【看護のこと】私たちにできることは何か
ある利用者さんが、今日は世の中でいう「不調」というものであった。
そこには複雑な思いと背景があると私は感じている。
本人は落ち着かずソワソワと動き、「ママ」と言って玄関の扉を開けようと試みる。
目には涙を必死に訴える。何かに掻き立てられたように。
迎えが来ないことや、他の利用者さんの迎えが来るとがっかりして、叫ぶように家族を求める。
思いが伝わらない、求めるものが来ない、だんだんと不安が募り、癇癪にも似たような声で、ただただ母を求めていた。
「不調」とは、医療・介護・福祉の世界でよく使われている言葉だろう。
体の不調とはまた違う、精神面や社会面を強く含めた言葉だと私は思っている。
私は今日この場面を見ていて、ふと、幼い頃の自分を思い出した。
保育園に通っていた頃の話。
私の両親は共働きで、私は生後2ヶ月ごろから保育所に預けられ、母は仕事を再開した。
物心ついた時、母は仕事が忙しく、帰りが遅くなることがよくあった。
夕方になると同級生の親が迎えに来る。
バスに乗って帰っていく。
私は保育園の窓越しに、母親と手を繋いで帰っていく同級生をじっと見つめていた。
日が暮れて暗くなると、ますます不安になった。
本当に自分の迎えにきてくれるのか、どこか行ってしまったのではないか…
保母さんに囲まれて真っ暗になった外を見ながら、部屋に1人残る自分。
寂しかったのだと思う。
同級生の皆が、羨ましく感じていた。
またある時に、従兄弟の家に泊まりに行った。
夕方から夜までは楽しくて普通に過ごせるのに、夜になると途端に不安になった。
いつもの家族がいない。
帰らないで泊まるとか言ってみちゃったけど、だんだんと不安が押し寄せる。
夜は暗く、勝手もわからない。
怖さも募る。
結局泣き出して、私は母に迎えにきてもらった。
母を見たら一気に安堵した。
泊まれなかったことを後で親戚に馬鹿にされても、家に帰れてよかったと思った。
この本人は、30代。
障害があり、20代にできていたことが身体的にも社会的にもできなくなってきている。
「不調」の背景には何があるだろう。
過去、この本人が幼かった頃に、母は仕事で忙しく母を待つ日が続いていたようであった。
それが悪いわけではない。
本人の母は、忙しい中で本人が寂しくないように親戚の力をかりて最善のことを尽くしてきていたと思う。
1人にならないように、寂しくならないように。
障害があるなかで、本人が母のその思いをどこまで受け取れていたかわからない。
全く受け取れなかったわけではなく、きっと本人なりに感じていたものもあると思う。
大人になり、自分のコントロールが昔より本人ができなくなってしまっているとしたら
「寂しかった」あの頃の気持ちが助長して、不安を募らせているのかもしれない。
母が迎えにきてくれるのか、自分のことを見離したのではないか…
何かを必死に埋めようとしていることをみれば、不調という言葉で置き換えていいものかと思ってしまう。
ただ、年齢はもう大人になっている。
身体面ではそうであっても、心はもしかすると退行しているか、認知面の問題がでてきているのかもしれない。
一般的な人たちよりも年老いるのが早いと言われているその人たちは、もしかすると脳のダメージや萎縮によって、私という理性を足早に失っていくのかもしれない。
それとも、あの頃の自分が求めていたものを、本人は取り返そうとしているのか…
私たち医療者は、福祉の世界でこの場面を目の当たりにした時にどのようにあるべきかと常に悩んでいる。
急性的な反応に対して、服薬をして易刺激状態・過活動状態になった脳を鎮めることを第一に、その後は生活のリズムやスタイルを立て直すことが必要になると感じている。
だけれど、そこが最も難しい。
薬を使えば多少は前より気持ちは落ち着き、穏やかさを取り戻したように思えたりする。
その中で生活面に着目して介入するには、ご家族をはじめ、利用しているサービス等での他職種連携が必須であると思う。
精神面でのフォロー、家族の理解、本人の気持ち、生活への介入、相談…
薬を入れればいいというわけではない。
不調と俗にいう状態は、今どのようなことから生じているのかは、常に忘れずに考えていく必要がある。
私たちは、自分がわからないものに対しては身構えて近くに寄ることができなくなってしまう生き物だ。
だがよくよく考えてみれば、自分たちも経験しているにすぎないことかもしれない。
薬というものだけでなく、私たちはその人の精神面や背景も加味しなければ、その人をその人としてみれなくなってしまうし、適切な介入やケアはできないと思う。
その人がその人たらしめるものを抜かして考えたもので、私たちは良いケアはできないということになる。
明日もきっとこれは続く。
けれど本人の生活は今日明日の利用という世界だけではない。
その時だけの支援ではなくて、他職種でこの先を見つめていかなければ、ただの不調での出来事となってしまうだろう。
それはあまりに悲しいことで
それはあまりに心無いことではないか。
私たちにできることは何か。
私たちが、その人を見る目に心を無くしては、奪ってはいけないのではないか。