『ブッダという男』感想文とか その5
5回目となった『ブッダという男』の感想文。
今回も前回に続いて「ブッダの先駆性」について。
第三部 ブッダの先駆性
2.ブッダの宇宙観と解脱
2つ目は宇宙観と解脱についてですが、本書にもあるように、バラモン教をはじめとする既存の諸宗教を参考にしながら、ゴータマ君は仏教の宇宙観を作り上げたとのこと。
それじゃどこが既存の宗教、特にバラモン教と異なるのか、適当に書き出してみると、
ブラフマンはあくまでも神の1つに過ぎない。梵我一如に対して、四無量心の実践。
バラモン教の祭祀の実行に対して、仏教信仰を前提とする善行をおこなうこと。
瞑想で最も深い非想非非想処の境地に至っても、それは解脱ではないし悟りではない。
こんな感じで、要は
「これまでの宗教の『解脱』は輪廻の枠内である。仏教を信仰した上で現象世界を分析し、『諸行無常』『一切皆苦』『諸法無我』といった正しい知恵を起こすことが必要」
ということみたいで、
「諸行無常」「一切皆苦」「諸法無我」というのは分かるんだけど、何か後出しジャンケンのような気がしなくもないというのが正直な感想。
あと、初期仏教では「仏教を信じれば天国、信じなければ地獄」という、一神教みたいなことを言ってたのね、などと思ってしまいました。
まあ新しい宗教を興すときは、多少なりとも「うちの宗教がナンバーワン」という排他性を持たせないといけないのかもしれません。
「うちの宗教信じてもええけど、別に神道でもお寺さんでもキリスト教でも他に何信じてもええで。会費もタダや。好きにしぃ」
という新興宗教はすぐ潰れそうですが、本来宗教ってそういうものだと私は思います。色んな宗教が混在している日本で育ったので特に。
3.無我の発見
次は「無我」について。
簡単にいえば、仏教にはバラモン教でいうところの「アートマン」やジャイナ教でいうところの「ジーヴァ」なんていう恒常不変の自己原理は無い、ということ。
なぜなら、色受想行識の五蘊、眼耳鼻舌身意の六内処、色声香味触法の六外処はいずれも移り変わる無常のもので、苦(思い通りにならないもの)であるから。
なんかラマナ・マハルシの『私は誰か?』みたいな話だなと思ったのですが、本書によると、P.169にあるように、「認識できない超越的な何かは存在しない」とゴータマ君は主張し、
異教徒から「自己はあるのかないのか?」と質問されても、どう回答しても
誤解を生むだけなので無記の態度を貫いていたのこと。
えーどうしてー
不変の自己原理は無くとも、業報輪廻等この宇宙の一切を司る、私たちが認識できない「不変の宇宙原理」みたいなものはあるんじゃないのと私は思うわけですが、
そういう「宇宙原理」みたいなものについてもゴータマ君は認識できるというなら、ゴータマ君の言う通りなのかもしれません。
でも改めて考えてみると「認識できないもの」について議論するというのは、なんかUFOやUMAの存在を議論することよりも結論が出ない、白黒つけられないものだなと思ってしまいます。だって認識できないんだもん。
そんな認識できないものをどうやって客観的に証明すればよいのか、それこそ電子顕微鏡や電波望遠鏡みたいな科学の発展にモノを言わせて作成した「認識できなかったものを認識できるツール」を用いて存在を証明するしかないのか、そういう風になるまでは各自の主観次第なのだろう、というのが個人的な感想でございます。
でもそういう「神秘的なもの」が客観的に測定できるようになったら面白いやろうね。日本の坊さんはおろか、バチカンの神父とか最低レベルだったりして。
4.縁起の発見
段々話が本筋から逸れてきましたが、最後はこれ。
所謂「十二支縁起」というやつで、本書によると以下の通り。
無明:無知のこと。
行:身、語、意での行いのこと。
識:眼識、耳識、鼻識、舌識、身識、意識の(六処による)認識のこと。
名色:精神的要素と肉体的要素のこと。
六処:眼、耳、鼻、舌、身、意のこと。
触:↑の六処が対象(色、声、香、味、触、法)に接触すること。
受:↑の接触から生じる感受のこと。
愛:認識対象(色、声、香、味、触、法)に対する渇愛のこと。
取:欲望、誤った見解、誤った習慣に対する執着のこと。
有:現象世界に存在していること。
生:(来世に)生まれること。
老死:老いて死ぬこと。苦しみ。
こんな感じで、1の無明があるから2の行があり、最後に老死があるといったような「苦しみ」の順番になっているのですが、こういうレッキングクルーというかボンバーマンみたいな連鎖は他宗教でもあったとのこと。
それではゴータマ君の何が画期的だったのかというと、「逆観」、つまり「1の無明がなければ、連鎖的に12の老死もなくなる」といった見方の発見だったとのことであります。
現代人からしたらなんだそんなことかと思うわけですが、それまでのインドでは「根本原因である無明に知恵の光を照らせば結果苦しみがなくなる」なんて思想はなかったのことで、ゴータマ君オリジナルの大発見のようです。
なんかコロンブスの卵みたいやね。コロンブスなんて今や英雄でも何でもなくただの侵略者扱いで実際そうだったのだろうけど。
では、どうやって「無明」に光を当てるのかというと、私の頼りない記憶を掘り返してみると確か「八正道の実践」なわけですが、
じゃあどうやって八正道を実践するのかと言われたら、現代だとそれは人それぞれだろうとしか答えられません。
別に坊主集団に入らなくて良いだろうし、何なら現代日本の坊主集団が一番八正道から外れているという可能性もあるだろうし。
でもP.193の悟った人の言葉を読んでみると、ラマナ・マハルシの「身体が滅びる、つまり死ぬ前に、何もかも失う『死』の体験をする」と同じニュアンスを受けるので、
宗教は違えど、やはり悟りの道は取得の道ではなく喪失の道、はっきりわかんだね、というのが正直な感想であります。
なので、「悟りによって何かを得たい」「悟って何か特別な力や感覚を身につけたい」「悟って皆からチヤホヤされたい」なんて考えている人は、今すぐ回れ右して俗世間でそういうものを探した方がええで。
そんなもの絶対見つからないし、万が一見つかってもそれは錯覚で、結局は100%全て失う羽目になるけど。
そうやって全て失うと、
「是故空中無色無受想行識 無眼耳鼻舌身意 無色声香味触法 無眼界乃至無意識界 無無明亦無無明尽 乃至無老死亦無老死尽 無苦集滅道 無智亦無得」
「心無罣礙 無罣礙故 無有恐怖 遠離一切顛倒夢想 究竟涅槃」
みたいになるのでしょう。これを本当にゴータマ君が言ったのかどうかは分からんけど。
以上、適当に飛ばして書いた割にはなんか長くなったけど今回はここまで。
次回は最終回で、皆さんお待ちかねの本書「あとがき」に関する私の意見になるかも。