チーフ助監督は監督の助手として演出全体を見る立場にあり、セットの仕上がりを確認したり、シナリオハンティングやロケハンなどもしますが、実際には入ったばかりのサード助監督の中島さんなどが探して写真を撮っていたそうです。
中島さんは、それまでマキノ監督に付いていた先輩の山内鉄也からマキノ担当を引き継ぎ、サードの時代からマキノ監督の指示でセカンドの仕事や本直しなどの仕事を振られて厳しく鍛えられたと語っていました。
タイプの似ているマキノ監督と沢島忠監督作品に就くことが多く、大先輩のマキノ監督を立てつつも、沢島監督は本が書ける中島さんを引っ張ろうと取り合いになっていたとのことです。
そうこうしているうちに、田坂具隆監督の『親鸞』に1年ほど関わり、比叡山から浄土真宗のことなどを徹底的に調べ、また後に、田坂監督『ちいさこべ』の助監督に1年ほど就き、撮影のため京撮に呼んだ東京の東映児童劇団の子供たちの演出を担当します。田坂組のこれらの仕事を通じ、映画助監督の仕事の本質的なところを学んだ、とうかがいました。
中島さんは、セカンドからチーフになる頃には、東伸テレビや関西のテレビ局でアルバイトとして数多くのテレビ作品の脚本を書いています。
東伸テレビでは、先輩助監督の平山亨も八手三郎(やつでさぶろう)のペンネームで『それからの武蔵』やブラザー劇場月形龍之介主演『水戸黄門』の脚本を執筆しており、平山の師匠である松田定次が監督した『水戸黄門』では、監督を助けるためにノンクレジットですがチーフ助監督として撮影現場でも働いていました。
中島さん曰く「松田さんの弟子の平山さんは真面目な方でおよそ演劇的映画的な世界の人とは違っていた。」そうで「テレビ的な作り方に非常に向いており、東映京都で身に着けた知識やノウハウが子供番組に全部生きている。監督ではなくプロデューサーとして花開いた。」とのことです。
助監督から映画監督になるためには、「自分の特色を鮮明に出す必要があり、覚悟を持って会社とぶつかっていかねばならない。」、言い換えれば「親分監督の下で言われたことを忠実かつ的確にこなしていくだけでは助監督として優秀でも、自立した映画監督にはなれない。」とも言われました。
中島さんの映画監督デビュー作は、岡田茂が京撮所長に復帰した1964年、好色時代劇路線の口火を切った『くノ一忍法』です。冗談で岡田に話した企画が採用され、大学時代の盟友、倉本聰さんと共に脚本作りに取り掛かり、誰も手を挙げなかったため自身で監督したとのことでした。この低予算映画がヒットし、続けて同じ路線で撮るよう岡田から命じられ、再び倉本さんと脚本を書き『くノ一化粧』を監督します。
2年ほど間が空き、大川橋蔵主演『旗本やくざ』を監督した後、岡田に企画を提出して採用され、松方弘樹主演で監督した不良たちの青春映画『893愚連隊』が注目を浴び、ここから気鋭の京撮若手監督として頭角を現します。
そして、俊藤浩滋が企画した村田英雄主演『男の勝負』『仁侠柔一代』、大ヒットしたオールスター大作高倉健主演『あゝ同期の桜』の監督を任されました。
『同期の桜』の撮影が終わる頃、管理職昇進の話があり、会社の方針もあって山下耕作監督などと同時に東映を退社しフリー契約者となります。
しかし、中島さんはフリーになっても東映京都撮影所で監督を続け、以前、本直しに参加し結局お蔵入りしていた『大奥㊙物語』を、岡田茂がエロチックな脚本に書き直し復活させ、佐久間良子主演で大ヒットさせました。
続けて小川知子主演『続大奥㊙物語』、藤純子主演『尼寺㊙物語』と㊙路線作品を監督しますがこれらの作品は失敗に終わりました。
続いて岡田の指示で、竹中労原案のより過激な好色ドキュメンタリー映画『にっぽん’69 セックス猟奇地帯』の監督を担当し、全国各地に飛び回って撮影します。スターが出ない超低予算で作られたこの作品はヒットし、シリーズ化しました。
エロもやった、ヤクザもやった、次はテロだ。ということで、千葉真一主演『日本暗殺秘録』を企画し、低予算映画シリーズのヒットで気をよくした大川博が金一封と共にこの映画をバックアップしたことでオールスター大作となり、この作品も大ヒットします。
岡田茂発案の天尾完次企画による温泉芸者シリーズの『温泉こんにゃく芸者』を監督した後、中島さんは俊藤浩滋の企画で菅原文太主演川地民夫共演『懲役太郎 まむしの兄弟』を監督します。菅原のコメディ的側面を開花させた『まむしの兄弟』はヒット、シリーズ化しました。
こうして、脚本が描けることを武器に、エロス路線の岡田茂、ヤクザ路線の俊藤浩滋と言う東映を代表する二大プロデューサーに実力を認められた中島さんは、その後、実録ヤクザ映画路線を中心に鶴田浩二主演『やくざ戦争 日本の首領』など、時代劇では松方弘樹主演『真田幸村の謀略』など、文芸作品は名取裕子主演『序の舞』などの大作を手掛け、東映京都撮影所を代表する脚本家、監督として活躍しました。
ここに感謝と共にご冥福をお祈り申し上げます。