「群れ」から抜け出すために 『かもめのジョナサン』感想文とか その2
『かもめのジョナサン』感想文、今回は1章について。
前回の導入部分では半ばイチャモンをつけた形になりましたが、書いた通りあれは私の偏見が多分に入っているし、ちゃんと読めばそこそこ良い本だとは思う(それでもやはり『シッダールタ』の方が良いとは思うけど)ので、なるべく「好意的」に読んでいくことにします。
人間という「群れ」の一生
そんなわけで第1章なのですが、簡単なあらすじとしては、
「ただ餌をとるためだけに飛んで一生を過ごすという人生(鳥生か?)」に疑問を抱いたジョナサンが、もっと速く飛ぶための試行錯誤をおこない、ついにカモメの限界を突破し時速342kmのスピードで飛ぶことができるようになりました。
でも「これまでの風習を破った身勝手な行動」のせいで、カモメの群れを追放されることになりました。
というもの。
読んだ方ならすぐ気付かれるでしょうが、この話はカモメの話ではなく、カモメを喩えに用いた人間の話となっております。
その人間(少なくとも現代日本人)の一生とは、
時期が来たら学校に行き、卒業したら就職して朝から晩まで働いたり結婚して子育てをしたりし、定年後はショボい額の年金を受け取りながら人生を終える
であり、これこそ人生だと信じて疑わない人間が大多数だということ。
要するに、生きるため(主に金のため)に仕方なしに学校に行き仕方なしに働き、自分によく似た出来の悪いガキの世話をし、
そして1章ラス前にある通り、無意識のうちに「退屈と、恐怖と、怒り」まみれの人生を送って、なんか訳の分からんうちに死んでいく、というのが普通の現代日本人の一生。
そして、その生き方こそが「正しい」生き方であると、子供の頃から両親や周囲の人間やあらゆるメディアから強要および洗脳され続けた結果、
皆と同じように学校に行き就職しないと生きていけない。
金を稼がないと生きていけない。金を稼げない奴は人間じゃない。「所持金が尽きる」=「死」である。
自由(好き勝手)に生きて良いのは一部の金持ちや権力者だけ。
といったような固定観念がこびりつき、それが人間社会を支配してしまっており、生きづらさの原因ともなっているのです。
こんなの今更説明する話でもないけど。
少なくとも私はそうだったので、第1章に出てくるカモメの群れのことを笑えません。
これを読んでいる貴方もそうに違いない(決めつけ)。
「群れ」から抜け出すためには
それではこの洗脳された「群れ」に疑問を持った人間が、そこから抜け出すにはどうすればよいのか、本書第1章をざっと眺めてみると、
ジョナサンは飛ぶこと自体が好きだった。
ジョナサンは自分の声に正直であった。
ジョナサンは周りの声を気にしなかった。
ジョナサンは従来の固定観念に縛られなかった。
ジョナサンは死に対する覚悟があった。
こんなことが書かれており、これは「群れ」から抜け出したい人間にも同様に当てはまることであります。
他のは各自に任せるとして、列挙した中で私的に一番重要なのはやはり、死に対する覚悟、もっというなら
「自分がこれまで積み上げてきた(と錯覚している)『全て』を失う恐怖」に対する覚悟
長いので短く一言でいえば
「喪失」に対する覚悟
でしょう。
ここでいう「覚悟」とは、恐怖等の感情を抑えつけて感じなくしようとしたり、感じないフリをしたりすることではなく、その感情に対して開く、逃げたり隠れたりせずに真正面から受け止める、ということであります。もっと話せば長くなるけど。
この喪失に対する覚悟があれば、群れを抜けてどんな不安定な状況になっても生きていけるのですが、
そもそもの話、どんなに安定して堅牢にみえる土地や建物でも、実は非常に脆いということは昨今の地震で分かるだろうし、
今まさにこの瞬間、心臓マヒが起きて貴方や私がくたばる可能性もあるわけで、
本来、人生とは非常に不安定なものなのでございます。
問題は、その「覚悟」とやらにどうやって気付くかという話なのですが、回答としては
「人によってケースバイケースなので知らん!」
「覚悟をキメるヒントはネット上や書籍にワンサカあるので、自分で探してちょ」
という非常に無責任なもの。
「ふざけんな!(声だけ迫真)」と言われそうですが、本当のことなので仕方ありません。
私もこのnoteに「苦しみから解放されるウンタラ」なんてコーナーを設けているけど、万人に効く方法等があるなら是非とも教えていただきたいヮ。
それはともかく、世の無常に気付いて覚悟がキマれば、今まで自分が「これが『人間の一生』だと信じて疑わなかったもの」から躊躇なく抜け出すことができる、
「おれは『人間』をやめるぞ!ジョジョーーッ!!」となるわけであります。
ジョナサンなのにディオの台詞とはたまげたなぁ…
ジョ、ジョナサンなのにディオの台詞とはたまげたなぁ…
「群れ」は見下す対象ではない
こんな感じで、覚悟がキマれば「群れ」から抜け出すことは容易になるわけですが、
一つ注意してほしいのは、「群れ」は見下す対象ではない、ということ。
どいういうことかというと、こういう系統の話になると必ずといっていいほどムクムクと湧いて出てくるのが、
「群れ」の連中は愚かで、真理に気付いてそこから抜け出した(or抜け出そうとしている)自分は他の連中とは異なる優れた存在
みたいな排他性というか選民思想。
五木寛之氏のあとがきにあるように、本書からはそういう臭いがプンプン漂ってくるし、本書に影響受けたオウムの村井秀夫がまさにこれだったし、
かくいう当記事においても、↑の方に「ショボい額の年金」だの「仕方無しに働き」だの「自分によく似た出来の悪いガキ」だのといったとんでもないワードが並んでおります。
そういう他を見下す行為は、前回書いた通り、アイデンティティが「群れの中の自分」から「別の何か」に移行しただけに過ぎず、
実のところ愚かさはちっとも変わっていない、群れの連中と同レベルかそれにも満たない、
逆にいえば、(己の一部である)「群れ」を尊んで初めて自身を尊ぶことができる、ということなのであります。この辺は頭で考えてどうこうなるものじゃないけど。
※その点『シッダールタ』は、自分が今まで下に見ていた俗人達の生活や気持ちがこんなに重要なものだったのか等、気付きが克明に描写されている。
これがハンバーガーばかり食ってる単純なアメリカ人と、陰鬱な森の中で育った内向的なドイツ人の違いか(ヘ、ヘイトスピーチ…)
まぁ、このような排他性や選民思想は「これはな誰でもそうなるんや」ということなので、
もしそういったものが出てきたとしても「こんなこと考えちゃいけない!」などと無理矢理抑え込もうとしたり、「自分はなんて駄目な奴なんだ」と自己嫌悪に陥るのではなく、そういうのがあるんだと気付けばよろしい。
あと本当に真面目な話をすれば、「群れ」の中で生きようが「群れ」から離れようが、どこにいるかというのは大して変わらない些細な好みの話で、肝心なのは「どうあるか」なのですが、
それをここで話し始めるとさらに長くなりそうなので、この辺にしておきます。
以上、1章にして何か長くなったけど2章からは何を書こうか、もうネタがないかもと思いつつ、今回はここまで。