※21年2月20日、オリジナルの雰囲気をより再現するため、「韻」を全面的に修正
21世紀最高のスピーチの一つとして歴史に刻まれるやろうスピーチが、バイデン大統領の就任式で生まれた。22歳の詩人、アマンダ・ゴーマンの「The hill we climb(私たちがのぼる丘)」や。
大統領の就任式で、詩が朗読されるゆうのも、日本の感覚からすると不思議な感じやし、詩の内容も日本人が学校で習う詩とは全然違って、社会的、政治的なメッセージが比喩でも、隠喩でも、暗喩でもなく、極めて直接的な形で込められとる。
にもかからず、朗読を含め、スタイルとしてはやっぱり、詩そのものやねん。
アマンダ・ゴーマンはん自身も、「詩とは、政治的なアートだ」ゆうてはる。アートゆうのは、芸術というほかに、日本語でゆうたら芸、技術みたいなニュアンスもあるから、要するに「政治的なメッセージをより広く、深く言葉で投げかけるもの」ゆうような感じやないか。
本格的な解説は後日していくとして、今回は、訳だけ出すわ。もう少し練りこんだら、もっと良くなるから、そのうち、ちょっと変えるかも。
今回も、いつもと同じように、原文に忠実、ニュアンスやトーン、元の言葉の持つ社会的な意味、文脈を最大限日本語に反映させるトド奈津子先生の謹製超直訳でのお届けやで!
さーて、前置きはこのくらいにして、そろそろ本題行くで!
ゴーマンかましてよかですかぁ?(ゆうてみたかった。だって、おっさんだもの:詩人風www)
あ、せやせや。最後に口語訳版も入れといたから、口語で読みたい奴は、そっちみてやー!
私たちがのぼる丘
灯点し頃(ひともしころ)に人は自問する。
この終わりのない闇の中で、どこに光がみつかるのだろうと。
我々が負う喪失、我々が波に攫(さら)われながら渡らねばならぬ海。
我々はあの日、野獣に立ち向かった。
静寂が常に平和の証とは限らぬこと、規範と概念の正規が正義であるとは限らぬことを知った。
それでもその夜明けは、目覚めの前に訪れていた。
どうにかしてやり遂げていたのだ。
どうにかして切り抜け、そして目の当たりにした。
壊れたわけではなく、未完なだけだった国の姿を。
奴隷の子孫で、シングルマザーに育てられた痩せっぽっちの黒人の少女が、いつか大統領になることを夢みて、そして今は新たな大統領の誕生の場で自作の詩を朗読することが出来る国と時代を我々は受け継いだ。
そう、我々は無欠からもほど遠く、無垢からもほど遠い。
でも、だからといって違いを排除した「完璧」を作ろうと励んでいるのでもない。
我々が励むのは、すべての文化、肌の色、性格、境遇に向き合う国を造るという目的の共有だ。
だから我々は、私たちの間(ま)にあるものではなく、私たちの前にあるものに目を向ける。
未来を最優先とするならば、まず、互いの相違点など脇に置かなければならないことを我々は知っている。だから、分断はここで終わりだ。
戦いを放棄すれば、互いに抱擁できる。
誰かを傷害せず、互いが調和できる道を見つけるのだ。
世界中の人々にこう言わせよう。
我々は、心痛(しんつう)していたが成長したと。
傷を負っていたが、希望を持っていたと。
疲れていたが、努めていたと。
我々は終古(しゅうこ)に結ばれ、勝利を手にするだろうと。
自分と異なる誰かに二度と無様に屈しないことによってではなく、二度と分裂の種を蒔かないことによって。
聖書は「彼らは皆そのぶどうの木の下に座し、そのいちじくの木の下にいる。彼らを恐れさせる者はない※」と説いてる。
(※トド奈津子先生注:ミカ書4章第4節。ミカ書では「人々の手から武器が棄てられ、鍬に持ち替えられ、争いが終わり、平和が訪れる」という預言が語られていて、しばしば「(争いを終結させて得られる)平和」について語られるときに引用される)
