見出し画像

ラマナ・マハルシの『私は誰か?』解説その5

※タイトル写真はアルナーチャラ(大嘘)の水車。


今回は問12と問13。

色々書いていたら当初の予定より長くなり遅々として進まない状況になっているのでダレてきましたが、書いてまいります。

問12 心を静かにする他の方法はないのでしょうか?

呼吸法、マントラ、瞑想、ヨガ、食事etc.、自己探求以外の他の方法は全て「マインドの沈静化(マノニグラハ)」であり、マインドが復活したら元通りである。
というのが回答。

バガヴァン:(修行によって30分無我の境地に入れるようになったという質問者に対して)これは救済を意味するのではありません。このような状態はマノラヤ、つまり一時的な思考の静止と呼ばれます。
マノラヤとは集中、つまり一時的に思考の動きが停止することを意味します。この集中が止まるとすぐに、古い思考も新しい思考もいつものように押し寄せてきます。そして、この一時的な心の静けさが千年続いたとしても、それは生と死からの解放と呼ばれる思考の完全な破壊には決してつながりません。
したがって、修行者は常に警戒し、誰がこの体験をしているのか、誰がその快さを実感しているのかを内なる声で問いかけなければなりません。
この問いかけがなければ、長いトランス状態や深い眠り(ヨガニドラ)に陥ります。この精神修行の段階では適切な指導者がいないために、多くの人が惑わされ、誤った解放感の餌食となり、ほんのわずかな人だけが無事にゴールに到達できました。

次の物語は、その点を非常によく表しています。あるヨギがガンジス川のほとりで何年も苦行(タパス)をしていました。彼は高度な集中力に達したとき、その段階を長期間続けることが解脱につながると信じ、それを実践しました。ある日、深い集中力に入る前に、彼は喉の渇きを感じ、弟子にガンジス川から飲み水を少し持ってくるように呼びかけました。しかし、弟子が水を持って来る前に、彼はヨガニドラに入り、数え切れないほどの年月その状態に留まっていました。その間、橋の下をたくさんの水が流れていました。この経験から目覚めたとき、彼はすぐに「水!水!」と叫びましたが、弟子もガンジス川も見えませんでした。

『‘Who Am I?’ Sri Ramana Maharshi’s teachings on how to realise the Self』David Godman

『覚醒の炎』にも、修行者が名馬を巡ってマハラジャと賭けをし、サマディに入ってる何年もの間にマハラジャも馬も死に、サマディから覚めた修行者が「私の勝ちです。馬はどこです?」と言ったけど、マハラジャの息子が「馬も父も死にました」なんていう話が載っていましたが、そういうことです。

あとは

ところがある時パパジに、自由になる為にはどうしたら良いのかと尋ねますと、彼は、「なにもするな」と言ったのです。
「えっ? どういう意味? なにもするなって?瞑想や、マントラを唱えるというような、ある種の訓練以外のことはするなという意味ですよね?」

その頃の私は、瞑想の他にマントラも熱心に唱えていましたから、私がそのように尋ねると、パパジは、「なにもするな。君がやっていることのすべてをやめるんだ」と言いました。

そう指摘されると、見えてきたことがありました。
そういえば私は、瞑想を"やって"いました。
つまり、瞑想している時、「今日の瞑想はうまくいったわ。」とか、「いつもはもう少しちゃんとやっているのに、今日は全然だめだわ。」という具合に、うまく行ったときは至福で満たされましたが、うまく行かなかったときはそうではありませんでした。
明らかに、自分の本質を得る為に、「私」が「何か」を「やっている」のでした。

パパジは、世界中の国々からやってくる、瞑想の達人たちに会っていましたが、「真実を得る為に重荷を作り出しているだけだから、努力をするのをやめなさい。全部忘れてしまいなさい。」と私に言いました。

「君は何かを“得よう”としているね。ということは、本当の自分自身を、本質とは別物だというように考えている訳だよ。本来の自分自身を見いだす為に、何かをしなければならないというのは大間違いだ。」と。

ガンガジとの対話「私をやめるのは可能でしょうか」

ということで、瞑想にしろ呼吸法にしろマントラにしろ何にしろ、それによって「今とは別の何か」を得ようとしたり達成しようとするならば、それは偽物、いずれ消えるガラクタを掴むための無駄骨だということであります。

まぁ私なんかがゴチャゴチャ言うよりも、パパジ本人に言っていただいた方がいいでしょう。
20分強あるけど見ましょう。(ただし見るのは1回でOK)

水、大気、食料が汚染されている現代(おそらく1990年代)では、最早サトヴィックな食事なんてとれない。よってもうヨガなんてできない。
ヨガをする、マントラを唱える、瞑想する、本を読む、聖地と呼ばれる場所に行く…全て「先延ばし」にしているだけ。

上の動画より

これはな誰でもそうなるんや

こんなことを本場のインド人、しかも所謂「聖者(御本人は否定するだろうが)」に言われて、街中にあるヨガ教室が全て潰れてもおかしくない話になっておりますが、
かくいうパパジも下記リンクや『覚醒の炎』読めば分かるけど、結構ハードな「修行」をして苦しみもがいて遠回りしていたというじゃございませんか。

