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わたあめと、にゅうどう(短編:三題噺)
こちらは、先日わたしが拝読している読む人さんがお題を提供された「イヤホン、コーヒー、入道雲」に触発され、書いてみたものです。ただ、目安として書かれていた原稿用紙枚数を超過し、7枚ちょっとあります。
きっかけがあって、書きたいシーンが頭に浮かんだときというのは、あっというまに書けますね。おそらく手直しを除いて書いていたのは30分か1時間くらいではないかと思います。
蝉の声がする。
以前に親戚が暮らした地域のため少しは土地勘もあったが、記憶よりも界隈が洗練されて見えるのは、酷暑で日差しを少しでも遮ってくれる街路樹が、避暑地のように感じられるからだろうか。
思えば中学のころ、ここで一度だけ同じ避暑地感覚を味わった。意識がもうろうとしていたため、正確には思い出せない。だがわたしがあの日、少女を見たことだけは間違いではない。
用事を終えて、目指す店へ。アイボリーの壁にシンプルな木目調のドアを開けると、馴染みになりつつある店主が「いらっしゃいませ」と声をかけてきた。「今日も暑いですね。恒例の真夏メニューが出ましたので、よろしかったらどうぞ」と、手書きしなおした品書きを見せてくれる。
ここは最近の、気に入りの店だ。
長期入院が見込まれる親を見舞えるのが、地理的な問題から家族でわたしだけとなったため、こうして週に一度、東京から泊まりがけで隣県に来ている。ビジネスホテルを利用して、到着後と翌日に面会し、その足で東京に帰るという行程も五回目になった。
施設の都合で親にすぐ会えるとはかぎらない時間帯があったが、そんなとき近くに時間を潰せそうな店が何軒かあったのは幸いだった。なかでもこの喫茶店「わたあめ」は入店しやすく、このところ現地入りの日と東京に帰る前とで、連続で利用することもある。
とりあえずいつもの珈琲を注文してから、直筆のメニューをぼんやりと眺めた。真夏メニューはオレンジのマークが付いている。
この店がはいりやすいのは、対象の年齢層や性別をとくに設けていなさそうなところだった。初回は賑やかな女性グループの多い店だったらどうしようと警戒したが、個人で来て静かにしている客のほうが多かった。席の間隔はゆったりしていて開放感があるが、都会の狭い店でもないのになぜかカウンターもあって、席は自由に選ばせる。わたしは前回からカウンターに座ることにしていた。
メニューには、軽食のほかに甘いものもあった。店名にもなっている「わたあめ」は、小さめのガラスの器にアイスクリームと果物、そしてわたあめを表面に薄く散らした上から、ココアパウダーまたは粉糖で飾りをつけるというものだった。
メニューに走らせていた目が、ある場所で止まった。
真夏マーク付きで「にゅうどう」とある。
にゅうどう。
不意に、声が聞こえた。
——ママ、にゅうどうって、わたあめより、おいしいの?
自分の体が揺れているのか、めまいを起こしかけているのかと思ったが、あのときの記憶ゆえだ。あのときわたしは、ふらふらしていた。
店主に質問をしようかと思ったが、尋ねる前から、にゅうどうが何かはわかっている気がした。
ぐるぐると、あたりが揺れる。
わたしは中学生だった。この道を数百メートルほどいった場所で、自転車に乗っていたところを車に接触され、転倒した。
転げたわたしに、近くにいた人たちが手を貸してくれた。当時は携帯電話がまだ出がけで高級品だった。そして家族と泊まりに来ていた親戚の家の電話番号を知らず、わたしは誰も呼べなかった。めまいがただのめまいなのか、大けがをしたのかがわからず、不安で、震えていた。
店主が声をかけてきた。「ご気分でも?」
わたしは、やっと空気穴を開けてもらった玉羊羹のごとく、反射的に答えた。「綿雲が大きくなったものが入道雲なら、わたあめが大きくなって、にゅうどうあめになるんだから、きっともっと美味しいって、昔ある女の子が言ったんです」
言い終えて、しまったと思ったが、店主はただ目を丸くしているだけだった。
体の揺れがおさまると、わたしは出されていた珈琲をひとくち飲んで、妙なことを言ってすみませんとつぶやいた。琥珀のしずくはもうすぐ砂のようになった心にしみ、落ちつきをもたらしてくれるはずだった。
だが店主のほうも、何か言いたそうにしている。
聞いてもいいのかどうかと思っているのが表情に出ていたが、やがて別の客が会計のため近くまでやってきた。わたしは残りの珈琲をひと息に飲んだ。
店主に話をしたことで、記憶が一部つながった。
あの日、救急車はなかなか来なかった。実際に何分かかったのかはわからないが、不安でたまらないわたしには、長い時間に思われた。
小さな女の子とその母親が、そばで話しかけてくれていた。ひとりで不安にさせてはいけないと、気を遣ってくれたのだろう。
女の子が空の雲を指さし、そしてふたりは、綿雲と入道雲の話をした。だが説明されても子供には入道というものがわからず、あっさりと「わたぐものわたは、わたあめだから、にゅうどうは、もっとおおきくて、おいしいわたあめ」と、決めてしまったのだ。
まさかのなりゆきで、わたしは一瞬だけ状況も忘れ、くすっと笑ってしまった。
すると少女が、わたしが笑ったことがうれしかったのか、今度はこちらに話しかけてきた。
そうだ、何かを話しかけてくれた。わたしたちは何かを話した。なんだっただろうか。
客の会計を終えた店主が、もどってきた。空っぽの珈琲カップを見て、店のおごりですと言いながら注ぎ足してくれた。
しばらく、わたしたちのあいだには、静かな時間と、見えない距離があった。
あとは東京に帰るのみで、ほかに予定があるわけでもない。わたしが「にゅうどう」を頼んでみようかと考えはじめたとき、ようやく店主が口を開いた。
「わたあめも、にゅうどうも、妹の娘の話で作りました。かなり前ですが、この先で事故に遭った中学生がいたとかで…」すでに最後の方は、その中学生がわたしなのかどうかを探っている目だった。詮索したくはないがどうしようかと、まだ迷いがあるようだ。
わたしですと答えようとしたとき、店主がつづけた。「ですが、姪はイヤフォンのおにいちゃんが笑ってくれたと、ずっとずっと、何度も言っていました。その人は、男の子だったようです」
イヤフォン。
そうだった、あの子とわたしは、イヤフォンの話をした。
落ちつこうと、うつむきながら、両の頬を支えるように手で耳までも覆った。それがあの子にはイヤフォンに見えたらしい。
なにかきいてるの?
おんがくがきこえるの?
返事が、できなかった。何か答えてあげたかった。だが何も言葉が出てこなくて、わたしはただ、笑みをつくろうとした。涙が出たが、目をそらさずに、少女に向けて笑みを浮かべつづけた。
わたしはようやく、それは自分だったと、店主に告げた。
男の子のような服装であり、髪型だった。わたしは男のような見た目でいることで、世の中から目立たずにいられるのではと願った。そう考えた時期が、ちょうどそのころだったのだ。だがそこまで深くは、語れなかった。
記憶の、もやのかかっていた部分が晴れて、当時の自分のことも連動して思い出され、わたしは唐突に、泣きそうになっていた。
姪御さんの現在について何かを語りかけた店主に涙を見せまいと、来週また来ますと声をかけ、わたしは店を出た。
落ちつく時間が必要だった。
できることなら東京まで歩いて帰りたいほど、ひとりになりたかった。
蝉の声は、どこまでもつづいていた。
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