もし我々がこの時代により沿って生きるならば、勝利は、構えた刃の先にではなく、我々が架けた橋の先にあるのだ。
そこは勇気さえあればたどり着ける、険しい森の中の安住の地であり、我々がのぼる丘だ。
アメリカ人であるということは、単に誇りを受け継ぐという以上のこと、誤ちを冒した過去を背負い、それを正していくということなのだ。
我々は目の当たりした。
国を分かち合うのではなく、かち割る力、民主主義を遅らせるという意味において国を破壊する力、そしてそれがほとんど成功しかけたところを。
しかし、歴史上、民主主義が時としてその歩みを妨げられたことはあっても、永久に葬られたことなどない。
この真実を、この信仰を、我々は信じる。我々が未来を見ているとき、歴史もまた我々を見ているのだ。
今は、まさに贖罪の時代だ。
我々は、はじめ、あのような恐ろしい時代の後継者になる準備などできていなかった。
だがその中にあっても、新しい一章を書き上げ、希望と一笑(いっしょう)をもたらす力が我々のうちにあることに気づいた。
かつて我々は「我々が、厄災に打ち勝つことなどできようか」とあてのない答えを求めていた。しかし、今、断言しよう「厄災が、私たちに打ち勝つことなどできようか」と。
我々は、かつての国ではなく、これからなるべき国、傷があっても毅然とし、仁心(じんしん)と自信にあふれ、蛮勇(ばんゆう)で自由な国を目指して行進する。
我々の行進が、恫喝(どうかつ)によって逃遁(とうとん)したり、妨害されたりすることはない。
我々の軽視と、無精(ぶしょう)は、次の世代に継承されてしまうことを知っているからだ。
我々のあやまちは、次世代のあしかせだ。
一つだけ確かなこと。
それは、我々が恵沢(けいたく)と権力を、権力と権利を融合させれば、愛を次世代に遺し、子供たちが生まれながらに手にする権利をよりよいものに変えられるということだ。
だから、我々は、我々が受け継いだ国よりもより良い国を残そうではないか。
我がブロンズ色の胸から吐かれる一息ごとに、この傷ついた世界を素晴らしいものへと引き上げて行こう。
西部の黄金の丘から立ち上がろう。
風の強い北東部、我々の祖先が最初に革命を実現した場所から立ち上がろう。
中西部の湖畔の都市から立ち上がろう。
灼熱の南部から立ち上がろう。
我々は再建し、和解し、復活するのだ。
「わが国」でおよそ知られるすべての場所で、「わが国」と呼ばれるあらゆるあらゆる場所で、わが国民、多様で美しい国民が、ボロボロになりながらも気高い姿を見せるだろう。
我々が恐怖を乗り越え、炎の陰から出るとき、日は昇る。
我々自身が、夜明けをもたらすのだ。
光は、常にそこにあったのだ。
我々が光を見る勇気を持ちさえすれば。
そして、我々自身が光となる勇気がありさえすれば。
--------ここまで--------
読んでくれはって、おおきに!そのうち、細かい訳の解説追加するわ!
せやせや。同じバイデン大統領の就任式でレディー・ガガが国歌斉唱したやんか。これも、ホンマ素晴らしかった。ホンマに、素晴らしかったで。変なアレンジをすることなく、それでいて、表現豊かで、さすがの一言。ぜひ、聴いてみてや。
何度聴いても、鳥肌が立つ。もちろん、エエ意味で。
最後に、もうひとつ。
アマンダ・ゴーマンはんが、この就任式のあと、今度はスーパーボウルで詩の朗読をされはった。そのときの詩の和訳がこちらや。これも、また感動的やで!
ちゅう訳で、ここまで読んでくれはった皆さん、おおきに!
下に、有料で口語訳もつけとくわ。よかったら投げ銭代わりに購入したってやー。