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『ブッダという男』感想文とか その2

前回の記事から随分時間が経ったけど、『ブッダという男』感想文の続きでございます。もう皆さん忘れているんじゃないの。

私はすっかり忘れておりましたので、2度目に読んだ際に記したメモを頼りにお茶を濁しながら書くしかないという、悲惨な羽目になりました。

あーもうめちゃくちゃだよ(杉田智和)

ともかく、今回は一部と二部についての簡単な概要および感想を書いてまいります。

第一部 ブッダを知る方法

まずは第一部で、一言でいえば「初期仏典を通して『ブッダ』について知りましょう」というもの。

その初期仏典を読むと、以下2つのゴータマ君像があり、

・歴史のブッダ:なんか現代人の価値に合った、というか現代人の価値観によって曲解されてきたゴータマ君像
・神話のブッダ:近代まで「仏教」というコミュニティの中で信仰されてきた、超能力とか使うゴータマ君像

というもので、本書ではこのどちらにも属さないゴータマ君について考察し、歴史Ver.と神話Ver.の溝をを埋めていきましょうというもの。

そして、なぜゴータマ君が当時の古代インドで有名になったのか、その先駆性は何かについて、初期仏教の律蔵・経蔵・論蔵から成る「三蔵」を元に書いていく、という姿勢のようで、

矛盾する点があっても批判的読解をするのでなく初期仏典の中にある言葉で調和させる、読む人間の願いを込めずに読んでいく、韻文と散文の両資料を参照すべき…といったことが書かれております。

初期仏典なんて読んだことない私としては、 この第一部の時点で既に置いてけぼりになっていて、
「親鸞ですら『歎異抄』の内容について本当に喋ったのか怪しいものだし、ゴータマ君から直接話を聞いた人間なんてもう現代の世に一人も存在しないし、そもそも初期仏典なるものが正しいという確固たる証拠も無いんだから、各自好き勝手に解釈すればええやん」
などと不遜なことを思ってしまうわけですが、

こんなこと言ったら元も子もないし、こんな考えは異端だろうし世が世なら火炙りか簀巻きにでもされるのでしょう。

でもやはり各自がそれぞれの道を歩めばいいのであって、集団化して教義を押し付けることなどしなくてもいいんじゃないの。
そうなったらもう、それは救済の為の教えなどではなく、単なる金儲けと政治の道具に成り下がったシロモノなんじゃないの、
事実、古今東西大半の宗教はそのようになっているし、などと思ってしまいますヮ。

第二部 ブッダを疑う

お次は第二部。

第一部が全体の1割強で、この二部が全体の4割。要するにこの第二部が本書のメインといっても差し支えないでしょう。(まあ、本当のメインは「あとがき」だろうけど)

それではゴータマ君の何を疑うのかというと、巷や研究者の間で流布している、「理想的な」ゴータマ君像について、であります。

1.平和主義者だったのか?

まずこれ。

これは答えは「ノー」で、2500年前のインドの価値観においては人の命なんて木の葉程度の価値だろうし、別に初期仏典を眺めずとも、比叡山とか本願寺とかがやってきた所業をみれば、平和とはかけ離れていることくらいサルでも分かります。

そして、ゴータマ君の価値観としては、

  • 殺人は確かに悪業である。

  • ただし、無間業さえ犯さなければ別に何人殺そうがセーフ。逆に5つの「無間業」を犯せばアウト。

  • 無間業でなければ、教団に寄付する等の「善業」を積めば、「悪業」を打ち消すことが可能。

であり、一例として手塚治虫の『ブッダ』にも出てきた、アングリーマーラとアジャセ王の対比が記されています。(もろちんアングリーマーラはセーフで父親殺しのアジャセ王はアウト)