要は、「これはな誰でもそうなるんや」ということであり、それはパパジもガンガジも例外ではなく、なんかラマナが例外中の例外だった、ということなのでしょう。

こんな偉そうなこと書いている私も、今読んだら噴飯ものの引き寄せ本やら『マネーゲームから脱出する法』なんてものに熱中するところからスタートしたし。

「列車はあなたを目的地まで連れて行った。もう必要なくなったから、あなたは降りた。列車はあなたを、あなたが行きたかった場所まで連れて行った。牛車も同じだ。馬車はあなたをラマナシュラマムまで連れて行ったが、あなたは降りた。もうあなたには列車も馬車も必要ない。それらはあなたをここへ連れて来る手段だった。今あなたはここにいるが、それらはあなたにとって何の役にも立たない。それがあなたのサダナに起こったことだ。あなたのジャパ、読書、瞑想があなたを精神的な目的地へ連れて来た。それらはもう必要ない。あなた自身が修行をやめたのではなく、それらは目的を果たしたので、自らあなたから去ったのだ。あなたは到着したのだ。」

『Papaji Interviews excerpt』David Godman

あと、ラマナは周囲に自己探求を強制したりはせず、「私は瞑想をしています」「私はマントラを唱えています」なんて言われても「よろしい」としか答えなかったとのこと。

そして、「自己(Self)を知るために一番効果的な方法を教えて下さい」と聞かれた際は「自己探求しなさい」と答えていたということで、
まとめると

  • 自己探求の他にマインドを滅する道はない。

  • 瞑想、マントラ、ヨガ、読書、聖地巡礼、食事等は一時的な状態にもっていくだけもの。遅かれ早かれ無駄骨だったと分かるし、最終的に全て捨てることになるけどやりたければどうぞ。

  • 「誰が」瞑想しているのか、「誰が」マントラを唱えているのか等、これまで言ってきた通り「対象」ではなく「主体」にマインドを向ける。

という感じです。

問13 心に残ったものごとの印象が、海の波のように際限なく現れてきます。いつになったらそれらすべてがぬぐい去られるのでしょうか?

「真我への瞑想が高まれば高まるほど、それらの想念は破壊されるだろう」
が回答で、本問って問15と被ってない?と思うのですが、
「さっき『瞑想は無駄骨』と言ったじゃないか」という声が聞こえてきそう。

ここでいう瞑想とは、瞑想は瞑想でも「真我への瞑想」つまり自己探求のことで、それしか考えられません。英語版でもthe meditation on the Selfとなっているのでそうなのでしょう。

印象と輪廻

あとは本問の「心に残ったものごとの印象」ですが、これは言い換えれば「マインドに(強烈に)刻みつけられた記憶」のことでしょう。

個人的な例を挙げると、ネット上で「肉あぶく」や「僕と野原ひろし」を一度でも見てしまうと、
それ以降『ドラえもん』を見る度に肉あぶくの絵や文章が浮かんでくる、『クレヨンしんちゃん』を見る度に僕と野原ひろしのあの絵が浮かんでくる、忘れようとすると余計に思い出す、ということであります。

※これ以上被害を拡大させない為に、ここに文章で載せておく。良い子の諸君は間違っても興味本位で検索などしないように!

「野比のび太と我成栄一郎(※担任)のカップリング2次創作BL」ネタ
(しかし、あまりに強烈かつ刺激的な内容故に程なくして「ドラえもん」の原作を出版している小学館からお叱りを受けたらしく、当該ポストは削除せざるを得なくなり、pixivにおいてもほぼすべての作品が非公開化された。)

pixiv百科事典「肉あぶく構文」

かつてpixivに存在したとあるユーザーが主に自分と野原ひろしのBLコラ画像を投稿していたことからネタにされた。
現在ではそのユーザーのイラストを模した作品にこのタグが使われる。

pixiv百科事典「僕と野原ひろし」

こういう場合、忘れようとしたりなかったことにしようとしたり、「なぜ俺はあんなものを見てしまったのだろう」「一体どういうカルマであんなものと出会ったんだろう」などと考えたりしても無駄なことは皆さんご存知の通り。

満たされなかった欲望、それがあなたを困らせる。心に印象を残したときだけ、欲望は問題となるのだ。それらは常に「私はこれを得るべきだ」と主張する。この満たされなかった欲望を満たそうとする圧力が世界という現れを生みだす。それがサンサーラだ。
(中略)
あなたは心の中に、「私はこれをすべきだった、あれをすべきでなかった」などといった想いをためこむ。それらの印象が、何度も何度もこの世界という現象に巻き込むのだ。

『覚醒の炎』

とある通り、「欲しいのに手に入らない」だけでなく「欲しくないものに出くわした」といった状態、「そうであるもの」「あるがまま」に対する抵抗が「求不得苦」や「怨憎会苦」という苦しみとなり、サンサーラ、輪廻になってさまよう羽目になるのであります。

※パパジは肉体が誕生しては消えていく輪廻について語っているのだが、私はそういう輪廻をしているという感覚がない(多分)ので正直よく分からない。ただ、執着が苦しみを繰り返し生み出している輪廻なら嫌という程分かる。

それではどうすればいいのかというと、
「肉あぶくや僕と野原ひろしを思い出して必死に笑いをこらえているのは誰か?」「私は誰か?」
と、対象(肉あぶくや僕と野原ひろし)ではなく主体(「私」)にマインドを向けて自己探求をすれば、肉あぶくや僕と野原ひろしといった記憶に基づくお下劣な思考は停止し、そういうものを見て喜んでいた「私」もSelfの中に消えていくのであります。

以上、サンサーラどうこうは高尚で、肉あぶくやら野原ひろしやらはお下劣だと思っている「私」は一体誰か?、その辺についても自己探求してみましょうということで、今回はここまで。

<参考文献>