ラマナ・マハルシの『私は誰か?』解説その5
※タイトル写真はアルナーチャラ(大嘘)の水車。
今回は問12と問13。
色々書いていたら当初の予定より長くなり遅々として進まない状況になっているのでダレてきましたが、書いてまいります。
問12 心を静かにする他の方法はないのでしょうか?
呼吸法、マントラ、瞑想、ヨガ、食事etc.、自己探求以外の他の方法は全て「マインドの沈静化(マノニグラハ)」であり、マインドが復活したら元通りである。
というのが回答。
『覚醒の炎』にも、修行者が名馬を巡ってマハラジャと賭けをし、サマディに入ってる何年もの間にマハラジャも馬も死に、サマディから覚めた修行者が「私の勝ちです。馬はどこです?」と言ったけど、マハラジャの息子が「馬も父も死にました」なんていう話が載っていましたが、そういうことです。
あとは
ということで、瞑想にしろ呼吸法にしろマントラにしろ何にしろ、それによって「今とは別の何か」を得ようとしたり達成しようとするならば、それは偽物、いずれ消えるガラクタを掴むための無駄骨だということであります。
まぁ私なんかがゴチャゴチャ言うよりも、パパジ本人に言っていただいた方がいいでしょう。
20分強あるけど見ましょう。(ただし見るのは1回でOK)
これはな誰でもそうなるんや
こんなことを本場のインド人、しかも所謂「聖者(御本人は否定するだろうが)」に言われて、街中にあるヨガ教室が全て潰れてもおかしくない話になっておりますが、
かくいうパパジも下記リンクや『覚醒の炎』読めば分かるけど、結構ハードな「修行」をして苦しみもがいて遠回りしていたというじゃございませんか。
要は、「これはな誰でもそうなるんや」ということであり、それはパパジもガンガジも例外ではなく、なんかラマナが例外中の例外だった、ということなのでしょう。
こんな偉そうなこと書いている私も、今読んだら噴飯ものの引き寄せ本やら『マネーゲームから脱出する法』なんてものに熱中するところからスタートしたし。
あと、ラマナは周囲に自己探求を強制したりはせず、「私は瞑想をしています」「私はマントラを唱えています」なんて言われても「よろしい」としか答えなかったとのこと。
そして、「自己(Self)を知るために一番効果的な方法を教えて下さい」と聞かれた際は「自己探求しなさい」と答えていたということで、
まとめると
自己探求の他にマインドを滅する道はない。
瞑想、マントラ、ヨガ、読書、聖地巡礼、食事等は一時的な状態にもっていくだけもの。遅かれ早かれ無駄骨だったと分かるし、最終的に全て捨てることになるけどやりたければどうぞ。
「誰が」瞑想しているのか、「誰が」マントラを唱えているのか等、これまで言ってきた通り「対象」ではなく「主体」にマインドを向ける。
という感じです。
問13 心に残ったものごとの印象が、海の波のように際限なく現れてきます。いつになったらそれらすべてがぬぐい去られるのでしょうか?
「真我への瞑想が高まれば高まるほど、それらの想念は破壊されるだろう」
が回答で、本問って問15と被ってない?と思うのですが、
「さっき『瞑想は無駄骨』と言ったじゃないか」という声が聞こえてきそう。
ここでいう瞑想とは、瞑想は瞑想でも「真我への瞑想」つまり自己探求のことで、それしか考えられません。英語版でもthe meditation on the Selfとなっているのでそうなのでしょう。
印象と輪廻
あとは本問の「心に残ったものごとの印象」ですが、これは言い換えれば「マインドに(強烈に)刻みつけられた記憶」のことでしょう。
個人的な例を挙げると、ネット上で「肉あぶく」や「僕と野原ひろし」を一度でも見てしまうと、
それ以降『ドラえもん』を見る度に肉あぶくの絵や文章が浮かんでくる、『クレヨンしんちゃん』を見る度に僕と野原ひろしのあの絵が浮かんでくる、忘れようとすると余計に思い出す、ということであります。
※これ以上被害を拡大させない為に、ここに文章で載せておく。良い子の諸君は間違っても興味本位で検索などしないように!
こういう場合、忘れようとしたりなかったことにしようとしたり、「なぜ俺はあんなものを見てしまったのだろう」「一体どういうカルマであんなものと出会ったんだろう」などと考えたりしても無駄なことは皆さんご存知の通り。
とある通り、「欲しいのに手に入らない」だけでなく「欲しくないものに出くわした」といった状態、「そうであるもの」「あるがまま」に対する抵抗が「求不得苦」や「怨憎会苦」という苦しみとなり、サンサーラ、輪廻になってさまよう羽目になるのであります。
※パパジは肉体が誕生しては消えていく輪廻について語っているのだが、私はそういう輪廻をしているという感覚がない(多分)ので正直よく分からない。ただ、執着が苦しみを繰り返し生み出している輪廻なら嫌という程分かる。
それではどうすればいいのかというと、
「肉あぶくや僕と野原ひろしを思い出して必死に笑いをこらえているのは誰か?」「私は誰か?」
と、対象(肉あぶくや僕と野原ひろし)ではなく主体(「私」)にマインドを向けて自己探求をすれば、肉あぶくや僕と野原ひろしといった記憶に基づくお下劣な思考は停止し、そういうものを見て喜んでいた「私」もSelfの中に消えていくのであります。
以上、サンサーラどうこうは高尚で、肉あぶくやら野原ひろしやらはお下劣だと思っている「私」は一体誰か?、その辺についても自己探求してみましょうということで、今回はここまで。