![見出し画像](https://assets.st-note.com/production/uploads/images/135147736/rectangle_large_type_2_a266a9d0cee1f690cb0ed4b54076f3c0.jpeg?width=1200)
『かもめのジョナサン』感想文とか その1
これから『かもめのジョナサン』についての感想文みたいなものを書いてまいります。
なぜ書こうと思ったのかというと、掃除している最中にたまたま目についたから、というのが一番の理由。
加えて、以前から何度も4章については言及しているので、この際だから全編にわたっての感想文でも書いてみるかと思ったのであります。
本書との馴れ初め
というわけで『かもめのジョナサン』なわけですが、本書を初めて知ったのは、もろちんオウム真理教事件のとき。
あの村井秀夫がオウムに入信する際、両親に対して本書について語っていたというのを知り、また五木寛之がそれについて言及していたのを知ったのがコトの発端。
その話を聞き図書館で読んでみたのですが、当時は3章までしかない「不完全版」で、その上、当時の私には「そっち系」の知識も体験も無かったため、
本書を読んでも「意味不明な与太話」にしか思えず、「あとがき」にて五木寛之が色々言ってんなあ、という印象でした。
そんなわけで、同時期に読んだたけしの『教祖誕生』の方が面白いし宗教の本質を突いている、というのが当時の正直な感想でございます。
(ここでいう「宗教の本質」とは「俗世間的な宗教」のこと。つまり本書第4章のような現象等のこと)
五木寛之氏の1974年版あとがき
そんな本書ですが、まず述べたいのは五木寛之氏の1974年版あとがきについて。
当該あとがきを私なりに一言で要約すると、
本書の「大衆とは距離を置いた、排他的な上から目線」が受け付けない。
でございます。まるでカルト宗教みたいだぁ(直喩)
私もこの五木氏の意見について分かるっちゃ分かるのですが、ちょっと気になる点を2つ挙げてみます。
まず、五木氏は『イージーライダー』のラストを「恰好いい」と書かれているけど、あのラストってカッコいいの?
金を手にし、自由を求めてニューオリンズまでひた走り、クスリをキメたり女とやったり、色々やった末のピーター・フォンダの台詞が「We did it.」じゃなくて「We blew it.」やで。
結局自由を求めてひたすら走っても何も得られず、意気消沈して帰るところを通りすがりのレッドネックに殺された、これのどこがカッコいいのでしょうか。
シーンの見てくれも氏が比較対象にしている『グライド・イン・ブルー』とそんな変わらんで。
当時だとカッコよかったのこれが?極めてアメリカン・ニューシネマ的で惨めなだけじゃないか、というのが私の感想。
もう一つ、重箱の隅をつつくようで悪いけど、「女のかもめが出てこない」とありますが、追放されたかもめのコミュニティの中に「ジュディ」ていう名前のかもめが出てきております(111ページのジョナサンの台詞中)。ジュディなんて名前の男はおらんやろ。
それはともかく、
それにしても私たち人間はなぜこのような<群れ>を低く見る物語を愛するのだろうか。私にはそれが一つの重苦しい謎として自分の心をしめつけてくるのを感ぜずにはいられない。食べることは決して軽蔑すべきことではない。そのために働くこともである。それはより高いものへの思想を養う土台なのだし、本当の愛の出発点も異性間のそれを排除しては考えられないと私は思う。
という氏の意見には概ね同意で、ニュー・アース的にいえばアイデンティティが「群れ」から「(自称)孤高」もしくは「別の群れ」に移行しただけだよな、
同じ読むならヘッセの『シッダールタ』読んだ方が、より「正確」だよな、などと思ってしまいます。
私なりの違和感
こんな感じで、知ったキッカケがキッカケだけに、どうしても本書に対する偏見がぬぐえません。
そういう偏見をなるべく脇において、今回あらためて読んでみたわけですが、私的に一番違和感を覚えた箇所は86ページあたりのサリヴァンとの会話でジョナサンが発した台詞。
空間を克服したあかつきには、われわれにとって残るのはここだけだ。そしてもし時間を征服したとすれば、われわれの前にあるのはいまだけだ。そうなれば、このここといまとの間で、お互いに一度やニ度くらいは顔をあわせることもできるだろう。
こんなことが書いてあるのですが、本書中のこれまでの経緯を鑑みると、まるで「いま」や「ここ」が「厳しい修行の末に到達するユートピア」みたいな表現になっているじゃありませんか!
作者にその意図が無くとも、読者の99.9%はそう受け止めるでこりゃ。
上の五木氏のあとがきじゃないけど、日々の生活の中で「いま」や「ここ」なんてものは分かる(「見出す」「自覚する」「感じる」等、言語による表現は色々)と私は思うのですが、
それを一部の選ばれたヒーローや、そのヒーローの信者達にしか到達できないかの如く表現しているのは一体どういうことなの。
3章ラストでフレッチャーが皆の中に神というか仏というか愛というか無限を見出したシーンがあるけど、これも閉鎖されたコミュニティ内の話になっているし、などと思ってしまいました。
まあ、あまり突っ込むと既存の宗教を否定することになりそうなのでこの辺でオシマイにしておくし、
私が読んでいるのは日本語版だけで、英語の原文読めば『Stillness Speaks』みたいに印象がガラリと変わるのかもしれないけど…
以上、何かケチつけてばかりの感じがしなくもない感想文ですが、次回は大雑把なあらすじやら何やらを好き放題語っていく予定。
次回がいつになるか分からんし、書く気が無くなったらこれっきりになるかもだけど、今回はここまで。
いいなと思ったら応援しよう!
![六郎](https://assets.st-note.com/production/uploads/images/60838419/profile_d2acfd33dc565fa9ed0011dbab8a40ef.jpg?width=600&crop=1:1,smart)