まるでカルト宗教みたいだぁ(直喩)と感心するわけですが、昔なんだからそんなもんやろ、本当にそうだったという証拠もないし、という感想しか出てきません。

それより何よりこの章で面白いのは、椎尾弁匡なる浄土宗のボウズが「仏教の根本主義は戦争主義」と主張し、ヒトラーの理念に共感して「ユダヤ人共を皆殺しにしろ」などと言っていたにもかかわらず、

戦争が終わった途端に「戦争によって全てがめちゃくちゃになりました…」「新井が悪いよ~新井が」なんて被害者面しているという箇所。しかもソース付き。

「これはな(エゴに囚われた人間なら)誰でもそうなるんや」と申し上げたいところなのですが、こういうのを見て見ぬふりしている日本の仏教界隈はどうなの。
京大ですら京都学派について反省しとったで。(↓はなぜか京大ではなく東大のサイト)

あと、本件をネットで検索しても本書著者のツイートやどっかのお寺のサイトくらいしか出てきません。

怖いわ~言論統制よ~

2.業と輪廻を否定したか?

お次はこれ。「業と輪廻」とは「前世で悪いことしたから悪い今の世がある」みたいなやつ。

結論から言っちゃうと、何か色々書かれているけど、これも初期仏典には業や輪廻を否定した記述などないとのことで、

他人から(変な)質問されても回答せずに沈黙した「無記」についても、「異教徒からされた質問に対して沈黙し、その後自分の教えを説いた」というのが本当のところ、とのこと。

これを言ったら元も子もないのだけど、来世があるかないか、良いおこないをすれば良い来世が待っているかなんて、
こんなん死んでみなきゃ分からないですし、一体全体、何が「悪」で何が「善」なのか分かりません、というのが私の正直な感想であります。

あとゴータマ君の説いた無我説って、
「五蘊のいずれもが無常であるから、永遠の自己なんてものは見出されない」
だというのはマジなのですか。

そんな教義を押し付けてくるなら、仏教なんていらないわ(笑う)と思ってしまうのですが、既存の日本仏教が既にゴータマ君の教えからかけ離れたものになっているから大丈夫でしょう。

Do you know 南無妙法蓮華経?

3.階級差別を否定したのか?

次はこれ。

もうお分かりかと思いますが、『ブッダ』とかに書かれているような人類皆平等みたいなものはなく、
それどころか初期仏典には「やっぱりクシャトリヤがナンバーワン!」などと書かれているというではありませんか。

さらに、「人は生まれではなく行いによって決まる」というのはジャイナ教とかでも言ってたみたいで、別に仏教固有のものではないとのこと。
まあ当時の状況を鑑みれば、新しく信者を取り込みたければそうなるのかもしれません。

そんな「人類皆平等」を説いていたゴータマ君は「神話のゴータマ君」に過ぎなかったという結果なのですが、その「神話のゴータマ君」の理念に多大な影響を受けて作成されたのが、現インド国憲法とのことであります。

要は神話だろうが歴史だろうが何だろうが、人々に影響を及ぼすものは及ぼすということで、
インドに限らず日本においても、京阪電車の車両には成田山(千葉のと同じだけど大阪別院)の御札が貼られているし、南海高野線の車掌さんが持っているバッグには高野山の御札(多分)が入っているじゃありませんか。

大阪の成田山。香里園からバスで行く。
高野山奥之院。

こんなん、初期仏教のシの字もない原型すらとどめていないもので、
ゴータマシッダールタと不動明王と何の関係があるんだ、さらに高野山なんてもはや空海に対する個人崇拝ではないか、
そもそも自然科学的見地からすれば、御札なんてあってもなくても同じやろ、などと思ってしまうわけですが、

たとえこれらの御札が仏教の根本からかけ離れた、ハッキリ言ってしまえば「嘘っぱち」のものであったとしても、京阪や南海の人々の交通安全を願う気持ちは「本物」だということで、それでOKじゃないかと私は思うわけであります。

以上、何か中途半端だけどメモがここで終わっているので今回はここまで。

次回はいつになるか分からないけど、次回に続く。





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