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作り手が作り手を推したくなった、その刹那立ち現れるヤバすぎる状況について

今日のラブレター | 枡野浩一さん著『ショートソング』へ。


『ショートソング』は、歌人・枡野浩一さんによる小説。イケイケ歌人A氏と、ひょんなことから短歌を始めたB君が、交互に一人称になるスタイルでリズムよく読んでいけます(歌人の小説はやはりリズムがいいのですねぇ)。

さてこれはどういうお話だったのか。読み方は人それぞれと思いますが、私が読後に「…ん?まさかずっとこういう話してた?」と考えることになったのは、掲題のテーマでした。「作り手が作り手を推したくなった、その刹那立ち現れるヤバすぎる状況について」ー それは斯くもさり気なく灯るのに、斯くも危険なものであるぞ、と。そんな話であろうかと。何か作ることに携わる方は、ドキドキできるかも。

推しに出逢えること自体は、
愛の発散ですよね。渦中の心に湧くのは、高揚とゴキゲンなムード。まずは、人生へのポジティブな効能がイメージされます。

構図的には、推されるべき側と推す側という、明確な分別が成り立ちます。この配置を、上段下段・高低・優劣という物差しでとらえる必然性は、特段生じていない。

しかし…、「自分さておき」的な対象を持つという心持ちが、ある性質の、ある条件下の人たちに生じた場合。
自身何かしらの創作をする人の心の中で、いわゆる同ジャンルといえる領域での他者作品に対して”無邪気な擁護”が心に灯ってしまった場合。

無意識に・自動的に、「手に負えないほどの卑下」が生じます(と、私は読みました)。「ほんっとうにいいと思う…」と心から嘆息し、一般的な「推し状態の高揚」を、ほわほわと温かに享受していてさえ、”ある意味死ぬかも” の危機へ墜落している。「その危機を、或る作家が潜り抜けてまた生きるまで」を、この小説のA氏の姿に追ってゆけます。



”推し”は愛の発散なのに、愛が自害を要請する?そんなの、どうして。



偏(ひとえ)に、「作る」をする人々の性質、「この手で何か【よいもの】を作りたい」と願うような精神の癖(ヘキ)が、その岐路へワープさせてしまうのではなかろうかと。

彼らは創作をするカテゴリに真摯であればある程、範疇とする域で感受を得るたび心臓に、【浴びたものの”よさ”のヒエラルキー】を銘記せざるを得ないでしょう(何もそんなに削らなくても!という圧で)。だって「えっ、コレジャナイ」の想いを持たずにいられたなら、自分の手を動かす理由なんて、さほど確かに根を張ったでしょうか?

「コレジャナイ」の矢が、自らへ放たれるとどうなるか。どうにかして、惚れた作品に対する自作品の位置を変えねばなりません(的のままでは、死んでしまうから)。

そして位置の操作の方法は、「作ることをやめる」か、「どうにか生まれ変わる」かしか。つまり自作に変化を生じさせるか、又は、避けがたく生じてしまった変化を受け入れるしか。いずれにせよアンハッピーとは限らないのですが、この時当人が踏んでいるのが「瀬戸際」であることに、違いはないのです。 

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この小説の主人公の一人である寛介が終盤、ガタガタガタっといくわけですが、わりと直前までそんな調子悪くも見えないんですよね。むしろ楽しそうで、その状態についてネガティブな書き方も全くされていない。枡野さんがこの筋を(話のトーンからしたら意外なほど)深淵から書いていらっしゃる気がして、印象をメモった次第です。

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