非暴力 と 受容力
おはようございます。
朝ごはんに頂いたカステラを食べたら、甘いもの欲が止まらなくなってしまった!のでちょっと落ち着かせようとPCを開きました。w
先日ヨガの教え「ヤマニヤマ」から、知足ーサントーシャについてとても内的個人的な記事を書きました。
今日は初めの項目である「非暴力・アヒンサー」を意識しながら書いていきます。
非暴力とは、「他を傷つけぬこと、無駄な殺生をせぬこと」という行動基礎があり、これはとてもわかりやすいですよね。
できれば、無駄な殺生はしたくないし、周りの人や他の生き物たちを傷つけることも避けたいと思う方は多いのではないかな。
もう少し派生させるのであれば、
これは現代的な観点というか、ある一定の教育や、集団の中で培われた慣習なのだろうけど、「自分を傷つける」ということをいつの間にか繰り返してしまう、というようなことも含まれるのではないかと思います。
わたしを含め、他の人の感情に敏感であったり、つい他人の意見を優先しがちであったり、
それが良くないとかではなくて、場合によっては自分を犠牲にし、傷ついていることもあるということ。
あ、なにか正論を述べたい訳ではないのです。
30年、40年も生きれば様々な関わりの中でさまざまな摩擦が生じて、その度傷ついたり、傷つけてしまったりしながら、出来事を通じて自分を知ったり変化したりしていくものだと思います。
ただ、なんだか自分の繰り返してしまうパターンや、好ましくない、もう要らないなっていう心の動きの癖のようなものがあれば、この「非暴力」の項目を思い出して舵を切り直すことができる、と経験上感じています。
その方法はヨガであったり瞑想やさまざまなセラピー、気づきの方法などその人の信頼できる手段であればよいのだと思うのですが、
ひとつ、成長する。と決めたところから、すぐに結果は出なくとも、確実に変容することができるのだと、長年ヨガや瞑想とともに生きてきて実感しています。
もちろん未だに出てくる癖もあるし、これからも色々と気づいていくのでしょうが。
「自分をふくめ、いろんな人のいろんな部分を受け入れていくのは勇気が要ることだよね。あなたはとても強い人だと思う。」
と先日友人が手紙に書いてくれたことがとても心強く嬉しかったのです。
自分のどーーーしても嫌なところとか、闇だなぁと思う部分
時期がくればそれと向き合い、受けいれられるときがきっとやってきます。
そうして時間がかかってもいい、わたしがわたしをただ受容できたとき
他人の行いや関係性においても「傷つける、傷つけられる」というイベントが減っていくのではないかと現在進行形で感じているところです。