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主観的に生きる

とかく客観性が大事にされる世の中である。
何かを主張すればエビデンスを求められる。権威性を求められる。どこかのエライ博士やセンセイが研究したものを素材として客観性とする。誰それ教授監修、元ナントカ省スゲエ次官監修、と枕詞の付いた主張のみが価値あるものとされる。




そうかと思えば事実をフェイクと言ってみたり、一次側情報が疑わしいモノを「良かれと思って」拡散してみたり、都合の悪い主張の発信者を貶めてみたり。情報の質をわざと下げるためのテクニックがSNS上に蔓延してもいる。既にぼくらを取り巻く情報の質は、おとぎ話や噂話と事実を混同していた中世のそれと同等に落ちているそうだ。魔女狩り時代レベルの陰口や噂話や陰謀論がまことしやかに渦を巻き、事実と作り話を意図的に混同させている。そしてそれらに踊らされ、右だ左だと声高に主張し批判し侮辱する。



もちろん、批判が全てイケナイと云いたい訳ではない。権力に対する批判があってこその民主主義である。しかし何をどう勘違いしてか、はたまた雇われてか、権力を批判する人を批判する、というおよそ民主主義を理解しない行為が急速増加中であるのだ。嘘に嘘を上塗りし更に加工したり故意に混ぜたりして毒をばら撒くからタチが悪い。酷い場合はジャーナリストを標榜する先生とやらが、そういった事に加担してたりするから何がなんだか。




もう、こうなってしまったら、主観が一番当てになるのかもしれない。そう、主観的に生きるのだ。流行りの金儲けの本や自己啓発本、ノウハウ本などでなく、古典文学や学術書、美術書や哲学書などに挑戦し教養を磨く。磨いた知性や感性により自我を徹底的に肯定する。そうやって磨いた自我を判断の際の羅針盤とするのだ。時代の混沌には「感じる」ということこそ最も効果的な気がするのである。そもそも人間がものごとを理性的に捉え進めていける、という幻想こそ疑うべきことではないのか。



ぼくにはぼくの考えや意見があり、きみにはきみの考えや意見がある。
ぼくにはぼくが好きなことがあり、きみにはきみの好きなことがある。
だから、素晴らしいのだ。素敵なのだ。
ふたり合わせたら、知性や感性や経験が広がるってことだろう?




他人を排除せず、自分の意見を深化させ、互いの考えや好きを両方実現できるところを創造しようとしつつ主観的に生きる。誰もが独り占めすることのない楽しく知的で快適な世の中を望めば、いろいろな違いを共に生きる事で、この社会は豊かに美しく広がるに違いない。




倫理観と良心と勇気に支えられた多様なワクワクする「楽しさ」の中にこそ、これからの世の中をより良くする力があると信じたい。



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